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冬・鳶色の瞳との出会い

『冬の間に、狸の祠に。

おタヌキ様が穴蔵にいる間に』


 村から(うた)が聞こえる。わたしは両脇の大人の男たちに腕を抱えられ引きずられるように雪道を進んでいた。


 (足が冷たい)


 雪が止んだとはいえ、溶けてはいない。ひたりひたりと歩く度、足裏から伝わる冷たさが棘のように刺さる。


 (寒い)


 ぶるりと身を震わせる。


 纏っているボロ一枚は、膝小僧すら隠せない。手は悴み感覚はなく、吐く息だけが温かかった。


 わたしは、これからおタヌキ様に嫁に行く。


 (そうだというのに)


 髪はぼさぼさに伸び切っており、顔も汚れている。腕も足も、秋の枯れ木の枝のようで、身体も同年代の村の子どもより小さくやせ細っていた。


 一度だけ、遠目で「お嫁さん」を見たことがある。

 髪を結って、ふくらとした頬にお化粧をして、真っ白な衣装に身を包んでいた。とても綺麗だと思った。


 今のわたしは、お嫁さんというにはあまりにみずぼらしい。


 (おタヌキ様に怒られないといいな)


 おタヌキ様は、村の守り神だ。


『おタヌキ様はその昔、悪い旅人を喰って、村を守ってくれたんだよ』


 親戚のおばさんはそう話してくれた。


『そんなおタヌキ様の機嫌を損ねてはいけない。そうしたら、わたしたちも喰われるからね』

『わたしたちも?』

『そうさ。だから、そうならないようにおタヌキ様には十年に一度、お嫁さんを出さないといけないのさ』

『お嫁さん』

『うちは息子しかいないし、末の娘はまだ三つだ。だから、お前が嫁に行ってくれるね、×××』


 両親を亡くし、兄弟を亡くしたわたしに行く当てはなかった。わたしは、おタヌキ様のお嫁さんになることを受け入れた。


 その日から、わたしの花嫁修業は始まった。

 おばさんの家から連れ出され、一軒の小屋を与えられた。


 そして、おタヌキ様のお嫁さんは怪我をしてはならないからと、小屋から出してもらえなくなった。

 食事は一日一回。季節が移ろうにつれて、二日に一回になった。


 お茶碗半分のご飯を握り飯にして、掛け布団の下に隠しておいた。食事がない日にはそれを食べた。


 小屋には、動物避けに黒い子犬がいた。おとなしい子だった。夜はふたりで寄り添って眠りについた。


 (あの子、今どうしているかな)


 寂しい時も、寒い時も。ずっと傍にいてくれた、大切な子。


 本当は一緒に来られたら良かったけれど。


 小屋を出る時にはもう、自分が立つのもやっとで頭を撫でてあげることさえできなかった。今だって両腕を支えてもらわらなければ、まっすぐに歩くことさえままならない。


 (せめてお礼は言いたかったのにな……)


 爪先が固い雪にぶつかった。


 わたしがよろけると、男たちはぼやいて言った。


「面倒くせぇな。担いでいった方が早いさ」

「やめろ。おタヌキ様に祟られてぇか。おタヌキ様は男の手が身体についた女は受け取らねぇ」


 彼らは、太い皮の手袋をしていた。


 祠が見えてきた。分厚い雪を被っている。


 男たちは、それを振り落とし、わたしを祠の前に投げ捨てた。積もった雪が受け止めてくれなければ、体中傷だらけになっていただろう。


「おタヌキ様の嫁だかなんだか知らねーが、俺たちのためにしっかり喰われろよ」


 そう言い残して、彼らは立ち去った。雪を踏む音が聞こえなくなり、代わりに静寂が下りる。


「冬の間に、狸の祠に。おタヌキ様が穴蔵にいる間に」


 村を出るときに聞いた唄を呟いた。

 雪こそ降っていないが、溶けていない。冬であることに違いはない。


 おタヌキ様は、冬の間穴蔵でお休みをしているらしい。

 嫁となる者は、主人であるおタヌキ様が祠にお帰りになる前にそこにいて、お出迎えをしなければならない。


 けれど。


 (わたしにできるだろうか)


