【愚父視点】娘二人が家を出たので、私の長所を探してみたのだが、一つも見つからない
「レオンハルトの部屋は、今日も掃除したのだろうな」
朝食の席で尋ねると、家令は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……はい、旦那様」
「窓は開けたか? 寝具は取り替えたか? 机の本は動かしておらんだろうな?」
「すべて、いつもどおりに」
「よろしい。あの子は几帳面だからな。帰ってきて部屋が散らかっていては困る」
家令は何も答えなかった。
まったく、最近の使用人は愛想がない。
以前なら、リーゼがこうしたことを確認してくれていたものだ。
あの娘は地味で口数も少なかったが、家の仕事だけはよくできた。
もっとも、今はもういない。
北方のグランフェルト辺境伯に嫁いでしまったからだ。
妹のクラリッサも、屋敷を出ていった。
こちらは結婚したわけではない。なんと、王都の花屋で働いているという。
伯爵家の娘が花屋だぞ。
世も末ではないか。
「……ところで、今日の予定は?」
私が尋ねると、家令は分厚い書類を差し出した。
「領地の会計報告と、借入金の返済計画でございます」
「また数字か。リーゼに送っておけ」
「旦那様。リーゼ様は、すでにグランフェルト辺境伯夫人でいらっしゃいます」
「親の家だぞ?」
「ですが、現在の責任者は旦那様です」
私は眉をひそめた。
最近、誰もが私に意見する。
娘たちも、使用人たちも、取引先の商人まで。
私はエーレンベルク伯爵なのだ。
由緒ある伯爵家の当主であり、三人の子供の父親である。
……いや。
今、この屋敷にいる子供は一人もいない。
長男レオンハルト。
長女リーゼ。
次女クラリッサ。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
◇◆◇
七年前。
私には、すべてがあった。
美しい妻。
優秀な長男。
そして、愛しい二人の娘。
特に長男のレオンハルトは、私の誇りだった。
十八歳にして剣術に優れ、学問にも熱心で、領民からも慕われていた。
「父上。来年からは、領地の仕事をもっと学びたいと思います」
「頼もしいな! いずれ伯爵家を継ぐのはお前だ。期待しているぞ」
レオンハルトは、まっすぐ私を見て笑った。
あの笑顔を、私は忘れられない。
その年の秋。
レオンハルトは、騎士団に同行して北方へ向かった。
魔物の被害を受けた村々へ、救援物資を届けるためだった。
将来の領主にはよい経験になる。
私は、そう考えて送り出した。
出発の日、レオンハルトは幼いクラリッサの頭を撫でた。
「お土産に、北方の珍しい花の種を探してくるよ」
「本当ですの、お兄様?」
「ああ。約束する」
それから、リーゼに向かって言った。
「父上が困っていたら、帳簿を見てあげてくれ。リーゼは数字に強いからな」
「お兄様ほどではありません」
「そんなことはないよ。お前には、お前の得意なことがある」
それが、三人で交わした最後の会話になった。
北方で、大規模な魔物の襲撃が起きた。
レオンハルトの一行は、村人たちを避難させる途中で消息を絶った。
生き残った騎士によれば、あの子は最後まで村人を守っていたという。
だが、遺体は見つからなかった。
私は何度も捜索隊を出した。
領地の蓄えを取り崩し、私財を投じた。
それでも、見つからなかった。
妻は病に倒れた。
以前から丈夫ではなかったが、息子の失踪以来、すっかり弱ってしまった。
そして、その年の冬。
妻も亡くなった。
葬儀のあと、私は屋敷の者たちを集めて命じた。
「レオンハルトの名を、死んだ者のように口にするな」
あの子は帰ってくるのだ。
死んだと決まったわけではない。
最初は、あの子を死者として扱うことだけを禁じたつもりだった。
だが、やがて私は、誰かがレオンハルトの名前を口にするだけで怒鳴るようになった。
ある日、クラリッサが北方の花を描いた絵を見て呟いた。
