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精霊世界のINJECTION  作者: 如月誠
第三章 アンダーグラウンド
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 ――歓声が聞こえる。


 心のタガが外れたかのような熱狂的な声。それが無数に、地鳴りの如く響いている。


 男は一人、狭い個室でパイプ椅子に腰掛け、頭からタオルを被っていた。上半身は裸、下はレザーパンツなのを見る限り、どこかの格闘家を思わせる。

 声の対象は彼にではない。ドアの向こう――通路の先にある、リングで試合をしている者たちに送られている。

 男はじっとしたまま、動こうとしなかった。集中しているのだ。彼が静かに呼吸をする度、汗ばんだ肉体が膨張、収縮を繰り返す。

 彼にとってこの歓声は雑音にすらなかった。

 幾重もこんな経験を重ねたこの男には慣れたもので、対処法は心得ていた。心臓の鼓動に全神経を注ぐのである。全ての血液が心臓へ辿り着き、再び身体中に巡る――その流れを感じていれば自然と雑音は入らない。自分の世界へと持っていけるのだ。

 じわじわと汗の量が増し、床へと滴り落ちる。彼の足元には水溜まりが出来ていた。

 と、突然ドアノブが回り始めた。ゆっくりと扉が開いていく。


「ッ!!」


 男の瞳がカッ! と見開かれた。獣のようにそちらを睨んだかと思うと、勢いよく立ち上がり、一瞬でドアの方へ。殺意を込めて入ってくる人影に殴りかかった――が、男がその人物を視認すると、伸ばした右腕を相手の顔面の寸前で止めた。


「……なんだ、アンタか」


 一瞬の間を置いて、男は言った。

 入ってきたのは、白いパンツスーツの女性だった。ツバが広い上品な帽子を被り、その下にはやや大きめなサングラス。首もとには淡い緑のスカーフと、まるでどこかのファッションモデルのような格好だった。事実、プロポーションは抜群であった。いわゆる淑女といった感じだが、いかんせんこんな雑然とした場所にはあまりに似つかわしくない。


「すまなかったな、驚かせて」


 男はそう謝罪したが、女性は臆した様子はまるでなかった。胸の下で腕組みしたまま身じろぎ一つせず、それどころか柔らかな笑みをたたえたまま、悠然と立っていた。


「かなり殺気立っているようね。――同士、メイガス」

「試合前はいつもこんな感じだ。ノックもなしに勝手に入ってくるアンタが悪い」


 そっけなくメイガスは言うと、タオルを取った。

 角張った顔つきに、黒のオールバック。前頭部には白いメッシュのラインが数本入っていた。現れたのが知人だったために警戒心は幾分解かれたようだが、眼光の鋭さは保たれたままだ。いや、彼にしたらこれが通常なのかもしれない。


「あら、意外。百戦錬磨のチャンピオンでも緊張なんてするのね」

「本番前に緊張しないやつは雑魚だ。俺の場合、神経を尖らせることでアドレナリンが分泌される。麻薬なんぞ比べられん程の効果が得られるんだよ」

「意図的にコントロールしているわけね。でも、それならドラッグを使った方が早くない?」


 メイガスは鼻で笑う。


「薬は嫌いなんだよ。喉を通るときに独特の感触が残るだろ?」


 それに、とメイガスはレザーブーツの踵で床を鳴らす。


「俺は永続的に注入されてんだよ」

「なるほどね」


 メイガスの行動で得心がいったのか、肩をすくめた。


「……で? 今日はこんなところまで何しに来た? ここはアンタのような小綺麗なお嬢さんが来る場所じゃねぇぞ」


 扉を隔てて歓声が漏れ聞こえる。女性は扉に寄りかかり、


「そうみたいね。ここへ来る途中、ひどく注目されてしまったわ。おかげで退屈しなかったけど」

「アンタを襲うなんて、余程のバカだな。いや、抑えているから分かんねぇのか。――何人ヤった?」

「それはどちらの意味?」

「…………」


 メイガスが露骨に顔をしかめた。女性は彼の反応を楽しんでいるのか、クスクスと笑い、


「さぁ? 何人かしら。私はただ歩いていただけだもの。後で振り返ったら、そこら中に肉塊(ゴミ)が転がってたわ」

「さすがは“不帰の白銀”……、と言いたいところだが、あまり派手にやってくれるなよ。騒ぎになると厄介だ」

「平気よ。こんな荒涼とした場所でいくら死人が出ようが、連中は見て見ぬふりしかしないわ」

「……それもそうか」

「あれを派手だと言うなら、あなたの爆破はどうなのかしらね? あっちの方が余程凄惨だと思うけど」


 挑発的な物言いにメイガスの眉間に皺が寄る。


「ああしろと命令したのはアンタだろうが。俺は言われた通りにやっただけだ」

「最高の結果よ。我々の存在を世に知らしめるいいアピールになった。やはり、あなたをスカウトして正解だったようね」

「そうかい。アンタには感謝してるぜ。俺のドン底人生に終止符を打ってくれたんだからな」


 わずかに笑みを漏らすメイガス。


「……いよいよなんだな」

「ええ」


 ゴキリ、ゴキリと不快な音が狭い室内に響く。メイガスが指の関節を鳴らしている。そして、メイガスは右腕を前に突きだして力強く拳を握ると、


「この時をどれ程待ちわびたか。これから楽しくなりそうだ」


 喜びに打ち震えるメイガス。彼のことを“同士”と呼んだ女性はメイガスよりも冷静に、しかして高揚が胸に渦巻いているかのようだった。女性は、サングラスをゆっくりと外すと、こう言った。


「ついに千引石は崩壊した。黄泉比良坂への案内人は我ら“伊邪那美(いざなみ)の継承者”が務める」





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