ばかなせかい
「ばーか」
叫ぶ、眼下に広がる街に向かって。胸の奥がスッとして、自然と笑みが零れた。
都心のビルの屋上は、案外風が強くて、私の声を簡単に掻き消してしまう。フェンスを乗り越えて立っていた私は、バランスを崩さないように立つのがやっとで、後ろ手にフェンスにしがみついていた。
ビルの屋上から見える街並みは実にちっぽけで下らないと思った。とにかくこの世界は生き辛くて、人を殺すには充分で。毎日毎日、人の喧騒の中で窒息死しそうで。それなのに、どうして世界はこんなに小さいのか。
「ばーか!」
さっきよりも大声で叫んでみる。道路を行き交う人や車は、屋上にいる私の存在に気付くわけもなく、皆一様に喧騒に溶け込んでいる。蟻みたいだとも思ったし、ゴミみたいだとも思った。どうにも可笑しくて堪らない。こんなところから莫迦にされているなんて、誰も思いもしないだろう。
――だけど、それでも。
こんなところで今にも飛び降りそうな体で叫んでいる私よりは、よっぽど真っ当な生物なのかもしれない。生きるという本能に忠実に、ただただ生きる。
窒息死しそうな世の中から脱出する方法も分からないなんて、と見下す私はどちらかというと負け組だろう――莫迦莫迦しい。
強い風が私の髪を掻き乱す。けれど、そんなことはどうでも良かった。世界を莫迦だと思うほど、自分の愚かさを突き付ける冷静な自分がいて、自分の莫迦さ加減に嫌気がさす。吐き気に似た感情の渦が私を飲み込んだ。
「ばーか」
今度は呟くように吐き出した。刹那、屋上のドアが激しい音を立てた。フェンスを後ろ手に掴んだまま、首だけをそちらへ向けると、見知った男が立っていた。
――嗚呼、お迎えが来ちゃったか。
どこか落胆して、どこか安心して。私はまた、眼下に広がる街へと目を向けた。じっと行き交う人々を見つめていると、男は私の肩を掴んだ。
「何やってるんだ、この莫迦」
「何こんなとこまで来てんの、莫迦」
嗚呼、真っ当な生物が私に触れている――嗚呼、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。負け組な私は生物の枠を超越した存在になろうとしているというのに。
でもやはり、そんなことすら莫迦莫迦しい。
苛立ちが、沸々と私の脳内を支配する。振り返って、罵言雑言を浴びせて、最後に卑下してやろうか。
「――莫迦はお前だ。飛び降りる勇気も無いくせに、毎度毎度こんなところに来やがって」
それならば、毎度毎度こんなところまで迎えに来るお前だって莫迦じゃないか、そう言ってやろうと思って勢いよく振り向いた。そして、ハッとした。
怒った口調でありながら泣きそうな彼の顔、屋上に吹く強い風、乱れる髪、ふらつく足元、宙を掴む指先、浮く身体、恐怖に強張る彼の表情。
全てが一気に押し寄せる。重力に逆らうことなく落ちる体に、内臓が空中に置いていかれる感覚。全身が粟立つ。
「莫、迦、野郎……!」
彼の苦しげな声が、私の耳に木霊する。過る感情に目を閉じた。