「……お兄様が、お花の種を持って帰ってくださるって……」
「黙れ!」
私は、思わず怒鳴っていた。
クラリッサは泣き出した。
リーゼが慌てて妹を抱き寄せた。
「申し訳ありません、お父様。クラリッサには私から言い聞かせます」
それ以来、娘たちが私の前で兄の話をすることはなくなった。
私は、それでよいと思っていた。
妻の葬儀から間もない頃、当時十五歳だったリーゼが尋ねた。
「お父様。来月の使用人のお給金についてですが……」
「そんなことは後にしろ!」
私は怒鳴った。
息子が帰ってこない。
妻も死んだ。
それなのに、帳簿だの給金だの。
くだらない。
「お前がやっておけ」
「……私が、ですか?」
「母親がしていた仕事だろう。娘のお前が引き継げばいい」
リーゼは、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
それから七年間。
私は、あの娘がどんな苦労をしていたのか、一度も確かめなかった。
◇◆◇
息子を取り戻す方法を知ったのは、失踪から二年ほど経った頃だった。
旅の古書商から、北方の修道院に伝わる古い儀式の話を聞いたのだ。
『失われし者を迎えるには、血の縁を持つ者の祈りと、王の許しを要する』
その一節を読んだ時、私は確信した。
レオンハルトを取り戻せる。
私は修道院を訪ねた。
だが、院長は言った。
「伯爵様。これは、死者を呼び戻す儀式ではございません」
私は聞かなかった。
聞きたくなかったのだ。
遺体が見つかっていないのだから、あの子は生きているかもしれない。
仮に死んでいたとしても、古い秘術ならば――。
私は、そう信じることにした。
そして、計画を立てた。
リーゼを北方の修道院へ入れる。
クラリッサを、王宮に強い影響力を持つヴァルデン侯爵家へ嫁がせる。
血縁者の祈りと、王の許し。
それで、二つの条件が整う。
リーゼは静かな娘だ。修道院でも不満はないだろう。
クラリッサは美しい。侯爵家の嫡男にふさわしい。
ただ、クラリッサは教養や家政能力に乏しかった。
そこで、リーゼの実績をクラリッサのものとして身上書に書かせた。
姉妹なのだから、大した違いはあるまい。
婚礼準備には、亡き妻がリーゼに残した持参金を使った。
どうせリーゼは修道院へ入る。金など必要ない。
私は、自分が実に合理的な父親だと思っていた。
ところが、娘たちは理解しなかった。
リーゼは持参金を返せと言い、『縁結び相談所』へ通い始めた。
そして、北方のグランフェルト辺境伯と婚約した。
北方だぞ。
私が息子を失った、あの北方へ。
「お前は妹の引き立て役だと言っただろう!」
私は激怒した。
だが、リーゼは私をまっすぐ見た。
「私は、妹の引き立て役ではありません。私は、私の人生を生きたいのです」
結局、リーゼの婚姻は認められ、持参金も返還することになった。
私は借金をして金を返した。
なんと親不孝な娘だろう。
当時の私は、そう思った。
その後、クラリッサの縁談も三件続けて破談になった。
身上書の嘘が見抜かれたのだ。
私は、裕福な年配の商人との縁談を用意したが、クラリッサはそれも断った。
そして、家を出ていった。
花屋で働くのだという。
私は止めた。怒鳴った。
それでも、クラリッサは振り返らなかった。
こうして私は、息子を取り戻すための計画を、すべて失った。
◇◆◇
目の前には、また書類が積まれていた。
家令が差し出す帳簿には、赤い数字が並んでいる。
「……これを、私が読むのか?」
「はい、旦那様」
「伯爵が細かな帳簿など……」
「現在、伯爵家の財政について責任を負うのは、旦那様でございます」
私は黙った。
最近、この男は同じことばかり言う。
責任。
責任。
責任。
それほど大切なことなのだろうか。
私は、ふと思った。
そもそも私は、何が得意だったのだろう。
レオンハルトは剣術も学問も優秀だった。
リーゼは帳簿が得意だった。
クラリッサは美しかった。
では、私は?
