秋冬・稲荷寿司と巡る季節
連なる山々。とある村で。
その日、村の男も女も。子どもから年寄りまで。皆が皆、お稲荷さんを握っていた。
「なんでこんなことしないといけないんだよ」
一人の少年が袖を纏めながらぼやくと、彼の姉だろうか。隣で酢飯を杓文字で切っていた歳上の女性が「こら」と嗜めて眉を吊り上げる。
「お前も知ってるでしょ、村の言い伝えは」
「知ってるよ。狸に化かされて、狐に騙されてるって話」
「このおバカ!」
「イテッ!」
「おタヌキ様の怒りを買って村が滅びそうなところを、おキツネ様に助けてもらったんだよ。この日は毎年、その時のお礼の日だって、何度言ったら分かるんだい」
「分かってる、分かってる。要するに、狐に十何年も稲荷寿司を集られてるんだろ」
「この子は!」
ゲンコツを貰った男の子は口を尖らせ、二度目降ってきた拳をするりと躱しては踵を返した。
「なんでもいいや、馬鹿馬鹿しい。オレちょっと遊んで来るなー」
「淳!」
淳と呼ばれた少年は、村人たちの静止を振り切ってそのまま家を出て畦道と躍り出る。
「なーにがおキツネ様だよ、くだらねェ」
「ーー言ったな、童」
「っ、誰だ!」
低くもなく、高くもない。
かと言って、若くもなければ年寄りでもない。男と言われればそうとも思える。女と言われれば頷いてしまう。そんな声。
頭の後ろで手を組み歩いていると、突然背後から話しかけられた。
驚き反射的に振り返ると、そこには狐の面をつけた者が二人立っていた。
「やれやれ。まだ十年しか経っていないというのに嘆かわしい。人間のお頭がこうも弱いとは」
「それは言い過ぎじゃない、絹。生きていれば忘れることだってあるよ」
『絹』と呼ばれた方が袖を面の目に当て、よよよと泣き真似をする一方で。
フォローのつもりだろうか。ほぼフォローになっていないことを言う方が肩を竦めた。
面をしているため表情は読めない。
しかし、見て分かることはある。
面だけではない。着物も背丈も、頭の高い位置で束ねる、豊かな薄い橙色の髪も。それこそ、頭の先から足の爪の先まで。外見が何一つ違わないということだった。
「なんだよ、お前ら。気味悪りィ……」
突然現れたということ。また、写鏡のような容貌。纏う空気は、どこか浮世離れしている。
淳が僅かに右足の踵を引くと、『絹』は可笑しそうにくつくつ笑った。
「ほう。人智を超えた我らの気を感じ取ったか。満更馬鹿ではないらしい」
「だから、設定盛りすぎだってば。毎年一つずつ増えていくんだから。後で回収できなくなったらどうするのさ」
「……なんか今日は当たりが強くないか、綿」
「だって早く帰りたいもの。道草食ってる場合じゃないでしょ。小花ちゃん身重だし、手伝ってあげないと」
「アイツには駄ヌキも烏も猪も犬公もいるだろう」
「その中で台所に立てる人は?」
「……」
「……」
「……やむ終えん。
おい、童」
「な、なんだよ」
「私は忙しい。お前はさっさと家に戻って稲荷寿司を作れ。毎年欠かさずだ。いいな。さもなくばーー」
頬を撫でるような柔らかな風が吹く。『絹』の足が微風に乗るように地からふわりと浮いた。
刹那。
「ーー子々孫々我らが手から逃れられると思うなよ」
淳の正面。無防備な首に添えられたひやりとした手。ひゅっと息を呑む少年を、狐は嗤った。
「ではな」
「ッ、うぁ……?!」
一陣の風が土を巻き上げ、淳は慌てて顔を腕で覆う。目を開けてみると、そこに二人の姿はなく。
「な、んだったんだ……」
呆然と立ち尽くす淳。
まるで、微睡から突然目が覚めたような感覚だった。
(あれが、おキツネ様)
きっと、いや。稲荷寿司を作れと言っていたのだから、絶対にそうだ。年に一度のこの日に、村を見回りにきたのだろう。
(それに)
目を閉じる手前に見えた、面の隙間から伺った『絹』の横顔。それはまるで、この世の者とは思えないほど美しく整っていて。
「ーー姉ちゃん!割烹着貸して!」
「うわっ、びっくりした!お前、今までどこ行ってたのよ!」
「やっぱ稲荷寿司作るわ!とびきり美味いヤツ!」
「えっ」
「それでさ、おキツネ様たちに見染めてもらうんだあ」
「見初め……、は?」
「オレ、おキツネ様の婿になるから!」
「はァアアア!?」
やっと戻ってきたと思ったら何罰当たりな事言ってんのよ、このおバカ!と姉からはゲンコツを貰ってしまったが。
(子々孫々見てるってことは、オレのこと大好きってことだろ。狐だろうとなんだろうと、あんな美人二人に囲まれて往生出来たら満更じゃねーもんな!)
