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# 1. 詰んだ

詰んだ。


私は、見事に、徹底的に詰んだ。


宇宙飛行士のように厳密に人生を設計してきたわけじゃない。


けれど、少なくとも今この瞬間だけは断言できる。


私は完全に終わっている。


誰が否定できるというのか。


「国王がパリを見捨てただと!?」


「落ち着け。まだ議会の正式発表は――」


「議会だと? あの百合の連中をいつから信じるようになった! まさか王党派じゃあるまいな!」


「い、いや、決して! 私はただ――」


「王を殺せ! まとめて処刑だ!」


「オーストリア女め、去年のバスティーユで引き裂いておくべきだったんだ!」


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


狭い路地を、雷鳴みたいな怒号が転げていく。


ガタガタ、と車体が震えた。


思わず、乾いた笑いが喉から漏れる。


「は、はは……」


こんな物騒な唱和が飛び交うなか、馬車で無事に通り抜けられると思うほうがおかしい。


私は終わった。


完全に、どうしようもなく終わった。


きっと私は知らぬ間に大罪を犯したのだ。


そうでなければ説明がつかない。


……まず、ここはどこだ。


いや、それより私は誰だ。


目を開けてから、まだ半日も経っていない。


それでも確信めいたものがある。


ここは二十一世紀ではない。


鏡がなくてもわかった。


肌はやけに白く、どこか病的なほど蒼い。


背中の衣服はざらついた古布で、博物館に飾られていそうな時代遅れの仕立てだ。


外の群衆を一目見れば充分だった。


私は白人だ。


ヨーロッパ人だ。


――別人だ。


そして、また耳にした。


パリ、という響き。


光の都。


ということは、フランス。


だが私の知るパリではない。


通りの男たちは色褪せたブロケードにほつれたレース。


かつての優雅さは、怒りの煤に埋もれている。


「ムシュー・ル・デピュテ……」


「うわっ」


御者の呼びかけが、思考の渦から私を引き戻した。


「な、なんだい?」


私はできる限り柔らかい笑みを作って返す。


「本当でございますか。陛下がパリをお捨てになったと」


御者はちらりとこちらを見た。


希望とも不安ともつかぬ光が、あの目に揺れた。


危ない、前を見てくれ、と言いかけて言葉が凍る。


私は何も知らない。


自分が誰なのかさえ。


――国王がパリを捨てた?


教科書の隅で読んだような、薄い記憶がかすめる。


それから、さっきの呼び名。デピュテ。


議員。


議会の一員。


馬車。


御者。


電気の匂いはどこにもない。


つまり――。


「お答えにならないのですね、ムシュー」


御者が深く息を吐いた。


肩が、しゅんと落ちる。


まるで私が最悪の事実を確定させたかのように。


いや、待て。


私は何も言っていない。


だが、その反応だけでいくつか分かった。


一つ。私は身分のある誰か――「ムシュー・ル・デピュテ」と呼ばれる、議会の男だ。


二つ。ここは革命期のフランスだ。


「ムシュー・ル・デピュテ……」


「なんだい」


「陛下に、もう少しだけ御慈悲を」


それは頼みというより、すがる声だった。


陰謀や誘拐、オーストリアの策謀、罪なき君主――。


御者は震える舌でそんな言葉を吐き出した。


彼にとって私はただの客ではない。


生殺与奪を握る権力そのもの。


王に反する男。


革命家。


――私は、本当にとことん詰んでいる。


冷や汗がこめかみを伝う。


整理しよう。


ここは革命期のフランス。


私は国民議会の代議士。


しかも、御者の口ぶりでは名の知れた急進派。


要するに、ジャコバン。


その名がまだ生まれていないとしても、意味は分かる。


ギロチンは誰も選ばない。


王党派も、急進派も。


革命は自分の子をも喰らう。


刃はパリの陽光の下、容赦なく降りる。


代議士は戦い、決闘し、断頭台に登る。


すべては自由の名のもとに。


権力とは梯子ではない。


油でぬめる綱だ。


腹をすかせた鰐の檻の上に張られた、一本綱。


普通の親なら「やめておけ」と全力で引き留める役回り。


――アメリカに逃げるべきだ。


それしかない。


フランス人だってこんな席には座りたがらない。


まして、数時間前まで無職の夢想家だった私には。


機会があれば逃げる。


栄光は地獄にくれてやれ。


フレンチ・ナイトメアよりアメリカン・ドリームのほうが百倍いい。


……あるいは、ナポレオン路線。


アメリカが第一なら、第二案はナポレオンだ。


王はまだ生きている。


ということは、彼はいまだ一介のコルシカ上がり。


だが歴史の結末くらいは覚えている。


恐怖政治が終わり、血が乾けば、小男は昇る。


その前に支援しておけばいい。


今は無名のうちに、代議士としての「影響力」を貸す。


彼の星が昇るとき、私は首をつないでいられる。


「よし。まずはアメリカ、次にナポレオン。それまで首を落とさず――」


「到着しました、市民ロベスピエール」


……は?


「それと、借りていた書物、お返しします」


御者は気まずそうに後頭部をかいた。


「名文ですが、恥ずかしながら私にはさっぱりで」


膝の上に紙束が置かれる。


御者は御者台を軽やかに降りた。


「今日はゆっくりお休みを。市民ダントンも、そう仰ってました」


車輪の音が遠ざかる。


私は、みすぼらしい下宿の前に置き去りにされた。


荷物みたいに。


怒るべきかもしれない。


だが体は固まって動かない。


「……いま、なんて?」


ロベスピエール。


その名は、鐘の音のように胸腔を叩いた。


私はロベスピエール。


馬車の持ち主はダントン。


そして私は――革命そのものが見る悪夢。


「クッソ」


思わず吐き捨てた罵りは、日本語ではなかった。


流暢なフランス語だった。


震える手で、膝の上の原稿を見下ろす。


題名には、こうある。


死刑の廃止について。


細く整った筆致――ロベスピエール自身の筆跡。


彼の理想。


彼の夢。


私の現実。


乾いた笑いは、すぐに音を失った。


私はもう歴史の傍観者ではない。


歴史そのものだ。


しかも、破滅に向かう主人公。


詰んだ。


見事に、壮麗に、詰んだのだ。




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