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夏秋・山菜と暗転


 それからの日々は、まるで矢のように過ぎていった。


「あの、これ……、わたしが使ってみてもいいですか……?」

「なんだ、お前。学があるのか」


 土井さんが食料を調達に行っている間のことだった。


 お借りしていた客間を掃除していると、押し入れの奥に埃を被った墨と硯、筆に文鎮、それに束になった半紙を見つけた。


 (使っても、いいのかな)


 膝に乗せて一つ一つ拭いてあげると、新品のような輝きを放つ。


 絹さんか綿さんに聞いてみようと居間に足を向けた。持っていた道具を脇に置き、部屋の前に正座をしてから障子の向こうへ声をかける。


「小花です」

「どうぞ」


 この言い方は恐らく綿さんだろう。

 障子を開けると、案の定。お二人揃ってちゃぶ台でお茶を啜っていた。


「あの、これ……、わたしが使ってみてもいいですか……?」


 そうして、冒頭に至る。

 絹さんはわたしの言葉に目を軽く見開き、綿さんは湯呑みを置きながら感心したように目を細めた。


「へえ、凄いな」

「いえ、そんな……、大層なものではないです……!ひらがなを、お父さんに教えてもらったことがあるだけで……」

「十分だ。

 綿」

「うん?」


 絹さんに手招きされた綿さん。彼が耳を寄せると、絹さんが何やらごにょごにょと話す。


 綿さんは「うん、うん。いいんじゃない?土井も反対はしないでしょ」と頷いては、わたしを向いて言った。


「小花ちゃん。手習い、やってみる?」

「手習い、ですか……?」

「うん。ひらがなは知ってるみたいだから、漢字を教えてあげるよ」

「漢字……」

「女性はひらがなって言うけれど。知っていて損することはないからね」

「習字は綿、そろばんは私。どうだ」

「そ、そろばんも……!」


 いい、のかな。


 (知らなかったことを、知ることができる)


 そう思うだけで胸が熱くなり、自然と口元が緩む。


 昔からそうだった。


『おとうさん、これなあに』

『蟻さんだよ』

『ありさん』


 蟻が長い行列を作って歩いていることが不思議だった。

 鳥が空を高く飛んでいることが羨ましかった。

 蝉が夏に、蜻蛉が秋に出てくることが珍しかった。


『×××は好奇心が強いなあ』


 久しく忘れていた。知りたい、という、この気持ち。


 絹さんを綿さんを交互に見、わたしは胸の前でぐっと両手を握った。


「やりたいです……!」

「よし」

「書いてみたい漢字はある?」

「どい……」

「「うん?」」

「土井さんのお名前、書いてみたいです」


 そうして、最初に習った。「土井」の字。


 井の字の払いがちょっと難しかったけれど。畑仕事から戻ってきた土井さんに書いて渡したら、満面の笑みを浮かべてくるくると回りながら喜んでくれた。


「凄いや、小花!これ額縁に入れて居間に飾ろう!」

「待て。ここを誰の家だと思ってる」

「みんなの家でしょ」

「私と綿の家だ!」


 毛を逆立てる絹さんと、あっけらかんと宣う土井さん。二人のやりとりを見て、わたしと綿さんは笑い合う。そんな日常。


「小花、そっち行ったよー!」

「はいっ!」


 川で魚を獲ることも。


「えっと、この実は食べられる実で、こっちは食べたらお腹壊しちゃう実で……。そっちは紫煙さんが嫌いな実」

「ふむ。なかなか飲み込みがいい」

「ちょっと、紫煙さん。小花になに教えるのさ」

「なあに。食べていくのに必要な知恵よ」

「はい、これは土井さんの好きな実です」

「わー!ありがとう!」

「はっ、チョロイヤツだな」

「絹さんはこれで、綿さんはこれ」

「小花ちゃんは?」

「わたしは全部好きです」

「顔に似合わず強欲か」

「えっ」

「「絹」」

「私は悪くない!」


 山の食べ物も覚えた。


 自分で出来ることが、一つ、また一つと増えていく。


 (楽しい)


 それに、嬉しい。


 (いつもしてもらうだけだったから)