……伯爵である。
それは長所だろうか。
私は、しばらく考えた。
そして、あることを思い出した。
リーゼもクラリッサも、王都の『縁結び相談所』へ通っていたらしい。
婚活アドバイザーという、聞き慣れない職業の男がいるそうだ。
娘たちは、そこで自分の長所を見つけたという。
ならば、私も行ってみようではないか。
あの男なら、私の長所くらい、すぐに見つけられるはずだ。
◇◆◇
『縁結び相談所』
看板を見上げ、私は眉をひそめた。
ずいぶん小さな店だ。
伯爵を迎えるには、少々格が足りないのではないか。
だが、私は寛大な人間である。
多少のことは気にしない。
「邪魔するぞ」
扉を開けると、中年の男が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。私は成田と申します」
机の上には、緑色のスライムが乗っている。
『――お客さんです!』
「……スライムが喋るのか」
「頭の中に声を届けているんですよ。ミドリといいます」
『――よろしくお願いします!』
私は咳払いした。
「エーレンベルク伯爵だ。私の娘二人が、こちらに世話になったそうだな」
「ご相談に来られた方の個別の事情については、お話しできません」
「父親にもか?」
「はい。ご本人の許可がありませんので」
私は不愉快になった。
だが、今日は別の用件がある。
「まあよい。私は自分の長所を知りに来た」
「……長所、ですか?」
「娘たちの長所を見つけたのだろう? ならば、私の長所も見つけられるはずだ」
成田は紙とペンを用意した。
「では、ご自身のどんなところが長所だと思われますか?」
「決断力だな。私は迷わず物事を決める」
「例えば?」
「長女は修道院へ、次女は侯爵家へ嫁がせると決めた」
「……娘さんたちは同意されたのですか?」
「いや。だが、親が決めるものだろう」
成田は、紙に何かを書いた。
「ほかには?」
「人を見る目がある。リーゼには家の仕事を任せていた。数字に強いからな」
「それは、娘さんの長所ですね」
「……む?」
「伯爵様ご自身の長所を探しているのでしたね」
私は咳払いした。
「では、指導力だ。クラリッサを立派な令嬢に育てた」
「どんなことを教えられたのですか?」
「美しく着飾ることだ。礼儀作法も……いや、家庭教師に任せていたな」
「なるほど」
成田は、また何かを書いた。
「何を書いている?」
「お話を整理しています」
「長所は見つかったか?」
「もう少し、お話を伺いたいですね」
『――おじさん! 伯爵さんの長所、見つかりました?』
「まだ探しているところだよ」
『――宝探しですね!』
失礼なスライムだ。
私の長所など、そこら中にあるはずなのに。
◇◆◇
「では、少し質問を変えましょう」
成田が言った。
「伯爵様が、これまで一番大切にしてきたものは何ですか?」
私は即答した。
「息子だ」
「息子さん?」
「ああ。レオンハルトという。七年前に北方で消息を絶った」
成田は、黙って私を見た。
「遺体は見つかっておらん。だから、生きているはずなのだ」
「……そうだったのですね」
「私は、あの子を取り戻すために、あらゆる手を尽くしてきた」
私は話した。
捜索隊を出したこと。
北方の修道院に伝わる秘術を知ったこと。
娘二人に与えた役割について。
成田は、一度も遮らなかった。
ただ、最後まで聞いていた。
「……つらかったでしょうね」
私は、思わず顔を上げた。
そんなことを言われたのは、久しぶりだった。
誰もが私に、諦めろと言った。
現実を見ろと言った。
だが、この男は。
つらかったでしょう、と言った。
「……ああ」
私は、喉の奥から声を絞り出した。
「つらかった」
出発の日の笑顔。
帰ってこなかった馬車。
空の棺。
妻の葬儀。
「私は、ただ……あの子に帰ってきてほしかっただけなのだ」
成田は、静かに頷いた。
◇◆◇
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
成田が言った。
「息子さんが帰ってきたら、何とおっしゃいますか?」
「よく帰ってきた、と。もう二度と離さない。お前が戻ってきてくれて、本当によかった、と」
「では、リーゼさんが帰ってきたら?」
「……帳簿を見てもらう」
「クラリッサさんが帰ってきたら?」
「新しい縁談を探す。今度こそ名家に嫁がせねばならん」
成田は、少し間を置いた。
「お二人が何をしたいのかは?」
「……何?」
「息子さんには『よく帰ってきた』とおっしゃるのに、娘さんたちには、まず仕事や縁談の話をされるのですね」
