第12話 もしかしたら、これが人生初デートかもしれん……。
エヴァ・シュトラッサーとかいう元帥府の特使が、俺の平穏な日常に爆弾を投下していった翌朝。
カフェ【木漏れ日の止まり木】には、いつもと変わらないようでいて、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
カウンターの中でコーヒー豆を挽きながらも、頭の中は昨夜のエヴァの言葉――【月狂事変】、【後始末】――が重苦しく渦巻いている。
アリアがテーブルを拭いている。
普段通りだが、時折、俺の横顔を心配そうに窺っていた。
俺は気づかないふりをする。
こいつの気遣いは有り難いが、今はそっとしておいてほしい。
窓辺ではリリスが静かに薬草の手入れをしている。
彼女は何も言わないが、その存在が妙な安心感を与えてくれるのは、元部下だった頃から変わらない。
そして、カウンター席にはノエルが座り、手帳に何かを書き込んでいる。
時折、片眼鏡の奥から俺に探るような視線を送ってくるのが、少しばかり気に障る。
こいつの情報分析官としての鋭さは、こういう時、非常に厄介だ。
「……ノエル」俺は声をかけた。「少し、散歩に付き合ってくれないか」
俺の言葉に、ノエルは一瞬、片眼鏡の奥の瞳を微かに輝かせたように見えた。
だが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「ええ、構いませんよ、マスター」と笑みを浮かべて応じる。
そのやり取りを聞いていたアリアの手が、ピタリと止まった。
何か言いたげそうな表情で俺を見ていた。
「じゃあ、少し店を頼むぞ、アリア、リリス」
俺がそう言ってノエルと共に出かけようとすると、アリアは「……はい、マスター」とだけ答えた。
彼女の視線を感じながら、俺はノエルとカフェを後にした。
ミルウッドの町は、今日も平和そのものだった。
朝の爽やかな空気、少しずつ活気が出てきた市場の様子、広場で元気に遊ぶ子供たちの声。
このありふれた日常を守りたい。
……そう思う一方で、そのために再び面倒事に首を突っ込むのかと思うと、溜息が出そうになる。
「気づいていますか?」とノエルが不意に言った。
「ああ」
さきほどから後をつけられているのだ。
……とはいっても、べつに、追っ手とか、そういうわけではない。
アリアだ。
ノエルは、ふふ、と小さく笑みを漏らした。
そして、次の瞬間、驚くべき行動に出た。
彼女はごく自然な仕草で、俺の右腕にそっと自分の腕を絡めてきたのだ。
「なっ……!?」
柔らかな感触と、ふわりと香る彼女のかすかな匂いに、思わず変な声が出た。
なんだ、こいつ、いきなり何を。
「たまにはデートしましょう。面白くなりそうでしょう?」
ノエルは悪戯っぽく片目をつむり、俺の顔を覗き込むようにして微笑んだ。その片眼鏡がきらりと光る。
おいおい、面白くするな。ただでさえ面倒な状況なんだぞ。
「……お前、楽しんでるだろ」
「はい」
まったく、こいつの手のひらの上で踊らされている気分だ。
情報分析官のスキルは、こういうところでも発揮されるらしい。厄介なこと、この上ない。
アリアに尾行されながら、俺はノエルと共に街を歩いた。
「この平和な光景……」ノエルが町の様子を見回し、ふと口を開いた。「先日、マスターが【煤煙の狼】から守ってくださったからこそ、今ここにあるのですね。あの時、マスターが『助言だけ』と言いつつも、結局はご自身の手で危機を退けてくださらなければ、この町の笑顔はもっと少なくなっていたかもしれません」
さらりと褒められる。
俺はただ、カフェの平穏が脅かされるのが嫌だっただけだ。
そのまま、二人でミル湖のほとりまでやってきた。
人通りも少なく、落ち着いて話をするにはちょうどいい。
「それで、相談というのは?」ノエルが促す。
俺はエヴァから受けた依頼の内容――辺境伯オーブリーの不穏な動きと、【月狂事変】の関わり――について、言葉を選びながらノエルに伝えた。
