6
――歓声が聞こえる。
心のタガが外れたかのような熱狂的な声。それが無数に、地鳴りの如く響いている。
男は一人、狭い個室でパイプ椅子に腰掛け、頭からタオルを被っていた。上半身は裸、下はレザーパンツなのを見る限り、どこかの格闘家を思わせる。
声の対象は彼にではない。ドアの向こう――通路の先にある、リングで試合をしている者たちに送られている。
男はじっとしたまま、動こうとしなかった。集中しているのだ。彼が静かに呼吸をする度、汗ばんだ肉体が膨張、収縮を繰り返す。
彼にとってこの歓声は雑音にすらなかった。
幾重もこんな経験を重ねたこの男には慣れたもので、対処法は心得ていた。心臓の鼓動に全神経を注ぐのである。全ての血液が心臓へ辿り着き、再び身体中に巡る――その流れを感じていれば自然と雑音は入らない。自分の世界へと持っていけるのだ。
じわじわと汗の量が増し、床へと滴り落ちる。彼の足元には水溜まりが出来ていた。
と、突然ドアノブが回り始めた。ゆっくりと扉が開いていく。
「ッ!!」
男の瞳がカッ! と見開かれた。獣のようにそちらを睨んだかと思うと、勢いよく立ち上がり、一瞬でドアの方へ。殺意を込めて入ってくる人影に殴りかかった――が、男がその人物を視認すると、伸ばした右腕を相手の顔面の寸前で止めた。
「……なんだ、アンタか」
一瞬の間を置いて、男は言った。
入ってきたのは、白いパンツスーツの女性だった。ツバが広い上品な帽子を被り、その下にはやや大きめなサングラス。首もとには淡い緑のスカーフと、まるでどこかのファッションモデルのような格好だった。事実、プロポーションは抜群であった。いわゆる淑女といった感じだが、いかんせんこんな雑然とした場所にはあまりに似つかわしくない。
「すまなかったな、驚かせて」
男はそう謝罪したが、女性は臆した様子はまるでなかった。胸の下で腕組みしたまま身じろぎ一つせず、それどころか柔らかな笑みをたたえたまま、悠然と立っていた。
「かなり殺気立っているようね。――同士、メイガス」
「試合前はいつもこんな感じだ。ノックもなしに勝手に入ってくるアンタが悪い」
そっけなくメイガスは言うと、タオルを取った。
角張った顔つきに、黒のオールバック。前頭部には白いメッシュのラインが数本入っていた。現れたのが知人だったために警戒心は幾分解かれたようだが、眼光の鋭さは保たれたままだ。いや、彼にしたらこれが通常なのかもしれない。
「あら、意外。百戦錬磨のチャンピオンでも緊張なんてするのね」
「本番前に緊張しないやつは雑魚だ。俺の場合、神経を尖らせることでアドレナリンが分泌される。麻薬なんぞ比べられん程の効果が得られるんだよ」
「意図的にコントロールしているわけね。でも、それならドラッグを使った方が早くない?」
メイガスは鼻で笑う。
「薬は嫌いなんだよ。喉を通るときに独特の感触が残るだろ?」
それに、とメイガスはレザーブーツの踵で床を鳴らす。
「俺は永続的に注入されてんだよ」
「なるほどね」
メイガスの行動で得心がいったのか、肩をすくめた。
「……で? 今日はこんなところまで何しに来た? ここはアンタのような小綺麗なお嬢さんが来る場所じゃねぇぞ」
扉を隔てて歓声が漏れ聞こえる。女性は扉に寄りかかり、
「そうみたいね。ここへ来る途中、ひどく注目されてしまったわ。おかげで退屈しなかったけど」
「アンタを襲うなんて、余程のバカだな。いや、抑えているから分かんねぇのか。――何人ヤった?」
「それはどちらの意味?」
「…………」
メイガスが露骨に顔をしかめた。女性は彼の反応を楽しんでいるのか、クスクスと笑い、
「さぁ? 何人かしら。私はただ歩いていただけだもの。後で振り返ったら、そこら中に肉塊が転がってたわ」
「さすがは“不帰の白銀”……、と言いたいところだが、あまり派手にやってくれるなよ。騒ぎになると厄介だ」
「平気よ。こんな荒涼とした場所でいくら死人が出ようが、連中は見て見ぬふりしかしないわ」
「……それもそうか」
「あれを派手だと言うなら、あなたの爆破はどうなのかしらね? あっちの方が余程凄惨だと思うけど」
挑発的な物言いにメイガスの眉間に皺が寄る。
「ああしろと命令したのはアンタだろうが。俺は言われた通りにやっただけだ」
「最高の結果よ。我々の存在を世に知らしめるいいアピールになった。やはり、あなたをスカウトして正解だったようね」
「そうかい。アンタには感謝してるぜ。俺のドン底人生に終止符を打ってくれたんだからな」
わずかに笑みを漏らすメイガス。
「……いよいよなんだな」
「ええ」
ゴキリ、ゴキリと不快な音が狭い室内に響く。メイガスが指の関節を鳴らしている。そして、メイガスは右腕を前に突きだして力強く拳を握ると、
「この時をどれ程待ちわびたか。これから楽しくなりそうだ」
喜びに打ち震えるメイガス。彼のことを“同士”と呼んだ女性はメイガスよりも冷静に、しかして高揚が胸に渦巻いているかのようだった。女性は、サングラスをゆっくりと外すと、こう言った。
「ついに千引石は崩壊した。黄泉比良坂への案内人は我ら“伊邪那美の継承者”が務める」