私は反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
「息子さんを取り戻したいお気持ちは、否定できません。でも、そのために娘さんたちの人生を使うことは、別の問題です」
「私は、娘たちのためにも……」
「リーゼさんは、修道院へ入りたいとおっしゃっていたのですか?」
「……いや」
「クラリッサさんは、侯爵家へ嫁ぎたいと?」
「……あの娘も喜んで……」
私は、途中で口を閉じた。
クラリッサは侯爵夫人になることを喜んでいた。
だが、兄を取り戻すという私の計画については、何も知らなかった。
「息子さんが帰ってきた時、娘さんたちがいなくなっていたら、どう思われるでしょうね」
胸の奥が、冷たくなった。
レオンハルトは、妹たちを可愛がっていた。
リーゼの頑張りを褒め、クラリッサの花を笑顔で受け取っていた。
『父上。リーゼは本当に頑張り屋なんです』
『クラリッサは花が好きなんですよ』
私は、その言葉を聞いていただろうか。
……思い出せない。
「……私は、家族のためにやってきたのだ」
「そう信じていらっしゃったのですね」
「お前には分からん。子供を失った親の気持ちなど」
成田は、少しだけ寂しそうに笑った。
「私にも、妻と子供がいます。今は離れて暮らしています」
「……そうなのか」
「帰りたいと思っています。毎日」
私は、何も言えなくなった。
「だからといって、伯爵様のお気持ちが全部分かるとは言えません。でも、会えない人を思うことと、今そばにいる人を大切にすることは、両立できるはずです」
私は、答えられなかった。
◇◆◇
「……だが、私は何を信じればよいのだ」
私は呟いた。
「捜しても見つからん。七年も待った。それでも、あの子は帰ってこない」
成田は、私の言葉を最後まで聞いた。
「息子さんの生死が分からない以上、希望を持つことまで、やめる必要はないと思います」
「……そうか」
「でも、その希望のために、誰かを犠牲にしてよいわけではありません」
私は俯いた。
「リーゼさんも、クラリッサさんも、息子さんと同じように、伯爵様のお子さんです」
その言葉が、ひどく痛かった。
私は、三人の父親だった。
そんな当たり前のことを、いつから忘れていたのだろう。
◇◆◇
「……それで」
私は、ようやく尋ねた。
「私の長所は、見つかったか?」
成田は、手元の紙を見た。
「今のお話だけでは、まだ見つけられません」
「……そうか」
「ですが、これから変えられることはあります」
「例えば?」
「まず、人の話を最後まで聞くことです」
「聞いておるぞ」
『――今、ちょっと途中でした!』
「……お前は黙っておれ」
『――ほらー!』
成田が苦笑した。
「それから、もう一つ」
「何だ」
「娘さんたちに謝ることはできると思います。ただ、謝ったからといって、許してもらえるとは限りません」
「……親なのだぞ」
「はい。それでも、許すかどうかは相手が決めることです」
私は、しばらく黙っていた。
リーゼの目を思い出した。
クラリッサが家を出ていく時の、決意に満ちた顔を思い出した。
「……そうか」
成田は、静かに頷いた。
「これからどう行動するかは、伯爵様ご自身で決められます」
◇◆◇
相談所から戻ると、北方の修道院から手紙が届いていた。
差出人は、あの年老いた院長だった。
『エーレンベルク伯爵閣下。
以前お問い合わせいただいた儀式について、改めてご説明申し上げます。
当院に伝わる「失われし者を迎える祈り」は、亡き方を現世に呼び戻す術ではございません。
また、ご家族のどなたかが生涯を修道院に捧げなければならないという決まりもございません。
王家の許可が必要となるのは、王国の名による公式な追悼儀式として執り行う場合に限られます。
ご子息の消息が分からぬまま、長い年月を過ごされていること、心よりお察し申し上げます。
しかし、どうか、残されたご家族の人生を犠牲になさらないでください。
祈りとは、誰かを縛るためのものではございません。』
私は、最後まで読んだ。
そして、もう一度読んだ。
以前にも、同じような説明を受けていた。
そのたびに、私は怒鳴った。
そんなはずはない、と。
真実を隠しているのだろう、と。
私は、何を信じていたのだろう。
息子が帰ってくるという希望か。
それとも、帰ってこないかもしれないという現実から、目を背けるための言い訳か。
分からなかった。
ただ、一つだけ分かった。
私は、リーゼを修道院へ入れなくてもよかったのだ。
あの娘の人生を、奪おうとする必要などなかった。
◇◆◇
「……家令」
「はい」
「リーゼの持参金は、すべて返したのだったな」
「はい。借入金によって、全額を返還しております」