俺の口から【月狂事変】の名が出た時、ノエルの表情が僅かに曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「【月狂事変】ですか」ノエルは真剣な表情で俺の話を聞き終えると、情報分析官としての冷静な口調で語り始めた。「その名は、私も過去に一度だけ、帝国でも極秘とされる資料の中で目にしました。内容はほとんどが抹消されていましたが、その断片的な情報と、今回の元帥の特使の動き、そしてオーブリー卿のこれまでの悪評を総合すると、事態は極めて深刻と言わざるを得ません」
やはり、知っていたか。さすがは元ナイトオウルの情報分析官だ。
「そして、この種の、帝国の『影』が深く関わる任務を遂行できるのは……率直に申し上げて、マスター、あなた以外には考えられません」
「買い被りすぎだ」
「いいえ」ノエルはきっぱりと首を振る。「正規の騎士団では隠密行動や非合法な手段は取れませんし、情報が漏洩すればオーブリー卿に警戒され、密使の命も危うくなるでしょう。最悪の場合、帝国そのものが大きな混乱に陥る可能性も……。しかし、マスターであれば、最小限の犠牲で、最も効果的に事態を収拾できるはずです」
その言葉には、俺の能力への絶対的な信頼が滲んでいた。
厄介なことに、彼女の分析は的を射ている。
「それに……」ノエルは少し声のトーンを和らげた。「マスターは、結局のところ、お優しい方です。このミルウッドが、そして、あなたが守ったこの平和が脅かされるのを見過ごすことは、お出来にならないのではありませんか?」
湖面を渡る風が、俺たちの間を吹き抜ける。
ノエルの言葉は、静かに、だが確実に俺の心の壁を揺さぶっていた。
「優しい、ね……。ただの面倒事だと思っているんだがな」
ノエルはそんな俺の強がりを見透かしたように、穏やかな微笑みを浮かべた。
「もし、マスターがこの困難な任務をお引き受けになるのであれば、このノエル・アージェント。かつての『静寂』の名にかけて、情報収集、分析、作戦立案、そして必要な『準備』に至るまで、全力でサポートいたします」
ノエルの美しい横顔を見る。
こいつの助力があれば、まあ、大抵の物事には対処できるだろう。
「そんなに熱心に見つめられると、少し期待してしまいますよ、マスター?」
ノエルが、悪戯っぽく笑いながら俺の顔を覗き込んできた。その距離の近さに、思わずたじろぐ。
「……何を期待するんだ」
「おや、残念です。もし私がアリアさんなら、もっと素直に喜んでくださるでしょうか? マスターも隅に置けませんね。元部下たちにここまで慕われるとは」
くそっ、またこいつのペースだ。
俺はため息をつき、アリアが隠れていそうな茂みにわざと聞こえるように言った。
「みんな、俺を元隊長として慕ってくれているに過ぎないだろう」
「それはどうでしょうね」とノエルはくすくすと笑みをこぼし、それからふっと真顔に戻って俺を見据えた。「なんにせよ、マスターがこのミルウッドの平和を、そして……私たちのような者たちの居場所を、心の底から大切に思っていらっしゃることは、よく分かります。そのお気持ちは、きっとアリアさんにも、リリスさんにも伝わっていますよ」
そして、彼女はもう一度、力強く言った。
「そのために、あなたが再びその力を振るうことを厭わないのであれば、私はどこまでもお供します。それが、私たちの総意だと思ってください」
ノエルの言葉が、静かに俺の胸に染み渡る。
「……少し、腹が括れてきたかもしれん」
面倒事に巻き込まれるのはごめんだが、目の前の小さな平和が壊されるのは、もっとごめんだ。
どうやら俺は、そういう風にできているらしい。やれやれだ。
カクヨムで新作書いてます!
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ぜひ第1話だけでも読んでみてください!!
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