村で見ない美人に出会っては浮かれまくる淳少年。
彼は知らない。
「ーーぶえっくしょん!」
「うわっ、汚」
「綿ぁ!」
「あ、ごめんつい」
おキツネ様たちは、存外浮世の者だということに。
▽
頭の後ろがガンガン痛む。
引き摺られていった小屋の中に、何人いたかは分からない。
「お前がおタヌキ様に喰われていないからだ!」
「そうだ。それで今年の実りが乏しいんだ!」
お前のせいだと。
木霊のように頭に響く男の人たちの罵声。全身の骨が軋むほどの痛み。
殴られて、蹴られて。
「なあ、コイツ。もうヤられたのか」
「さあな。狸の趣味は分からんが。もういいだろ」
ぞわりと肌が粟立つような。まるで身体中を舐め回すような目で見られて息を呑む。
(気持ち悪い……!)
逃げたくても手足が動かない。
(恐い。嫌だ。逃げたい。助けて)
目の端からとりどめなく流れる涙。目をきつく閉じると、かの優しい笑顔が脳裏を過る。
(土井さんーー!)
いくつもの手がわたしの着物に伸びた。ーーはずだった。
「な、なんだ……!?」
突然地面が揺れた。
地面だけではない。木で出来た家が、振動に合わせてミシミシと軋み始める。
男たちは慌てて家を飛び出した。
揺れる家に一人残されたというのに、その時のわたしは妙な安心感を抱いた。
(ああ、よかった……)
もうあんな視線で見られることはない。
張り詰めていた気持ちがふつりと切れ、全身の力が抜ける。同時に肩がどっと重くなり、まるで自分の身体が重力のまま、地面に張り付けられているかのような感覚を覚えた。
(私、死んじゃうのかな)
不意に頭を過った予感。けれど。
(死にたくないなあ)
死にたくない。
かつて、雪の中に沈んだ時とはまた違う気持ちが芽生えた。わたしはその気持ちを確かめるように手繰り寄せ、離さぬように。浅い息を繰り返しながら、指先をきゅっと握り込む。
(願わくば)
願わくば。
次に目を覚ました時に、彼の笑顔を。あの陽だまりのような笑顔を見られますように。
彼の側にいられますように。
他には何も望まない。ああ、でも紫煙さんと絹さん、綿さんたちとも一緒にいたいなあ。
びっくりしてたから、小鳥さんたちにも謝らなくちゃ。
それにーー、
「小花!」
土井さん(貴方)にもっと「ありがとう」って伝えたい。
『俺は神様じゃないからね』
自分は狸。それ以上でも以下でもない。
そう語る彼の瞳の奥が、少しだけ寂しそうに見えた。
(どちらでもいい)
今ならはっきり言える。
そうであってもなくても。貴方がおタヌキ様だから出会う事ができた。貴方が狸だから山で過ごす事ができた。
色んなことを知って。色んな動物たちに出会って。
これからも側にありたいと願う。貴方が『土井さん』であることには変わりないのだから。
彼のことを想うからだろうか。ほっとするような温もりが身体を包み、痛みが引いていく。
(ああ、もうだいしょうぶだ)
なぜだろう。そう思う。
わたしの名前を呼ぶ彼の声が、遠くに聞こえた。
▽
「いやあ、豊穣豊穣!やっぱり稲荷寿司は最高だ!」
「本当に良かったのかなあ、これで」
「なんだ、綿。食べないのか?」
「今年採れたとはいえ、不作だったんだろう。ギリギリの生活している人様を騙してこんな……」
「騙してない、騙してない!拝みたいという人間たちの願いを叶えてやっているんだ。なにも悪いことなんぞしていないだろ。
そら、土井。お前も食え。今日は貴様にとって解放記念日だ。存分に食って祝え!」
「景気の良い絹ってなんか気持ち悪いなー。今度は何考えてるのさ」
「ハッハッハ!後々後悔するが良い!座っているだけで好物が手に入る!人間共に崇められ、チヤホヤされるこの座を自ら降りたことにな!」
