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「うへ~、ようやく一段落か……」
どうにか風船が底を突く前に列がはけ、虎鉄はほっと胸を撫で下ろした。列の最後の子供が風船を受け取ると、大きな声で礼を言い、嬉しそうに駆けていった。その一言と笑顔で、虎鉄は今までの苦労が報われたような気がした。
しかし、気持ちは晴れ晴れとしたものの、肉体的には疲れたままだ。なにせあれだけの列の子供を一人で捌いたのだ。疲れるのは当たり前だ。虎鉄はボンベのバルブを閉め、一時的な店じまいをする。空のダンボールを地面に敷き、その上にあぐらをかいた。
腕時計を見ると、もう昼前だった。どおりで腹も減るわけだ。忙しい時には気にならなかったが、潮風に混じってやって来る屋台の焼きそばやお好み焼きのソースの匂いが、胃袋をキュンキュン刺激する。
「畜生、腹が減ったぜ……」
客が引けた今なら、ちょっとくらい屋台にしけ込んでもいいだろうという誘惑が虎鉄の頭をよぎる。ガスボンベなど、どうせ誰も盗んだりしないだろうし、何より昔の人は良いことを言った。『腹が減っては戦ができぬ』と。そうと決まれば話は早い。食欲の命じるまま、虎鉄が第一目標を大好物の焼きそばの屋台に定め、立ち上がりかけたその時、
「お疲れさん、気張っとるか?」
「おーーーーぅっ!」
いきなり背中とシャツの間に冷たい何かが差し込まれ、虎鉄はニセ外国人のような悲鳴を上げる。
「なんや、アホみたいに気持ち悪い声上げて」
振り向くとそこには、右手にラムネの瓶二本、左手にビニール袋を持ったエリサが立っていた。
「何だよ、お前かよ。びっくりしたなあ」
「なんやとはなんやねん。せっかく差し入れ持って来たったのに。いらんのかいな?」
エリサは不満そうな顔で左手に持ったビニール袋を掲げる。空腹によって強化された虎鉄の嗅覚は、ビニール袋から漏れ出るソースの香りを敏感に察知していた。中身は焼きそばだ。間違いない。
「お前、それ、」
「あんた出店の焼きそば好きやろ? せやから買ってきたったんや。ちょうど今誰も来てへんし、ちゃっちゃと食べ」
「お、おう……」
手渡されたビニール袋には、パックから溢れそうなほど大盛りの焼きそばが二つ入っていた。まだ熱々だった。
「それと、ほい」
ことり、と硬い音を立てて虎鉄の隣に降り立ったのは、キンキンに冷えたラムネの瓶だった。どうやらさっき背中に入った冷たいものの正体はこれのようだ。
焼きそばを取り出し、割り箸を手にさあ食べようとすると、エリサが「ウチも食べよ」と残った焼きそばと割り箸を手に虎鉄の隣に座ってきた。だが尻が段ボールからはみ出て具合が悪いのか、こちらを肩でぐいぐい押してきた。
「ちょっと虎鉄、もっと詰めて。ウチが座られへんやろ」
そう言われても、生憎とこの段ボールは一人で座るにはちょっと大きいが、二人で座るにはちょっと小さい。ぴったりと肩を寄せ合えば何とか二人座れないこともないが、それは恥ずかしいし、第一自分が先に座っていたのに後から来たエリサに譲るのも何だか釈然としない。
「俺が最初に座ってたんだから、お前は地べたに座れよ」
「何言うてんねんアホ。女の子が地べたに座るなんてはしたない真似ができるかいな。男らしく、ウチに譲り」
男も女も関係ないだろ。だいたいお前のケツがでかすぎるんだよ――なんてことを自分の胸や尻が全国女子平均よりもかなり大きいことを密かに気にしているエリサに言おうものなら、怒り狂った彼女にイタリアンマフィアも泣いて許しを請うような拷問をされそうなので、虎鉄は男らしく黙って段ボールを譲った。
「お、感心感心。ほな、いただきます」
隣で渋い顔で地べたに座る幼馴染の気も知らず、エリサはにこにこと両手を合わせる。虎鉄もそれに続いた。
しばらく二人して黙々と焼きそばを食べていると、
「えらい盛況やったな。もうその道で食べていけるんちゃう?」
珍しくエリサが褒めてきた。
「まあ師匠の手伝いで風船配るのももう三年目だしな。いい加減慣れたとはいえ、そこまでじゃねえよ」
「いやいや、たった三年、しかも年に一回のここのバザーの手伝い程度であれだけできたら大したもんやで。それにあの大行列。お金取ったらけっこう儲かるんちゃうか?」
「ガキから金が取れるかよ。それより、見てたんならお前も手伝えっつーの」
「いや~、手伝いたいのは山々やったんやけど、ウチが行くといっつも子供らに髪の毛掴まれるんよ。一人二人やったらええけど、さすがにあの量の子らにやられたらハゲるわ」
苦笑いとともに、エリサはポニーテールにした長い金髪をぽんぽんと叩く。
そうなのだ。エリサはいつもこうして教会の催し物を手伝っているのだが、金髪碧眼で関西弁とどうしようもなく目立つ彼女は、子供たちにいつもちょっかいを出されるのだ。別に彼らはエリサを嫌ったり警戒しているわけではなく、むしろ友好の現れなのだが、子供ゆえの無邪気で手加減のない歓迎の仕方に、彼女は少々辟易しているのだった。たまに抱きついて胸を揉んでくるエロガキもいるし。
「まあ……お前も大変だな」
「ええんよ、好きでやってるから」