 みんなに食べさせてもらって。採ってもらって。教えてもらって。


 最初は、無知で何もできない自分が歯痒かったけれど。今は少しでも何かをしてあげることができる。返すことができる。


 それがどうしようもなく嬉しかった。


「こはなだ!」

「わらってるー」

「なにかいいことあった?」

「あ、小鳥さんたち。こんにちは」

「「こんにちはー」」


 チチチチ、チチチチ、と愛らしい声を奏でながら、小鳥さんたちがわたしの周りで遊んでいる。


 わたしは今日も今日とて、竹で編んだ籠を手に山の中を歩いていた。


 木陰や川で涼むような時期はなりを潜め、今は朝晩は肌寒くなって来た。その代わりに木々は紅葉し実をつけ、足元は山の幸で溢れている。


「小花、山菜取り一人で行くのは寂しいでしょ。今日は俺が一緒に行ってあげるよ」

「お前はこっちだ。手を貸せ」

「借りるなら猫に借りてくれない?」


 土井さんは、雪が降る前に蔵の掃除をしたいという絹さんにガッチリ捕まってしまった。


 屋敷の裏。畑の側に、大きな蔵が一つある。

 しかし、その大きさのため、三人で三日やってもなかなか片付かないらしい。


 昨日一昨日と使われていた土井さんは夜、狸のままの姿で枕に突っ伏し、ひたすら文句を垂れていた。


「もういい加減にして欲しいよね。窓と扉を開けても、埃っぽいし。アレ絶対、二、三十年は軽く放置してたって。自分だって面倒なことは手をつけない癖に、人には小言ばっかりで言ってさー」

「まあまあ……、明日はわたしも手伝いますから」

「小花は絶対に駄目!」

「えっ」

「あんなに物が積まれてるんだよ?!落ちて来た物に押し潰されて圧死したらどうするのさ!」

「そ、そんなにですか?!」


 一体何が積まれているのだろう。


 布団に前脚を着き、がばりと身を起こした土井さんの必死な形相と言ったら。


 (片付いたら見せてもらおうかな……)


 ちょっとだけ興味が湧いたことは、まだ彼には言っていない。


「ーーよし、こんなもんかな」


 首に掛けた手拭いで、頬の汗を拭った。


 籠の上にはアケビや山栗、むきたけやなめこ。それに舞茸も乗っている。


 (栗は土井さんにあげるとして。それから、きのこは絹さんか綿さんに確認してもらわなくちゃ)


 なめこはお味噌汁に、舞茸は天ぷらにしたら美味しいよね。今日は紫煙さんもいらっしゃるかな。


 そんなことを考えながら歩いていた。


 だから気付かなかった。


「「こはな!うしろー!」」

「えーー」


 ーーゴッ。


 頭の中に響く鈍い音。

 視界が触れ、手足の力が抜ける。小鳥たちの鳴く声が、遠くに聞こえた気がした。




「はーい、休憩ー」


 持っていた巻物の山を蔵の外に出してから、俺は地面に腰を下ろした。竹筒の水を煽ると、綿と一緒に何か大きなーーまるで脱穀機のような形のーーものを運び出した絹が、それを地面に下ろし、あからさまに顔を顰める。


「一時間前にしたばかりだろうが」

「そんなに根を詰めて続くわけがないでしょ」

「お前みたいにやっていたら一年掛かるわ!」

「僕も少し休もうかな」

「ああ、その方がいい。茶と菓子を持って来よう」

「変わり身早」


 俺の時とは打って変わって真面目な顔になり、そそくさと土間へ向かう狐。


 相変わらずの扱いの差に嘆息すると、眉を下げた綿が俺の隣で苦笑する。


「土井のことが、本当に嫌いなわけじゃあないんだよ」

「分かってるよ」


 本当に嫌なら、いくら小花がいるとはいえ、絹の性格からして半年も置いてくれるわけがない。とっくの昔に追い出されているはずだった。


 注文を付けながらも見逃してくれているのは、……なんだろう。俺には心当たりはないけれど、何かこう、彼なりに考えがあるんじゃないかなと思う。


「まあ、使い倒されなければいいや」

「酷いようだったら言ってね。止めるから」

「綿さまぁー」

「大袈裟だな」


 俺は戯けながら狸に戻り、仰向けになって綿の膝の上に滑り込む。その時だった。


「ーーぃ変、大変、大変、たいっへんよォオオオオオオオー!!」


 まるで地面を揺らさんばかりの蹄の音。轟音のような猛る声がこちらに近づいたと思ったら。


 ーードォオオン!