「うわー……性格悪……」
「何とでも言え!取ったもん勝ちさ!アッハッハッハッハッ!」
そうして目を覚ましてみると、上機嫌も上機嫌。
今まで聞いたことのないくらい機嫌のいい絹さんの高笑いと、頭を抱えているであろう綿さん。それに呆れ返っている土井さんの声とが、灯りの灯る隣の部屋から漏れ聞こえてくる。
(何をやっているのだろう……)
気になりはしたが、いかんせん、身体が動かない。身を起こそうと肘に力を入れただけで背中に痛みが走り、「う……っ」と苦しげな声が出てしまった。
「どうしようかな……」
ぽつりと。
誰もいない部屋にわたしの声が響いた。その時だった。
「小花?!」
「土井さん」
スパン!と勢い良く障子が開き、隣の部屋が明らかになる。
食卓にうず高く積まれた稲荷寿司。
なんなら置く場所が足らず、寿司を頬張りこちらを向く人型の絹さんの両脇の大皿にも山盛りだった。
「それは、一体……」
「こ、こはな……」
「あ、はい」
「小花ぁああー!」
「わっ」
「っ、こら待て!」
絹さんの静止の声を振り切り、寝ているわたしにーー正しくはわたしの布団にーーダイブしてきた土井さん。無論、狸のお姿だけれど。
「っ……!」
「あああごめん!ごめん小花!小花!目が覚めて良かったぁあああー!」
「喧しい!」
「ぎゃん!」
絹さんの拳が土井さんの脳天に振り下ろされた。土井さんは痛い痛いと泣いて鼻水を垂らしながらも、わたしの布団を前脚で握って離さない。
全く、と嘆息する絹さんの隣から綿さんが顔を出し、苦笑しながらわたしの布団の脇に膝を折った。
「どうかな。その……、土井に突撃されたところ以外、どこか痛みはある?」
「い、いいえ。特には。あまり動かないだけで、痛みはありません」
「だって、絹」
「当然だ。この私が治したのだからな。それに」
「それに?」
「余程、コイツの念が強かったのだろうよ」
コイツ、と言いながら、絹さんは土井さんをついと横目で見る。
「術の強さは想いの強さに比例する」
「想い……」
「小花の痛みを取りたい。その気持ちの現れだ」
「そう、だったんですね」
気を失う前、身体の痛みが引いた。あれは土井さんの力だったんだ。
「ありがとうございます、土井さん。それに、絹さんも」
「あ?」
「治してくださったんですよね」
「……まあな。もっと有り難がれ」
照れているのだろうか。
腕を組み、口を尖らせ、ツンと鼻を上げる。その頬がほんのり色付いていて。綿さんと土井さんと顔を見合わせ、三人でそっと笑った。
「それであの、あそこの稲荷寿司はどうなさったんですか……?」
まさかあの量を三人で作ったわけではないだろうし。
気になっていたことを訊ねると、絹さんが「よくぞ聞いてくれた」と言わんばかりに目を輝かせ、綿さんが苦草を口一杯に含んだ顔をする。
「どうしても知りたいと言うなら仕方がない。ここは私が直々に語ってーー」
「土井が頑張ったんだよ。小花ちゃんを守るために、ね」
綿さんが語ってくれた。
それは言い伝えに繋がるおタヌキ様の物語。それは同時に、おタヌキ様信仰の終わりでもあった。
▽
とある男たちが山からの下り道で、一人の女から声を掛けられました。
「もし」
「見ない顔だな、アンタ」
「旅の途中でして。泊まる場所を探しているのですが、どこかご存知ありませんか」
着物から覗く、白く細い手足。笠の下から覗く唇は鮮やかで、声は鈴の音のように美しい。
男たちは互いに顔を見合わせニヤリと笑う。
「もう少し下ると俺たちの村がある。そこに泊まると良い」
女は男たちに着いて行きました。
村に着く少し前の茂みに差し掛かった頃。