 裸足でここまで来た。足の感覚はない。手は悴み、雪の中で沈んだ身体は動かない。唯一、心臓の音だけが耳の奥でとくとくと聞こえてくる。


 どれくらいそうしていただろう。

 また雪が降り始めた。このままでは埋もれてしまうかもしれない。おタヌキ様はこんなわたしでも見つけてくださるのだろうか。


 (いつか)


 いつか春が来て。雪が溶けたら。そうしたら見つけてもらえるかもしれない。それまでこの心臓が動いていますように、と。祠を見つめてそう願った。


 ――その時だった。


「ひー、まだ寒いなー」


 年上の男性の声がした。サクサク、キュッキュッと雪を踏みながら近づいてくる足音は、人間のものにしてはやけに小さい。


 サクサク、キュッキュッ。サクサク、キュッ。


「え、人間?」


 そして戸惑いの声と共に、私の前で止まる。それからその足音は、声と一緒にわたしの周りをぐるりと回った。


「ねえ、君。どうしたの?もしもーし、生きていますかー?」


 もしかしたら、おタヌキ様がわたしの願いを聞いてくださったのもしれない。それで、この声をわたしに届けてくださっているんだ。


 応えようと口を開けたが、乾いた唇からは白い息しか出てこなかった。


「あ、生きているね。でも声が出ない?」


 そうです、と。口を動かした。


「うーん、ちょっと体が疲れてるみたいだね。よいしょ」


 声が、人になった。こちらを見下ろすシルエット。逆光でその顔は見えない。


 伸びてきた手が、前髪を分けておでこに触れる。そこから伝わるぬくもりが、手に胸にお腹に足に、全身に沁み渡っていくのを感じた。


 まるで、焚き火に当たっていような温さが指先に伝わる。


「あったかい……」

「よかったー」


 あ、声が出る。


 気付いてゆっくり身体を起した。顔を上げると、微笑むお兄さんと目が合った。


 土色の髪を結いあげている。人懐っこいくりくりの瞳は、鳶色をしていた。こんなに寒いのに、甚平を着て素足で雪を踏んでいる。


「あの、ありが――」


 言いかけて、どくりと心臓が嫌な音を立てた。


『おタヌキ様は男の手が身体についた女は受け取らねぇ』

『おタヌキ様に祟られてぇか』


 ここまで連れてきた大人たちの言葉が頭を過ぎり、体が恐怖に震える。


 (どうしよう)


 男の人に触られてしまった。


 (わたし、)


 それに、この人も祟られてしまうかもしれない。


 胸の前で両手を握り込み、俯く。そんなわたしの様子に気付いたお兄さんが、心配そうに顔を覗き込んできた。


「どうしたの?まだどこか痛い?」

「いえ、違います。ごめんなさい……」

「どうして謝るの」

「わたしのせいで、お兄さんが祟られてしまうかもしれないから……」


 言葉尻が小さくなるわたしに、お兄さんが訝しげに眉を顰めた。


「祟られる?誰に?」

「おタヌキ様です」


 村の風習。


 自分がおタヌキ様のお嫁さんであることを伝えると、それを聞いたお兄さんは、顎に手を当て「あー、もう十年経ってたのか」と空を仰いだ。


「こっちこそごめんね、すっかり忘れてた」

「はい?」

「でも俺、人間を喰う趣味ないんだよなー。今回もあの人に頼もうかな」


 腕を組んでは、うーん、うーんと首を捻り、考え込むお兄さん。


 (不思議な人)


 おタヌキ様のことなのに、まるで自分の事のように言うなんて。


 (もしかして)


 わたしはきゅっと唇を結び、恐る恐る口を開いた。


「あの」

「うん?」

「ひょっとして、お兄さんって」

「あ、俺ね。狸の土井(どい)っていうんだ。君たちのいう『おタヌキ様』だよー」


 お兄さんがその場に立ち上りくるりと回った。するとあろうことか、茶色の毛をした狸になった。


「え」

「えへへ、どうも狸ですー」


 戯けたように笑うおタヌキ様に対し、わたしは唖然と立ち尽くす。


 (どうしよう。本当におタヌキ様(本人)だった……!)