 と、茶色の塊が一直線に屋敷の土間に突っ込んだ。


 ドンガラガッシャーン、ドガーン!と何か崩れ、壊れる音が響き、代わりに蹄の音が止む。静かになった土間からは、土煙がもくもくと立っていた。


「……ねえ、綿」

「なんだい、土井」

「あそこに絹、いるよね」

「さあ、どうだろう。土間を通過して、居間にいるかもしれないし」

「ああ、そっか。そうかもしれないね!」

「きっとそうだよ!」

「そっか、そっか!」

「そんなわけがなかろうが!この大雑把共!!」

「「あ、生きてた」」

「猪如きで死んでたまるか!」


 地獄耳を立てた絹が、顔も身体も煤だらけにして戻ってきた。


 どうやら土間からここまで引き摺ったらしい。その手は、目を回している猪の口の角を掴んでいる。


「あれ、(たけ)さんじゃん。どうしたの」


 猪の猛太郎(たけたろう)さん。


 名前と見た目のごっつさに騙されるなかれ。俺の知る限り、心は山の誰よりも乙女で、誰よりも綺麗好きで、美意識が高い。


 角はいつだってツヤツヤ。タワシのような猪の毛も、彼にかかればその毛並みにはいつだって鳥の羽のようにふわふわだった。何をしているのかは分からないけれど。


 俺が綿の膝から降りて、猛さんに近付くと、彼の豚鼻がひくひくと動く。そしてクワッと目を見開き、「誰の牙を掴んどるんじゃ、ワレェ!」と野太い声で絹を吹っ飛ばした。


「ぐはぁっ!」

「うわっ」

「わ、綿に避けられた……!」

「ご、ごめん。つい」


 地面に振り落とされた衝撃よりも、綿に受け止めてもらえらなかったショックの方が大きかったらしい。


 地に伏してしくしくと泣く絹の背を、しゃがんだ片割れが慰め程度に摩っている。


 一方で、肩で息をする猛太郎さんの前に俺が水の入った器を差し出すと、彼はそれをぐびぐび飲んでから勢いよく顔を上げた。俺を射抜くその目は、これまで見たことないほどに真剣なものだった。


「土井ちゃん、いい?落ち着いて聞きなさい」

「うん」

「小花ちゃんが人間の男たちに攫われたわ」

「はーー」


 言葉を失う俺の後ろで、二人が息を呑む。


「小鳥たちが見たのよ。後ろから殴られたらしいわ。大慌てで紫煙に知らせに行ってね。人間の方は、アイツの指揮する鳥たちが追ってる」

「なんで、それを猛さんが」

「あら。受けた恩は返すのが道理でしょ。

 アタシ、あの子に助けられたことがあるのよ。これくらい当然だわ」


 それに、可愛い子は放っておけないでしょ、とバッチリ決まった睫毛でウインクする。


 そしてその場に腰を下ろし、俺に向かって背を見せた。


「さあ乗りなさい、土井。連れて行くわ」

「分かった」


 迷っている暇なんかない。小花のことだもの。


 俺の脚より、猛さんの脚の方が速いのは知っている。


 誰でも助けてくれるなら、甘んじて受ける。それが俺だ。


「行くわよ!」


 そう言ったが早いや、猛さんが地を蹴った。というより、踏み込んだ。力強く。


 猛進。


 まさにそれに相応しい走り。背中に爪を立てなければ振り落とさそうだった。それでも。


 (振り落とされるもんか……!)


 俺は冷たい向かい風に、奥歯を噛み締め耐える。


 (小花)


 想い、脳裏を過ぎるのは。まだ少しだけ、ぎこきない君の笑顔。


『あの、土井さん。これ……』

『うん?』

『土井さんのお名前、書いてみました』


 どうですか、と、差し出された半紙。


 筆を取った君が。

 一番に俺の名前を書きたいと言ってくれたと知って、舞い上がった俺の気持ちを、君は知らないだろう。


『はい、これは土井さんの好きな実です』


 俺のことを覚えていてくれた。


 春になって。君は俺以外の動物たちとも関わるようになった。


 二人の時間が減ってしまってからは、年甲斐なくも寂しいなー、なんて。そう思ってしまったことは何度もあるけれど。


 ひょんな時に、ちゃんと君の中に俺がいることが伝わって来るんだ。


『土井さん』


 向けられる純粋な笑顔に、何度救われたか分からない。


 (なのに。どうして……!)


 初めて会った時の、色のない瞳。


 季節が移ろい、時と共に、君の表情もやっと増えて来たのに……!


『わたしにとっては、土井さんが神様です』


 俺はぐっと目を瞑り、開ける。浮いて来た涙を弾いた。


 (頼むよ、神様……!)


 無事いてーー!


 藁にも縋るような願い。


 だが、俺は甘かったんだ。小花との温かく、優しい日々に浸っていて忘れていた。


 目の前に広がる現実はいつでも正直で。

 目の前に広がる現実は、いつでも残酷だということを。

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