13
盾が斬られた。
金属がこすれ合う、歯が痛くなるような音がしたと思ったら、目の前にかざしていた厚さ十センチはあるネオ・オリハルコン製の盾の上半分がすっぱりと斬られて落ちた。おかげで向こうがよく見える。
盾の上半分は、やや左上がりに斜めに斬られており、恐らくガヴィ=アオンは向かって左から右へと逆胴のような軌道で刀を振ったのだろう。見えなかったけど。そして少し角度がついたため、上半分が坂を滑るようにずれていき、どさりと砂の上に落ちて霧散した。漫画みたいだった。
停止しそうになる思考を、虎鉄は無理矢理回転させる。ここで止まったら、それこそただの試し斬りの的だ。意識を強引に鋭敏にしたおかげか、今までまったく感じる事のできなかったガヴィ=アオンの初動を察知することができた。
それはやはり、異常としか言いようのない圧倒的な剣撃。あまりにも速すぎて、一万もの斬撃が同時に襲いかかってくる錯覚すら憶える。縦横無尽に張り巡らされた剣筋は、もはや点や線ではなく面の攻撃。巨大なハエ叩きに狙われたハエの心境を、虎鉄は理解した。それはまさしく、死の具現化。
「う、うわああああああああああっ!!」
恐怖のあまり、悲鳴を上げながら盾を腕から切り離した。運が良かった。あと千分の一秒遅かったら、アペイロンは先の流木と同じ運命を辿っていただろう。
無様に砂地を転がって逃げる。なりふり構ってなどいられなかった。切り離した盾が塵となって風に舞う。エネルギー供給が絶たれてナノマシンが自滅したのか、ガヴィ=アオンに斬られて散ったのか判別がつかなかった。だがきっと後者だと思う。これからは、もうどれだけ盾を分厚くしても役には立たないだろう。そう直感する。
あいつはもう、自由にネオ・オリハルコンを斬れる。
認めよう。あいつは強い。恐らく、ドラコ=フォルティスよりも。
ならば、覚悟を決めるしかない。
覚悟とは、命を賭けるとか手足を失うというものではない。
何が何でも勝つという覚悟だ。
今回の事で身に沁みる。相手は、本当にルール無用の悪党だという事が。たまたまガヴィ=アオンのような変わり者だったおかげで浩一は事なきを得たが、次も絶対そうだとは限らないのだ。ここで虎鉄が負けても、話が終わるわけではない。もう地球の情報は、奴らに知れ渡ってしまっているのだ。未開の地に守り人が不在とわかれば、奴らは喜び勇んで悪さをしに来るだろう。仮にガヴィ=アオンに勝てたとしても、さらなる強敵が現れて、それに負ければ同じ事である。
つまり残された道は、アペイロンが最強にならなければいけないのだ。
そのために必要ならば、
この地球を、いや、仲間たちを守れるのならば、
虎鉄は、喜んでヒトを捨てる。
ヒトを超える。
――内燃氣環――無限開放。
呼吸を整える。さっき構築されたばかりの脳や神経の回路が再び組み直される。より速く、より強く、より正確に、より確実に。機械など、足元にも及ばないほどに。溢れ出る無限のエネルギーは、ナノマシン化されたネオ・オリハルコンを活性化させ、一瞬でアペイロンのバージョンアップを終えた。
「む……」
アペイロンの身体からみなぎるエネルギーに、ガヴィ=アオンがわずかに警戒する素振りを見せる。柄に回した指が一度離れ、握りを確認するように一本ずつ小指から握り直す。
「どうやら、次の一撃ですべてが決まるようだな」
アペイロンの気配を察し、ガヴィ=アオンも覚悟を決める。いや、彼ならとうの昔に、それこそ己の肉体を捨てる時に覚悟を決めているだろう。
「ああ、勝負だ」
虎鉄は右腕を顔の前に上げ、掌を見つめる。そこから気合や念を込めるように、ゆっくりと小指から握り込んで拳を作る。
この一撃に、すべてを賭けるために。
舞哉の言葉を思い出す。
『お前の持ち味はその拳だからな。この世のすべてを打ち砕く、絶対の信頼がおける武器になるまで鍛え抜け!』
