30.新たな幸せ
「――アイリス。ほら、アイリス、もうすぐ着くよ」
「……ん? ひゃっ……」
アイリスは小さく身じろぎすると体を起こし目をこすった後、自分の掴んでいたものを見てびっくりする。丁度いい感じにリックスの膝が手のひらに収まっていたのだ。
馬車の座席で、彼の太ももを枕に寝こけてしまっていたらしい。
「すす、すみません!」
「ううん。膝の上でぐっすり寝てくれて、俺もなんか幸せだった。それより、見てみな」
リックスが髪の毛を整えてくれて、アイリスは恥ずかしさに顔を俯けながら、視線を馬車の窓の外へやり、大きくまばたきする。
「わぁっ! あれが……エルジェード王国の王都なんですね。綺麗……」
「レイメールとはちょっと違うよな。なんというか、開放感があるって言うか……」
リックスもアイリスに顔を寄せて窓の外を眺める。
やがて、馬車は門の外の停留所でゆっくり止まり……ふたりは下に降りると初めての街を前に、空気を胸一杯に吸い込んだ。
「今日から、俺たちここで暮らすんだな……」
「ええ……。あ、あの! 本当に同じ家でいいんですか?」
「あらっ」
頬を赤くしたアイリスの言葉に、リックスはがくっと首を落とす。
「さんざん相談して決めたじゃないか。何か不安があるなら話しなよ」
「不安って言うか……私」
「自分でいいのか、なんてのはナシだからね」
「うっ」
先手を打たれ、アイリスはぐっと口ごもる。そんな彼女にリックスは、真面目な顔で言った。
「何度でも言うからな。俺は、アイリス以外と付き合う気も、結婚する気もないから。あんたが俺と結ばれてくれないなら、一生独身でいい」
「駄目です! わ、私決めたんですから……あの時、あなたのことも幸せにするって。だから、そんな寂しいこと言わないでください」
「なら、何も問題はないよな」
リックスはニカッと笑うと彼女の手を掴んで、地図を広げ指差した。
「あの通りの向こうだってさ! 行こう!」
「ま、待ってください……!」
子供みたいにはしゃいだ表情で走ってゆくリックスに、アイリスは着いてゆく――。
ジョール・ブラントスが起こした一連の事件の決着がつき、アイリスたちはあの後レイメールの王都に帰還した。
結局レヴィンとキャリーの元生徒会長コンビは行方が知れず、争った痕跡も大して見つからなかった事から、ふたりでどこかに駆け落ちでもしたのでしょうとエリーゼが皆を強引に納得させ、捜索はある程度で打ち切られたようだった。
アルファルドは今回の事件を重く受け止め、ミレナに願い出て彼女を魔法学校から自主退学させ、大勢の反対を押し切って強引に宮廷へと迎えた。それから王妃候補として、ミレナの妃教育が始まった。
魔法学校はというと、相次いで生徒会長が不在となったことに揺れ、繰上りでエリーゼが生徒会長に就任した。彼女はアイリスに懇願して表舞台に立ちたくない彼女を副会長に据えて、リックスまで生徒会に引き込んだ。
そこからアイリスの忙しい生活が始まったが、ミレナの王太子との婚姻がほぼ確実なものとなった今、もう彼女は実力を隠す必要は無い。他国の語学や宮中の作法、国内の祭事や慣習について等々、妃教育で大わらわなミレナを支えながらも、忙しくも楽しい学生生活を送り、卒業した。
そしたまたリックスもそれ以上に忙しかった。アイリスと同じ学年で卒業するため、二年次から特例の飛び級制度を利用して必死に学び……無事魔法学校から同時に卒業できたふたりは、隣国の魔法大学校へと留学することになったのだ。
――旅立つ前、王太子との結婚を数か月後に控えていたミレナは、アイリスの腕を離してくれなかった。
『やっぱりやだ! 姉様とこれから毎日会えないなんて不安よ……。学ぶんだったらレイメールの王都でもいいじゃない! お願い姉様、ここでずっと一緒に暮らそう? 勉強なんてしなくていいから、リックス様がきっと、身の回りのこと全部やってくれるから!』
『いや、ミレナさん……。まぁ俺はそうしたって別にいいんだけどさ』
『ミレナ、姉上がいなくて寂しいのは分かるが、次期王妃としてそろそろ弁えないとな』
『やだやだやだぁ~! アルフ様以外の他全部は諦められても、姉様のことだけは無理!』
長らく姉と触れ合っていなかった反動か、ミレナは事件以来ずっとこんな感じだった。その姿はまるで、アイリスがリックスと再会する前と立場が逆転したかのようで、そんな彼女を宥められるのは本人だけだ。
『ミーちゃん、大丈夫。結婚式までには絶対戻って来るから。私、夢だったの……ミーちゃんが立派なお妃さまになって、皆に幸せそうに手を振るのを見るのが……』
『本当?』
泣きながらしがみ付いてきたミレナの頭をアイリスは撫でる。もう彼女はとっくにアイリスの背を追い越してしまったけれど、いつまでたっても可愛い妹なのは変わらないのだ。
『本当だよ。私楽しみなんだ、きっとミーちゃんなら、アルファルド様の隣に立って、国の人をたくさん幸せにしてくれると思う。ありがとう、私の夢を叶えてくれて……』
『姉様……』
ミレナは涙を拭い、背筋を伸ばす。