一人の男が女の手首を取りました。
「わりぃな。他所もんを村に入れるわけにはいかねーよ」
男たちは女を茂みに連れ込もうとしました。女の人は謡います。
「冬の間に、狸の祠に。おタヌキ様が穴蔵にいる間に」
「ああ?」
「おタヌキ様の機嫌を損ねれば村人とて喰われる、そう習いませんでしたか」
女の人はぶくぶくと太り、縦に、横に膨らみました。
着物は破れ、傘は落ち、白い肌からは茶色の毛が生えて。その背は屋根を越え、木を越えて、体はみるみるうちに大きくなります。
「お、ーーおタヌキ様の祟りだぁああー!」
腰を抜かし、地面を這いながら逃げようとする男たち。
おタヌキ様は彼らのうちの一人の着物の背を摘み、ぶらりぶらりと揺さぶります。
「俺の嫁を虐めたのは誰だ」
村を見下ろすおタヌキ様。
畑にいる者は物陰探して逃げ惑い。家にいる者は、窓から隙間から震えながら息を潜めました。
ふと。
その間を通る二つの光がありました。
「コンコンコン、お良しなさいな、コンコンコン」
狐の面をつけた二人。
「鎮まれ、鎮まれ、コンコンコン」
まるで瓜二つの容姿。
彼らが謡い、手を招いていると、柔らかい風が葉を揺らします。
その風は、おタヌキ様の頬を優しく撫ぜました。怒りが鎮まったのでしょうか。
彼は持っていた人間をぽいと投げ捨て、くるりと身を翻します。
「次はないと思え」
びゅんと強い風が吹いたと思ったら、村を見下ろしていた影が跡形もなく消えていました。
「狐だ」
「おキツネ様だ……!」
過ぎ去った恐怖に、胸を撫で下ろした人間たちが湧き立ちます。
おキツネ様たちはその声を背に、謡いながら去って行きました。
「稲荷寿司、安全祈願としんぜよう、コンコンコン」
そして村人たちはその年から、おキツネ様たちのために稲荷寿司を握るようになったのです。
「ーーって、本当なんですか、それ……」
「本当なんです」
わたしが聞いてぽかんとしていると、綿さんが苦笑しながら肩を竦めた。
「わざわざ稲荷寿司まで要求する必要はなかったと思うんだけどね」
「何を言う。おタヌキ様を鎮めてやったんだぞ。当然の対価じゃないか」
「黒幕がよく言うよ。自分で考えた物語の癖に」
「綿ぁ!」
爽やかな日の太陽のような笑顔でさらりと毒を吐く綿さん。
片や、彼への弁明のつもりなのだろう。絹さんが半泣きになりながら「私だって善処したんだ。本当は山の動物たちを言い包めて村を襲わせそうとも考えたんだが、あまり人間を困らせると綿が嫌がると思って……!」と身振り手振りで恐ろしいことを話しているのを聞いて、つい口元が引き攣った。
(綿さんがいてくれて良かった……)
絹さんならやりかねない節がある。土井さんに引けを取らないくらい、悪戯が好きなお方だから。下手したら村がなくなっていたかもしれない。
二人のやりとりを聞いて苦笑していると、小さな前脚がぽんぽんとわたしの布団に軽く触れた。
「俺はもう、村の守り神であるおタヌキ様じゃない。だから、小花が狙われることもないと思う」
「土井さん」
「痛い思いをさせてごめん。恐い思いをさせて、ごめんね」
気遣うような、静かな声。
前髪をよしよしと撫でられて、目の奥が熱くなる。鼻を啜り、涙を零さんとぐっと唇を閉じると、土井さんが目を細めた。
「いいんだよ、泣いて。ね、小花」
「っ……!」
痛かったね。ごめんね。もう大丈夫だから。
布団の横で人型に戻った彼が身を屈め、そっとわたしを抱き締める。肌に触れる彼の温もり。その肩に。わたしの涙が一粒、また一粒と流れては染みを作った。
「土井、さ」
「うん」
「お着物が」
「いいよ、いいよー。じゃんじゃん汚してー」