「お前子供好きだもんなあ」
「うん、めっちゃ好き」
とびっきりの笑顔で言い切るエリサに、虎鉄は思わず焼きそばを食べる手を止める。
「ん? どないしたん?」
「あ、いや……何でもない」
「さよか? それより早よ食べや。昼から来るお客さんもおるからな。またひと頑張りしてもらうで」
「タダでこき使い過ぎだろ……」
「アホ、人聞きの悪いこと言いな。焼きそば食べてラムネ飲んだやろ? その分はキッチリ働いてもらうで」
「え? なに? ちょっと待て。今飲み食いした分が俺の今日のバイト代なのか? やすっ! 俺のバイト代やっす! 労基所に訴えてやる! エリサ、次に会うのは法廷だぞ!」
虎鉄は法廷に立つ弁護士気取りで、エリサにびしっと音がする勢いで指を突きつける。だが次の瞬間、突き出した食指をエリサにチョップで叩き落された。
「アホ。神様の庭たる教会内は治外法権や。そして天にまします我らが父はかつてこう言うた。『最低賃金? ナニソレ?』と。わかるな?」
もの凄いいい笑顔で言ってるが、エリサの全身から滲み出る殺気にも似た迫力に、虎鉄の動物的本能はこれ以上何も言うなと警告を発していた。下手に動くと殺られる。
「アイ、マム。了解しました……」
「わかればええねん。ほな、午後も気張って働きや」
エリサは食べ終わった焼きそばの空容器をビニール袋に詰め込むと、自分のと一緒に虎鉄が飲んでいたラムネの空瓶を手にした。
「おい、何すんだよ?」
「何って、ついでに空き瓶返してきたろと思ったんやけど?」
「俺はいいよ。ちょうど瓶が欲しかったから、後で持って帰るんだ」
「ラムネの瓶を? なんに使うねん、こんなもん」
不思議そうな顔をしたエリサから自分のラムネの空瓶を返してもらうと、虎鉄はあぐらをかいていた状態から、右膝を立てて座り直す。
「これは、こうやって使うんだよ」
虎鉄は自分の右スネをラムネの瓶で軽く叩いた。ごん、と明らかに骨に当たった、聞いてるだけで痛くなる音にエリサが眉をひそめる。
「~~~~~~~~~ッ!」
何せ弁慶の泣き所をモロに瓶で叩いたのだ。痛いに決まってる。しかしここで「痛い!」と情けない声を上げるのは男の意地にかけてもできない。虎鉄は涙目になりながらも、歯を食いしばって声を上げるのをどうにか堪えた。
「…………な?」
「何が『な?』やねん。ちっともわからんわ」
まあ当然だろう。虎鉄だってあまりの痛みに記憶が飛んで、自分がどうしてこんな馬鹿な真似をしたのか失念したほどだ。
「昔の格闘技雑誌に書いてあったんだよ。スネを鍛えるには瓶で叩けって。本当はビール瓶がいいらしいんだが、うちの父ちゃん下戸だから酒飲まないんだよなあ」
「それでラムネの瓶かいな。せやけどあんた、アペイロンになったら瓶どころか金属バットで思いっきりどついても何ともないんやろ? わざわざ生身で痛い思いして、ドMかいな?」
「俺は俺のまま強くなりたいんだよ。だいたい、アペイロンの性能で強くなっても、それは俺自身の強さじゃねえ。それじゃあピストルやナイフを持って強くなったつもりでいる馬鹿と同じだ」
どんなに強い武器を持っていても、使いこなせなければ意味が無い。また、武器の性能に頼りきって、己の研鑽を怠るようでは武器を持つ資格など無い。忘れてはならないのは、所詮武器は道具であり、使うのは人間なのだ。その武器を活かすも殺すも、使う人間次第である。だから虎鉄は一日でも早くアペイロンを纏うに相応しい実力を手に入れるべく、できる限りの努力をしていた。スネを鍛えるのもその一環である。
「男ってほんまめんどくさいなあ……。で、スネなんか鍛えてどないすんの?」
「スネを鍛えると、蹴りの威力が上がったり、相手の蹴りをブロックした時にダメージを抑えられるんだ」
「蹴りねえ……。その短い足が届くんかいな? それよりも変に叩いてこれ以上短くなったらどないすんねん」
「縮まねえよ! 鉋の刃じゃあるまいし!」
「お? ええ返しやねえ。いやあ、ええオチがついたわ」
小さく拍手をするとエリサは立ち上がり、空いた段ボールを譲ってくれた。虎鉄は今さらという感じがするものの、気持ちを汲むつもりで地べたから段ボールに座り直した。
「ほなウチそろそろ行くわ」
「行くって、どこへだよ?」
「そろそろお昼やからな。一人で出店してる人のとこ行って、食事やトイレの間店番してあげるんよ」
「なるほど。そういう手伝いもあるか」
「せやけど、ウチ一人じゃ全然人手が足りへん。もうてんてこ舞いやわ」
エリサは大仰に額の汗を拭う真似をする。どうやら一足早い昼食も、虎鉄のためというわけではなく、自分も早めに済ませてバザー参加者の昼食の時間に動けるようにするためのようだ。
「だったら俺も手伝おうか? 風船なら店番しながらでもできるだろうし」
「いや、ええねん」
エリサは虎鉄の申し出をきっぱりと断る。
「こんなこともあろうかと、頼りになる助っ人を呼んであるから」
にやり、と音がしそうなエリサの笑顔に、虎鉄は瞬時にその助っ人の顔が思い浮かんだ。心の中で合掌する。お互い人使いの荒い友達を持ったもんだ、と。
次回の更新は7月6日(予定)です