『うん……ごめんなさい。もうこれ以上我儘言っちゃ駄目だね……。姉様、今までありがとう。私……姉様がしてくれた事、一生忘れない。姉様のためだったら何でもするから。だから、なにか困ったことがあったら私に最初に言って』
ミレナは、そう言うとアイリスを強く抱きしめた。
『立派な、王妃様になるから……。姉様が世界一の妹だって自慢できるような立派な女性になるから、見ててね』
『うん! ずっと見守ってるよ……。だって、私はあなたの、お姉ちゃんなんだから!!』
そうしてアイリスは手を離すと、妹の涙を指ですくった――。
「――寂しいんじゃないか?」
「はいっ?」
まだ真新しい木の香りがする家の中で、床に座りながら先に運ばれていた荷物を紐解いていたアイリスは、肩を抱いてくれたリックスに顔を向ける。
「なんなら、もう一年くらい出発を延ばしたってよかったんだぞ? 今からでも……」
「いいえ。そこまですると、きっとお互いのためにならなかったと思うんです……」
少しだけ寂しそうにアイリスは笑い、リックスは仕方ないなという表情で、彼女の頭を抱え込んでやる。
「よしよし、今日は一緒に寝ような」
「うぇっ! そそ、それはちょっと心の準備とか……」
ぴょんと飛び上がった赤い顔のアイリスに苦笑すると、リックスは彼女の頭を優しく叩く。
「冗談だよ。でも、あんたが添い寝してくれるのは、俺はいつでも大歓迎だから。俺、アイリスとくっついてると、安心するんだ……」
「私もです……」
力を抜いてアイリスはリックスの胸に頭を預ける。そこでアイリスは思い出したことがあるのだと彼に告げた。
「……そう言えばリックス様。私たちが出会ったのってもしかして……あの時の公園から見えた医院だったんですか?」
「思い出した?」
リックスは悪戯っぽく笑い、アイリスはその先を続けた。
今から十年程前……アイリスは一度だけ、入院生活を送ったことがあった。その時にもっぱら遊び相手となってくれたのが、リックという少年だった。とはいえ彼は、重い病気にかかっており、ここしばらくはずっと病院で過ごしているのだと言っていた。
《魔力乖離症候群》――生まれつき肉体と魔力の結びつきが弱くて体表面から発散されやすく、常人より圧倒的に肉体が弱くなってしまう病気。しかし彼は、ひとつ上だったアイリスを姉のように慕ってくれて、彼女にずっとついて回っていた。
しかしある時、事故が起こった。アイリスを探している途中に意識が混濁し、階段を登っている最中に倒れ込んだリックは、強く頭を打ち出血する。そこで魔法では造り出せない血液を補うため、輸血を申し出たのがアイリスだったのだ。
幸い血液の種類も合致し、拒絶反応を起こすことなく彼は回復した。しかし、彼の両親が病院の監視体制にひどく不満を持ったため、リックはその病院を引き払い、アイリスはそれ以来彼と二度と会うことができなかった。
「私、申し訳なくて何度も病院に行ったんですけど、結局彼の姿は見つけられなくて……。でも、本当にリックス様が、あの時のリックなんですか? だって、彼は……」
「銀色の髪をしてた、だろ?」
彼は自分の黒い髪を引っ張ってくるくると指に巻く。そして、彼の髪の色が変わった経緯を教えてくれた。
「あの後……俺に驚くべきことが起きたんだ。頭の傷が治って、少しずつ体を慣らしていた時に気がついた。前みたいに全然息が切れないんだ。びっくりしたよ……。そして魔力だって、兄や父よりよっぽど強くなってたし、髪の色も数年かけてだんだん変わっていった。すぐにわかったよ、きっとあんたが助けてくれたんだって」
リックスはアイリスの背中をぎゅっと胸の中に抱いた。
「お礼を、言いたいと思ってた。本当にいくら感謝しても足りない気持ちがあって……。でも、それだけじゃなかった。あんたと過ごすうちに気付いたんだよ。俺はあの時の女の子に恋をしてたんだって。数年間王都から離れた時もあったけど……我儘言って戻ってきた。あんたを探しすために。アイリスのことが……ずっと好きだった」
アイリスはリックスの手の上に、自分の手のひらを重ねた。
「……嬉しい、です」
ぽろぽろと、温かい涙が両目から溢れる。心も体も、全部ぽかぽかして……本当に今、アイリスは幸せだ。
「見つけたら、もうずっと離さないって決めてた。ありがとう、アイリス……俺と出会ってくれて。俺を……救ってくれて」
「リックス様!」
アイリスは体を返すと彼に思いっきり抱き着く。そして、どちらからともなくキスを交わす。
「リックス様……私こそ、ありがとう。私今、幸せです。とっても」
「よかった」
アイリスはリックスの笑顔を目に焼き付ける。
きっと今自分も、彼とおんなじ顔をしているのだろう。妹の幸せを見届けるという夢は叶ったけれど、この先にはもっと幸せなことが待っている。想像もしていなかった楽しみな毎日が、私たちに手を広げていてくれる、きっと――。
〈おしまい〉
最後まで読んでいただきありがとうございました。六万字程度の短いお話でしたが、もしどこかでクスッと笑ってもらえたら作者としては幸いです。皆様もよき一日をお過ごしくださいませ。