「ふっ、ふふっ……!なんですかそれぇ……!」
最早泣いているのか笑っているのか分からない。分からないまま涙は流れ、嗚咽は漏れる。鼻水も垂れるがまま。人目を憚らず、声を上げてわんわん泣いた。
痛かった。恐かった。死んじゃうかと思った。
まるで濁流のように感情が流れ出る。
家族が亡くなり、一人になった時は泣けなかった。だって一人だったから。
『いいんだよ、泣いて』
そんなこと、言ってくれる人はいなかった。
『じゃあお前のところで育てればいいだろ!』
『なんでうちが!』
厄介者でしかなかった。
本当は寂しかった。悲しかった。誰かと一緒にいたかった。
でも泣いてもどうしようもないって。泣いたら迷惑がかかるから。迷惑にならないように生きていかないとって。そう思っていた。
「これからはずっと側にいるよ」
「っ、土井さん……」
「なんたってもう、小花のことが好きなだけのただの狸ですからー」
戯けるように言う彼。わたしは痛む腕を叱咤し、その背中に手を回す。
「そんなこと、ありません」
「!小花」
「土井さんはただの狸じゃあありません」
土井さんは時折、ご自分を卑下なさる。
『俺は神様じゃないからね』
神様じゃなくていい。なんなら狸じゃなくてもいい。
「土井さんは土井さんです」
温かくて。優しくて。ちょっぴりお茶目で。時たま怠惰なところが覗いちゃうけれど、それもまた愛嬌があって。
「わたしにとって、かけがえのない。大切なお方です」
だからもっと伝えたい。
「大好きです」
「ッ」
今の力の限り抱き締めると、土井さんは息を詰め、わたしの髪に顔を埋めて擦り寄った。
「……小花」
「はい」
「好き」
「はい」
「大好き」
「ふふ、嬉しいです」
「俺も嬉しい……」
心なしか土井さんの声が涙声な気がするけれど。わたしもまだ少しだけ涙が出るから、お互い様かな。
そんなわたしたちを見つめる絹さんと綿さんが顔を見合わせ、ふっと口元を綻ばせた。
「やれやれ、今は夏だったか。暑くて敵わんのだが」
「歳取ったから逆上せてるんじゃない?」
「なあ、綿」
「どうしたの、絹」
「実は私のことが嫌いか」
「兄弟に好きも嫌いもあるの」
「ただいま戻りました。
あれ?皆さんどちらにーー」
ふと、言葉が途切れた。
向こうの居間から顔を覗かせた、一人の男の子。私より二、三歳上だろうか。
さらりと揺れる黒髪。細身の身体。涼しげな目元にスッと通った鼻筋。
漆黒の双眸は驚きに染まり、形の良い薄い唇が細かく震えた。
「ななしさん……」
「え」
「ななしさーん!」
「ええっ?!」
「っ、おい!待て!」
そして持っていたりんごの籠を絹さんの腕に押し付けて、わたしの方へ飛んで来る。
くるりと宙で返り、現れたその姿は。
「貴方、あの時のーー!」
「ワンッ!」
村で小屋にいた時に一緒に過ごした、黒い子犬ーー今やすっかり成犬になった彼だった。
わたしの体調を憚ってか、器用にも土井さんの肩に前脚を掛け、わたしと鼻をくっつける。きゅーんきゅーん、と甘えるような声を出して頬を擦り付ける仕草は昔のままだった。
「どうしてここに……」
「狸の方に拾って頂きました」
「土井さんに?」
わたしが土井さんを向くと、彼は小首を傾げて言った。
「村に行った時だよ。俺が術を解いて帰ろうと思ったら、籠の中で繋がれてるところを見つけてね」
『あの!そちらの!狸の方!』
『うん?どうしたの、君。こんな小さなところに入って』
『僕のことはいいんです!貴方がおタヌキ様ですよね』
『元、ね。それがどうかした』
『ななしの子は無事ですか?!冬の間に村を追い出されてしまったあの女の子は……!!』