絶対の信頼。それはきっと、ガヴィ=アオンが自分の剣に持っているものと同じものだろう。奴はきっと、この世に斬れないものなど無いと本気で信じているに違いない。ならば、自分もこの拳で砕けないものはこの宇宙にひとつも無いと本気で信じよう。
握り込んだ四本の指の上に、最後に親指を乗せて拳を固める。だがあくまで握りは軽く、的に当たる瞬間までは握りの形を維持する程度だ。そうでなければ筋肉の張りが腕の振りを邪魔をして、拳の速度が損なわれる。
鼻から大きく息を吸い、口からゆっくりと肺の中の空気をすべて絞り出すように吐き出す。二度三度繰り返し、丹田に氣を充実させる。
虎鉄が腰を落とすと同時に、ガヴィ=アオンも同様に腰を落として構えた。居合の型だろうか。棒を腰の左に挿したまま、柄に軽く右手を添えるようにしてじりじりとこちらに間合いを詰めてくる。
虎鉄も足の指で地面をたぐるように、ガヴィ=アオンとの間合いを詰める。互いに数センチの距離を進むたびに、二人の間を埋める空気の密度がどんどん濃くなっていくように感じられる。
アペイロンの制空圏とガヴィ=アオンの制空圏がじょじょに近づいていく。この戦いを見守る者たちの中では、舞哉だけが見える。二人の周囲に球形に張り巡らされた間合いのオーラが、引き合う磁石のようにゆっくりと重なろうとしている姿が。
二人の集中力は、今や極限を超えていた。彼らの神経は時間を無限に引き伸ばし、一秒を数時間のように感じていることだろう。
光速さえも超える超速度の思考の中で、虎鉄は何度も舞哉の言葉を反芻する。これが最後のチャンスだ。ここであの言葉の真意を理解できなければ、すべては水泡に帰す。
だが何度思い返してみても、禅問答のように答えが出ない。苛立ちが焦りを呼び、思考の中にノイズが走る。焦るな。虎鉄は雑音のように混じる思考のノイズを強引にねじ伏せた。頭で考えて答えが出ないのなら、もうぶっつけ本番でやるしかない。最後の最後に頼りになるのは、生き延びようとする本能だ。虎鉄は自分の中の生存本能に賭けることにした。
限界を超えた集中によって視界が収束し、明度が落ちた薄暗がりの中で、二人の間合いがついに重なる。
最初に動いたのは、ガヴィ=アオンだった。
今度ははっきりと見える。ガヴィ=アオンの右手が柄を握り、左の腰から振り抜くと同時に背中のジェネレーターからエネルギーが瞬間的に供給され、ナノマシンで制御されたネオ・オリハルコンの棒が宇宙最高の剣へと姿を変える。
一万分の一秒の差で、今度はアペイロンが動いた。剣の軌道を瞬時に察知し、そこへ目がけて右の拳を叩き込む。
まず最初に右足が踏み込んだ。続いて腰が回り、ねっとりと絡みつくような空気の壁がアペイロンの拳を迎える。
このまま振り抜けば、またもや衝撃波が発生する。つまり、それだけ威力が削がれるという事だ。この生死を分ける究極の状況で、わずかでも拳の威力が削がれるのは死活問題である。
そうしている間にも、右拳は音の壁を超える。光を超えて加速した脳は、今まさに衝撃波を生み出そうとしている拳の状況をはっきりと捉えていた。
右拳の威力によって圧縮された空気が、限界を超えて爆ぜようとしたそのとき、
『大事なのは一点集中だ!!』
突如として閃いた。宇宙正拳突きの基本、一点集中。拳で当てるのは、面ではなく点。即ち中指と人差し指の基節骨の部分。これまで広い面積を振り回していたから、無駄に大気を圧縮して衝撃波が発生していたのだ。だからそうならないために、面ではなく点で、団扇で扇ぐのではなく、針で突くような鋭利な一撃を。
意識を拳の一点に集中する。イメージするのは、ドリルのようなすべてを砕きながらも一直線に進む姿。何がぶち当たっても、粉々にする強さ。それこそ、まさに虎鉄の求めていた無敵の拳。
「さあ、ぶち抜くぜ」