 やっと状況を飲み込み慌ててひれ伏すと、彼は小さな前足でわたしの頭を撫でて言った。


「長生きしていれば誰でも出来るよ」

「い、いえ、そんな……!」


 とても出来るようになるとは思えない。


 わたしは混乱する頭を振り、雪に頭を着けたまま言った。


「わ、『わたくしは、おタヌキ様にお会いするために生きてきました。わたくしは貴方様のものですから、貴方様の御心のままになさってください』」


 嫁入りの際に言うようにと。習った通りの言葉を告げると、彼はじっとわたしを見つめ、おもむろに口を開いた。


「君、名前は?」

「ななし」

「うん?」

「名無し、と申します」


 かつて持っていた「×××」という名前。


 おタヌキ様のお嫁さんとして喰われる。嫁入りには必要のないものだと取り上げられ、呼ばれることもなくなった。


 そのことを話すと、おタヌキ様は「ふーん」と相槌を打って静かになる。


(ご機嫌を、損ねてしまっただろうか)


 わたしが何も言わずに身を固くしていると、雪を踏む足音が遠ざかっていく。


 それから同じ足音がまた雪を踏みながら、わたしの前で止まった。


「よし、顔を上げてごらん」

「はい」


 言われるままに顔を上げた。


 目の前にあったのは、おタヌキ様の笑顔。彼はにこりと笑い、前足で前方を指して言った。


「君はアレだ」


 『アレ』。


 彼が掘り返したのだろうか。雪の中に埋もれながらも咲いている、白い小さな花だった。


「小さな花。小花(こはな)

「こはな」

「君の名前だよ」

「名前を、頂けるんですか……?!」


 これから喰べられるとばかり思っていた。それなのに名前なんて。


 驚いて聞き返すと、おタヌキ様はさも当然のように深く頷く。


「君は俺のものなんでしょ。なら、俺が俺のものに名前つけるのは当たり前じゃないか」

「でも、喰」

「喰わないってばー。さっき言ったじゃない。俺、人間を喰う趣味ないんだって」


 この世には他に美味しいものがたくさんあるしねー、と明るい声が踊る。


「あの、おタヌキ様」

「土井」


 前足をわたしの膝に置き、顔がぐいと近づいてきた。まん丸の瞳が優しく弧を描く。


「俺の名前。呼んでごらん」

「土井、様」

「さ、さま……」


 近かった顔が、がくんと項垂れた。


 お気に召さなかったのだろうか。おタヌキ様は、「様かー」と天を仰ぎながらゆらゆら揺れている。


 不可解な行動に内心首を傾げながらも、わたしは他の呼び方を逡巡して言った。


「土井、さん。なんていかがでしょうか」

「うん。それならいい」


 前足でお腹をポンと打った。


 くりくりした瞳が煌めいたのが可愛らしくてくすりと笑うと、土井さんが目を見張る。


「も、申し訳ございません」

「どうして謝るの。今の君、とっても可愛いよ」


 可愛い。

 彼の言葉に、胸に灯りが灯るのを感じた。

 

 (可愛いなんて、言ってもらえると思わなかった)


 こんなに薄汚れているのに。

 こんなに見ずぼらしいのに。


 (お世辞だよね)


 分かってる。それでも心は温かくて。嬉しくて。鼻の奥がツンとした。


「これからよろしくね、小花。俺の可愛いお嫁さん」


 優しく微笑む土井さん。


 この方の隣にいたら、いつかわたしもなれるだろうか。


 幸せな笑みを湛えていた、あのお嫁さんのように。

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