「って、声を掛けられたから連れてきちゃった。もしかして、冬の間に小花が話していた子かなと思って」
違った?と訊ねられ、首を横に振った。
「違いません……!ありがとうございます」
土井さんの背に回していた手で、私は彼の頭をそっと撫でる。
「ずっとお礼を言いたかったんです。
一人の時に側にいてくれてありがとう」
「とんでもない。僕の方こそ、いつもご飯を分けてくれてありがとう。一緒に布団で眠らせてくれてありがとう。
また一目でも貴女に会いたいと思ったから。どれだけ寂しくても、寒くても、お腹が空いても、こうして希望を持って永らえることができました。本当に、本当に感謝しています」
「そ、そんな大袈裟な……」
「大袈裟ではありません。ななしさーー、いえ。今は小花さんでしたね。小花さんのお陰で、今の僕がありますから」
あまりに真っ直ぐな好意を向けられ戸惑っていると、「俺の気持ちが分かったでしょ」と土井さんがニッと歯を見せて悪戯な笑みを浮かべた。
「似てるよねー。わんちゃんのそういうところ。小花にそっくりだよ」
「「そうでしょうか……?」」
図らずとも声が合わさり、顔を見合わせる。揃って首を傾げていることに気付いて、どちらともなく吹き出した。
「そういえば、貴方の名前はまだ……」
「はい。頂いていません。小花さんにつけてもらいたくて」
「えっ、わたしに……?」
嬉しそうに尻尾を振る彼。わたしが驚いて自分を指差すと、絹さんがやれやれと肩を竦める。
「折角私が相応しい名つけてやると言っているのに、頑として聞きやしないのだからな」
「絹はちょっとね」
「絹さんは嫌です」
「おい、居候二人」
何様だ貴様らそこに直れ、と額に青筋を浮かべる絹さん。それに対し、犬の子は頑として譲らず、土井さんはいつも通りのらりくらりと躱している。
わたしはそれをどこか遠くに眺めながら、顎に手を当てた。
(名前、かあ……)
わたしが付けてもいいのだろうか。否。付けてほしい、と彼は言った。
(どんな名前がいいかな)
土井さんは、……両親は、どうやってわたしの名前を決めたのだろう。
わたしが黙り込んでいると、綿さんが何気なく口を開いた。
「どう?何か思い浮かんだ?」
「いいえ……」
悲しいくらいさっぱりだ。こうも浮かばないと悲しい通り越して申し訳なくなってくる。
わたしが力なく首を横に振ると、それを聞いた犬の子がキリリと表情を引き締め力強く頷く。
「急がなくて大丈夫です!僕、小花さんが付けてくださるのなら、一日でも一週間でも一ヶ月でも一年でも十年でも、ずっと、ずーっと待ってますから!」
「流石にそんなにかからないよ?!」
「ほう、とんでもない忠犬を従えたな」
「従えていません!」
「俺も忠犬だよ。狸だけど」
「張り合わないでください……!」
土井さんまで何を言い出すのやら。
ほとほと困って土井さんの服を引くと、ドッと笑いが沸き起こる。
「冗談だよー、九割本気だけど」
「本気って言うんだよ、それ」
「僕はいつでも本気です」
「「だろうな(ね)」」
いつか言い争っていた光景が嘘のよう。軽口を叩き合い、たとえ言い合っていてもそれは決して冷たいものでなく。どこか温かく感じる。
(まるで春みたい)
芽吹く。展げる双葉。
「あ」
「ん?どうしたの、小花」
「思い浮かびました。この子の名前」
わたしはきょとんとする目の前の彼の身体を抱き上げ、自分の膝に乗せる。
澄んだ瞳。興味津々にこちらを見つめ、小首を傾げる愛らしさ。
「この子の名前はーー」
季節は巡る。
別れと出会いと、再会を繰り返しながら。
この他愛ない時間が。
皆といるこの時間が、少しでも長く続きますように、と。ちょっぴり贅沢な願いを乗せて。
どうか、これからも。