「クラリッサが売った宝石の代金は?」
「使用人たちへの未払い給与の一部に充てられました」
「……そうか」
私は、机の上の帳簿を見た。
「リーゼは、これを七年間?」
「はい。私どもも補佐しておりましたが、最終的な確認はリーゼ様がなさっていました」
私は書類を一枚手に取った。
「この赤い数字は、何を意味している?」
「不足額でございます」
「……」
見なければよかった。
いや。
見なかったから、こうなったのだ。
「……説明してくれ」
家令が驚いたように顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「私にも、分かるように頼む」
「かしこまりました」
家令は椅子を引き、私の隣に座った。
私は何度も聞き返した。
途中で腹が立ち、声を荒らげそうになった。
だが、そのたびに、成田の言葉を思い出した。
『まず、人の話を最後まで聞くことです』
……実に難しい。
こんなに難しいことを、リーゼは七年間もしていたのか。
それから私は、少しずつ帳簿を読むようになった。
使用人の給与を優先し、監査官に提出する資料を揃える。
借金も、私が返していかなければならない。
リーゼに押しつけることは、もうできない。
……いや。
最初から、押しつけてよい仕事ではなかったのだ。
◇◆◇
数日後。
私は、王都の花屋の前を通りかかった。
偶然だった。
……いや。
少し遠回りをした。
窓から、クラリッサの姿が見えた。
質素な服を着て、花を束ねている。
以前のような豪華な宝石はない。
それなのに、あの娘は笑っていた。
「こちらのお花でしたら、贈り物にぴったりですよ」
客の話を聞き、花を選び、丁寧に束ねている。
やがて、真面目そうな若い男が店を訪れた。
クラリッサは、その顔を見るなり表情を明るくした。
あれが、リーヴェルト子爵家の次男だろうか。
王都の図書館で働いているという。
侯爵家でもなければ、大商人でもない。
あの男と結婚しても、王宮への強い伝手は得られまい。
私は、そう考えた。
そして、ふと気づいた。
また、同じことを考えている。
娘が誰といるかではなく、その相手が自分に何をもたらすか。
私は、店の扉に伸ばしかけた手を下ろした。
今、私が入っていったら。
クラリッサは、あんなふうに笑うだろうか。
……おそらく、笑わない。
私は、何も買わずに立ち去った。
◇◆◇
その夜。
私は、レオンハルトの部屋に入った。
机には読みかけの本。
壁には訓練用の剣。
すべてが、七年前のままだった。
「……レオンハルト」
返事はない。
七年間、ずっとそうだった。
私は、娘たちが兄の名を呼ぶことを禁じておきながら、自分だけは毎日のように、その名を呼んでいた。
リーゼも、クラリッサも、兄のことを話したかっただろう。
それなのに、私は二人から、その言葉さえ奪った。
「……お前の妹たちは、大きくなったぞ」
私は、誰もいない部屋に向かって話した。
「リーゼは北方の辺境伯に嫁いだ。冬の備蓄を改善して、領民を助けているそうだ」
私は、苦笑した。
「お前が言ったとおり、数字に強かったのだな」
喉が詰まった。
「クラリッサは、花屋で働いている」
あの娘の笑顔が浮かんだ。
「お前が、花の種を持って帰ると約束した子だ」
私は、しばらく黙った。
「……二人とも、私のところには帰ってこない」
当然だろう。
そう思った。
だが、その当然が、ひどく苦しかった。
「私は、お前を取り戻したかった」
声が震えた。
「……だが、そのために、あの子たちを失った」
私は、声を上げて泣いた。
◇◆◇
翌朝。
私は、紙を三枚用意した。
一枚目には、リーゼの名。
二枚目には、クラリッサの名。
三枚目には、レオンハルトの名を書いた。
まず、リーゼへの手紙を書こうとした。
『リーゼへ。
伯爵家の財政が大変なことになっている。
お前がいなくなったせいで――』
そこで、手が止まった。
違う。
これでは、いつもと同じだ。
紙を破り、書き直した。
『私は、七年間、お前に家の仕事を任せきりにしていた。そのことについて――』
続きが書けなかった。
謝ったところで、七年間は戻らない。
次に、クラリッサへの手紙を書こうとした。
『花屋の仕事など、伯爵家の娘にはふさわしくない。すぐに――』
また、手が止まった。
私は紙を破った。
あの娘が何を望んでいるのかを聞く前に、私はいつも命令してしまう。
最後に、レオンハルトへの手紙を書いた。
『レオンハルトへ。
お前が帰ってくる日を、今でも待っている。
だが、私はその間に、お前の妹たちを傷つけてしまった。
お前が大切にしていた二人を、私は大切にできなかった。