すべてを砕く拳は、大気をも砕く。大気をも砕く拳は、発生しようとしていた衝撃波すらも砕く。音の爆発すら砕く拳は、もはや何の摩擦も抑止も制限もなく、ただ一直線に獲物へと突き進んだ。
「宇宙正拳突き!!」
ガヴィ=アオンの剣と、虎鉄の拳がぶつかる。
ネオ・オリハルコンの剣と、ネオ・オリハルコンの拳による真っ向勝負。勝敗を分けるのは、どちらが己の武器に絶対の信頼をおいているか。
激突の衝撃で、大気が電離放射してプラズマが発生する。お互い自分の攻撃による衝撃波は相殺していたが、衝突のショックで爆発みたいな衝撃波が生まれていた。
プラズマがばちばちと唸る中、ガヴィ=アオンは剣を振り抜く途中で、アペイロンは拳を打ち抜く途中の体勢で止まっており、二人の力はほぼ拮抗しているかに見えた。
だが戦況はじわじわと動いていた。
虎鉄が拳に痛みを感じる。
ガヴィ=アオンの刃がゆっくりと、だが着実にアペイロンの拳に食い込んできていた。
超スローモーションの世界の中、自分の拳に刃が入り込んでくるのを見て、虎鉄は恐怖よりも何よりも先に、自分自身への怒りを憶えた。
自分が押されているのは、相手よりも絶対が弱いからだ。ガヴィ=アオンの自分の剣に対する絶対の信頼よりも、虎鉄の自分の拳に対する絶対の信頼の方が弱いから。
アペイロンのネオ・オリハルコンは、内燃氣環からのエネルギー供給によって、その性能が決まってくる。つまり、虎鉄の魂の燃焼具合――どれだけアペイロンを信頼しているか、どれだけテンションが上がっているかによって、アペイロンは無敵で無限で最強になったりなれなかったりするのだ。
今こうしてガヴィ=アオンの刃に押されているということは、言い換えれば彼の背中に背負っている金庫みたいなジェネレーターのエネルギー出力の方が、虎鉄の内燃氣環による魂の燃焼よりも多いということになる。
頭にくる。
あんなコンビニのレジスターみたいな箱に負けている自分に。自分のもっとも信頼できる武器を、信頼しきれていなかった自分に。
そして――
すでに勝った気になっているガヴィ=アオンの余裕の態度に。
「……なめんじゃねえぞこの野郎」
ふつふつと怒りが湧く。奥歯を噛み締め、握った拳にさらに力を込め、湧き上がった怒りを放出せずに肚の中に循環させる。
燃料を放り込まれた内燃氣環が、エネルギー保存の法則とか質量保存の法則とか物理法則を片っ端から無視して無限のエネルギーを生み出す。
生み出されたエネルギーは、最優先でアペイロンの右の拳へと投入される。太陽の熱核融合に等しいエネルギーが供給され、ナノマシン化されたネオ・オリハルコンが爆発的に自己再生と自己修復と自己増殖を繰り返す。
「む……!?」
切っ先から伝わる奇妙な感触に、半ば勝利を確信していたであろうガヴィ=アオンが疑問の唸り声を上げる。斬り裂いたはずのアペイロンの拳が、刃をぐいぐい押し返しているのだ。
その異様な光景に、ガヴィ=アオンは言葉を失う。機械の目が誤った視覚情報を受信し、機械の脳がエラーを起こしているのではないかと疑いたくなる。
アペイロンの右拳の傷はもの凄い速度で傷が癒えていき、遂にはその勢いが刃が拳を斬る速度を追い越し、完全に刃を押し戻す。これで勝負は振り出しに戻った。
再び仕切り直された勝負であったが、やはり一日の長は伊達ではない。ガヴィ=アオンの振り出した刀の刃は、ネオ・オリハルコンを斬り裂きはしないものの、アペイロンの拳の勢いを止めるどころか、逆に押し返してきた。
硬度対決はどうにか引き分けに持っていけたが、今度は単純に筋力で負けているのか。戦闘用に強化されたドラコ=フォルティスと違い、普通のサイボーグのように見えるあの細身のどこに、これだけの力があるのだろう。それとも、剣の道を極めし先には、肉体のポテンシャルなど無意味になる領域でもあるのだろうか。
そんなまさか、と思ってガヴィ=アオンの構えをつぶさに観察してみたら、意外なことに気がついた。
左の腰から抜き打ちのよう刀を振るった構えから、左足が前に出ているのは納得できる。だがその前に出た左足が、よくよく見てみると地面に着いていないではないか。わずかに宙に浮いている。
これはどういうことかと、今度は逆の右足を目で追う。すると、こちらは足の裏を全部地面にへばりつけるようにして、地面を踏ん張っていた。これではまるで、今まさにスタートを切った短距離ランナーのようではないか。
はっとして次は刀へと注目する。するとどうだろう。虎鉄はガヴィ=アオンが如何にしてアペイロンをも凌駕する踏み込みを成し得ていたのか、事ここに至ってようやく理解した。そして遂に、舞哉の言葉もすべて呑み込めた。
ガヴィ=アオンは、左足で踏み込んだ勢いを右足を接地させて殺すことなく、そのまま刀に体重と威力を加算するようにしていたのだ。そして今もまだ、左足は踏み込みを継続している。だからアペイロンが押し返されたのだ。
『お前はただでさえ目方が軽いんだから、拳に全体重を乗せるくらいの意気込みでぶちかませ。腰の回転とか手首の捻りとか細かいことは気にするな。大事なのは足だ足。パンチってのは足で打つってのを忘れるな』
ようやく理解した。パンチを足で打つという事の意味を。
「そうとわかれば――」
虎鉄は踏み込んだ右足を地面から離し、蹴り足で再び地面を蹴る。
爆発的な脚力による踏み込みで、砂浜の砂がプレス機にかけられたように圧縮される。圧力が熱に変換され、砂が溶解しアペイロンの足跡がガラス質へと変化した砂に刻まれる。
踏み込んだ勢いを殺さずに、そのまま前体重を拳に乗せて打ち込む。当然力は拳の一点に集中。全エネルギーをこの一撃に集約する。
これこそ、宇宙格闘術の奥義、
「真・宇宙正拳突き!!」
最高の硬度、最速の振り、最大のエネルギーが一点に集められし時、その先で物質が原型を留めることは不可能。
つまり、当たった物はすべて砕ける。
「アペイロン《無限大》の名は、伊達じゃねえ!!」
「ぬっく……っ!!」
突然勢いを増したアペイロンの拳の威力に、ガヴィ=アオンは苦しそう声を漏らす。が、すぐに体勢を立て直し、前にも増して刀を押し込んでくる。
力と力、技と技がぶつかり合い、刀と拳の接点の大気がさらに圧縮され、これまでの倍近い数のプラズマ球が発生し、互いに干渉して放電を始める。大気の密度が限界を超え、あわやこのままでは重力崩壊を起こし、柴楽町にシュヴァルツシルト半径が発生するのではないかと危ぶまれたそのとき、
ガヴィ=アオンの刀が、唐突に折れた。
折れた刀は、すぐに塵となって消えた。
力の拮抗が崩れた瞬間、アペイロンの拳は解き放たれ、全力で振り抜いた拳圧は大量に発生したプラズマ球を巻き添えにして大海原に消えた。
勝敗が決し張り詰めた緊張が解けた瞬間、加速された脳や神経によって引き伸ばされていた時間が元の速度に戻る。凝固した一秒が解凍され、時計の針と同じリズムで動き出す。
遥か遠くの水平線に、巨大な水柱が立った。舞哉たちには、何かが起きたことすら分からないだろう。すべては一万分の一秒の世界で起こり、その中で終わった出来事だ。
まだ放電があちこちで起こっている砂浜で、アペイロンは拳を打ち出した姿で、ガヴィ=アオンは呆然と折れた刀を見つめた姿のまま立ち尽くしていた。
長い残心の後、ゆっくりとアペイロンが打ち出した拳と踏み込んだ足を引き戻し、直立の姿勢に戻って大きく息を吐き出す。
ガヴィ=アオンは折れて元の銀色の棒に戻ったネオ・オリハルコンの刀を、一度血を払うように足元に振って左の腰に戻した。そのままどっかりと砂浜にあぐらで座り込み、
「好きにせい」
自らの完敗を認めた。
これには虎鉄も呆気に取られ、返答に困る。だが放っておいて自害されても面倒なので、ハッキリと言う。