……すまなかった。』
私は手紙を畳み、引き出しにしまった。
リーゼとクラリッサへの手紙は、まだ送らないことにした。
今の私が書けば、きっとまた、許しや助けを求めてしまう。
あの子たちに、それを引き受ける義務はない。
◇◆◇
数週間後。
私は、机の上に一枚の紙を置いた。
『私の長所』
一、決断力がある。
……相手の話を聞かずに決めていただけだ。
線を引いた。
二、人を見る目がある。
……リーゼの能力を、七年間も見落としていた。
これも違う。
三、家族思いである。
レオンハルトを愛していた。
それは、間違いない。
だが、リーゼとクラリッサを傷つけた。
私は、そこにも線を引いた。
四、先見の明がある。
……跡継ぎがいない。
借金もある。
監査も入っている。
どこに先見の明があったのだろう。
私は、深くため息をついた。
そして、最後に一行だけ書いた。
『人の話を、最後まで聞こうと努力している』
……悪くない。
少なくとも、以前の私にはなかったことだ。
その時、家令が入ってきた。
「旦那様。監査官へ提出する書類の確認をお願いできますか」
「うむ。持ってこい」
家令は書類を机に置いた。
私は、数字を見た。
相変わらず、頭が痛くなる。
だが、逃げるわけにはいかない。
「……この赤い数字について、説明してくれ」
「承知いたしました」
家令が説明を始めた。
私は、途中で口を挟みたくなった。
だが、我慢した。
最後まで聞いた。
レオンハルトは、まだ帰ってこない。
リーゼも、クラリッサも、私のもとには戻らない。
伯爵家の問題も、何一つ片づいていない。
それでも。
私は、もう娘たちに「帰ってこい」と命じるつもりはなかった。
あの子たちには、あの子たちの人生がある。
私には、私が引き受けなければならない責任がある。
ようやく、それだけは分かったのだ。
◇◆◇
その夜。
私は、もう一度『私の長所』と書かれた紙を眺めた。
一つ。
たった一つだ。
だが、以前は何もなかった。
そこから一つ増えたのだから、大した進歩ではないか。
私は、満足げに頷いた。
「……ふむ。次は二つだな」
長所を倍にするのだ。
……待てよ。
もともと、私の長所はゼロだった。
ゼロを倍にすると、どうなる?
「家令!」
「はい、旦那様」
「ゼロを二倍にすると、いくつだ?」
「……ゼロでございます」
「……そうか。では、一つになった今なら、二倍にできるな?」
「はい。二つになります」
「よし! いずれ私の長所を二つにしてみせるぞ!」
家令は、静かに答えた。
「……まずは、明日の帳簿を最後までご確認くださいませ」
「……うむ」
私は、笑顔を引っ込めた。
まったく。
長所を増やすというのは、なかなか骨が折れるらしい。
それでも、明日も帳簿を開こう。
あの子たちがいなくなった屋敷で。
私が、私自身の責任を果たすために。
――完――
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、リーゼとクラリッサの父親であるエーレンベルク伯爵の視点でお届けしました。
かつては妻と三人の子供を愛していた父親が、長男の失踪と妻の死をきっかけに、残された娘たちを傷つけてしまう。
本人には本人なりの事情や悲しみがありましたが、それによって娘たちへの仕打ちが許されるわけではありません。
失ったものばかりを見つめていた父親が、ようやく自分の過ちに気づき、少しずつ変わろうとするお話です。
もっとも、長年の考え方はそう簡単には変わりません。
娘たちとの関係がどうなるかも、これからの父親の行動次第でしょう。
本作は、以下の二作品の後日談です。
・『「お前は妹の引き立て役だ」と父が言うので、婚活アドバイザーに相談して先に嫁ぎました』
https://ncode.syosetu.com/n6908my/
・『【妹視点】姉が辺境伯に嫁いだ途端、私の縁談が三件とも消えました』
https://ncode.syosetu.com/n8095my/
また、本作に登場する婚活アドバイザー・成田和彦とスライムのミドリが活躍する本編はこちらです!
『46歳、社畜のオタク婚活アドバイザーですが、異世界転生したらコミュ力だけで無双してしまいました ~妻子持ちのおじさん、帰宅を目指して魔王すら成婚させる~』
https://ncode.syosetu.com/n9705mx/
成田とミドリの物語にも興味を持っていただけましたら、ぜひお立ち寄りください!
その他シリーズ短編作品は以下のリンクからどうぞ
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