「だから、殺さねえっつっただろ」
「しかし、今ここで拙者を討っておかねば、いずれ必ず再び相まみえることになるぞ。そしてその時は、今日のよりもさらに優れた装備をしておるやも知れん。後顧の憂いを断つ好機、逃すのは愚行なりと老婆心ながら進言しておく」
どうせ殺しても死なねえくせに、と思いつつ、虎鉄はため息にも似た大きな息を吐く。
「いいよ、別に。気が済むまで何度でも来い。だが何度来ても、俺は負けないけどな」
そう言ってびしっと親指で自分を指すと、ガヴィ=アオンはしばらく無言の後、
「やはり、師匠と違って甘きこと甚だしいな」
ヘルメットの中で笑ったような気がした。
「うるせえ、甘いのは十分わかってるよ。覚悟が足りないってのもな。だが殺してそこでおしまいってよりは、気が済むまで何度も何度もケンカする方が性に合ってるんだよ」
言いながら、自分でも本当になに甘っちょろい事言ってんだコイツは、と思う。だがこれが今の虎鉄の嘘偽りのない本音だから仕方がない。これで納得しないのなら、今度は拳で語る他なかったが、ガヴィ=アオンは意外にも納得したのか、「左様か」とひと言言うとすっくと立ち上がった。
「では今回はこれにて立ち去ろう」
ガヴィ=アオンは尻の砂を払うと、虎鉄に背を向けて歩き出した。途中、まだ自然解凍しきれていないプシケ・メリッタ姉妹を拾い上げると、二人を小脇に抱えて去って行った。海岸から道路へと続くコンクリートの階段を上り、完全に視界から消える。
「今回は、ねえ……」
何だか近いうちに何度も顔を合わせそうな予感をさせる言い方だったが、虎鉄も特に理由もなくそんな気がしていた。
息を吐く。
緊張が解けると同時に、変身も解ける。慣れ親しんだ生身の身体に戻ると、急に全身の力が抜けてその場にへたり込んだ。
「やれやれ……疲れた」
身体が鉛のように重い。肉体的な疲労と、精神的な疲労のピークだった。せっかく食った昼メシを全部吐いてしまったせいで腹ペコだが、立ち上がって屋台まで行く気力も体力も残っていない。
座っているのも疲れるので、砂地に寝転ぶ。服が砂まみれになろうが今はどうでもよかった。ただ今は重力に負けて、大の字になって寝転んで空を見上げる。まだ太陽が高い。昼メシから何時間も経っているような気がしたが、実際は一時間も過ぎていなかった。計算が合わぬと思い返せば、ガヴィ=アオンとの戦いで経験した一万分の一秒の世界が原因だった。
人間が死ぬほど修行しても辿りつけない、走馬灯を超えた時間の世界。脳が各器官から送られてくる電気信号を光速で処理し、さらにそれを実行できる神経や筋肉などの素体を持つ者だけが到達できる、物理領域の世界。ぶっちゃけ、生身では絶対に不可能だ。
次に全方位視界。これも目玉が二個しかない人間には、ハナから世界が違う。つまり、ヒトとして生まれた時点で持つ限界を、アペイロンはお構いなしにすっ飛ばして超えさせてくれた。
だが望んだのは自分だ。だから後悔はしていない。今も、砂浜に寝転がって空を仰いでいる状態でも、意識をすればつむじの辺りの方角からこちらに駆け足で向かってくる浩一やエリサ、スフィーに舞哉の姿がはっきりと見える。エリサには――まったく期待はしていなかったが――あれだけ来るなと言っておいたはずなのに、仕方のない奴だ。きっとあの後すぐ駆けずり回って舞哉とスフィーを探して連れて来て、一緒にこの戦いを見守っていてくれていたのだろう。
太陽に向けて、笑みが漏れる。
砂を蹴る音が四人分近づいてくる。
エリサにも舞哉にもスフィーにも、もちろん浩一にも言いたい事は山ほどあった。
が、今は少しだけこのまま休ませて欲しいと思って目を閉じた。
火照ってだるい身体に、潮風が心地よい。
今日も柴楽町は平和だった。
次回9月7日の更新で最後です。