王子殿下に対する不貞行為を、わたしは見逃した
わたしは、卑怯者だ。
うららかな日差しが庭園に降り注いでいた。咲き誇る春の花が芳しい香りを振り撒いている。庭園の中、木に背を預け私は木漏れ日に眼を落としていた。風に揺られ形を変える影。何と無しに、ぼうっと眺めるのが私は好きだった。
草を踏む音。誰かが近づいてくる。その正体をわたしは知っている。
「フィリア」
顔を上げると、そこには予想通りの人がいた。風に揺られる髪から覗くのは、王族の証である深い青色の瞳。
「テオドール殿下……」
テオドール殿下。この国の第1王子。ゆくゆくはこの国の王になる人物だ。聡明で優しさの中にも強い意思の込められた顔。将来この国を背負って立つ……わたしの大好きな顔。
「さ、フィリア。みんなが待ってるよ」
「……はい」
わたしは差し出されたテオドール殿下の手を掴み立ち上がる。柔らかくて暖かい殿下の手。手は直ぐに離されるが、手の温もりは残っている。歩き出すその背中を追いながら、わたしは手の温もりを確かめる。
いつからだろうか。自然と殿下の姿を目で追う様になり、その温もりに恋心を覚える様になったのは。
あそこで、待っていれば殿下はいつも迎えに来てくれる。そしていつも手を差し出してくれる。……王子の手に触れるために、わたしはあそこにいつも居るのだ。幾ら侯爵令嬢とはいえ、王子に触れる機会などない。ましては王子の方から触れてくれるなど。
それに……わたしが王子に思いを告げることなど許されない。
暫く歩くと、テラスに2人の男女が座っていた。
「また、フィリアはあそこにいたのか。探したぞ」
「すいません、ランドルフお兄様」
大きな手がわたしの髪をくしゃくしゃっ、と撫でる。ランドルフお兄様。わたしの4つ上の兄だ。そしてーー。
「まあまあラルフ。誰しも女の子は探してほしいものなのよ。ね」
そう言って笑うのはティアンヌ様。公爵令嬢でありーーテオドール殿下の婚約者だ。
テオドール殿下とティアンヌ様、そしてランドルフお兄様は同い年の幼馴染だ。三人とも同じ貴族学校に通っていてる。だからか、自然と3人はいつも一緒にいて、ランドルフお兄様の妹という事もあり、わたしもその中に加わっていた。
お兄様、そしてテオドール殿下もティアンヌ様も、わたしを妹のように可愛がってくれる。特に、ティアンヌ様は本当の自分の妹の様に色々世話を焼いてくれる。そんなティアンヌ様もわたしも実の姉の様に慕っている。
「さ、フィリア。新しいお菓子を作ってみたのよ」
「わぁ……美味しそうです」
風に吹かれ、ティアンヌ様の髪が揺れる。美しい金色の髪が陽に照らされ、キラキラと輝いている。品のある理知的な顔に聡明な頭脳。そして学年主席でもある彼女は、わたしの自慢の人だ。誰しもが王子であるテオドール殿下に相応しいと認めるだろう。
……敵う訳がない。薄暗い黒い感情が渦巻く。身分も家柄も、そして人間的にも。そもそもわたしの立場的に無理な話だ。こんな事を考える自分が嫌になる。
「ティアンヌ、ちょっと甘過ぎないかこれ」
「ラルフの舌はあてにならないもの」
ティアンヌ様がお兄様に言う。だが、殿下が。
「ティアンヌ、少し甘過ぎないかい?」
「やはり、そうですよね殿下」
「お、お前らなぁ……」
「あはは」
「うふふ」
3人は笑い合う。平和で暖かいやりとり。近い将来殿下とティアンヌ様は結ばれる、お兄様も誰かと結ばれるだろう。そして、それはわたしも例外では無い。そうなれば、それぞれの立場ができ、今の様に集まるのも難しくなるだろう。きっとわたしが殿下に触れる事も出来なくなる。
でも、それで良い。ティアンヌ様の完璧さは幸せにもわたしの諦めの材料にもなってくれる。ティアンヌ様なら、とわたし程度の者が思うにははおこがましい事だが……それでも、納得はできる。それに大好きな2人が結ばれるなんて幸せな事だ。
だが、人の繋がりなどいかに移ろいやすく儚い事など、その時わたしは知る由もなかった。
数年後のある日、わたしは学校へ1人忘れ物を取りに戻っていた。夕日の差し込む校内に人はまばらである。
わたしは日記を書くのが習慣であった。それをあろう事か、図書室へ忘れてしまった。うら若き乙女の日記だ。誰かに見られるのだけは避けたい。わたしはこっそりと誰もいない図書室へ忍び込む。そしてわたしがいつも本を読む、少し奥まった場所。そこは人が来ない為、静かに本を読むにはいい場所なのだ。
「…………っ」
「……」
(……? 誰かいる?)
人の気配をわたしは感じた。こんな、時間に誰だろうか。本棚の影からわたしは除き込む。
ーー信じられない光景が広がっていた。
「……ティアンヌ」
「だ、駄目よラルフ」
そこには抱き合う、お兄様とティアンヌ様。わたしは目を疑った。思わず出そうになった声を抑える。わたしは夢でも見ているのだろうか。だが何度見ても、そこにいるのは、互いを求め合うお兄様とティアンヌ様だ。なんなのだろう。何が、起こっているのか。
(……っ)
わたしは込み上げるものを感じ、気づかれぬ様に図書室を出て、お手洗いに駆け込む。そして、吐いた。胸がムカムカして堪らない。吐いて、吐いて、吐き出す。
「……っ。はぁ……はぁ……」
ようやく収まる吐き気。涙と鼻水と涎で顔はぐちゃぐちゃだ。ドス黒い感情が渦巻く。そしてわたしの口から一つの言葉が漏れ出す。
「……どうして?」
どうして。全てが分からない。尊敬するティアンヌ様が、お兄様が。……殿下の婚約者であるティアンヌ様が、いったい何故お兄様と不貞を。不貞は許されない、神への裏切りに等しい罪だ。それを、大好きな2人が犯している。
「なぜ……どうしてなの?」
訳がわからなくて頭がおかしくなりそうだ。わたしは逃げる様にその場を後にした。
嘘であってほしい。わたしが見たことが幻であってほしい。そんな事はあり得ない事だと思いつつ、わたしは秘密裏に調査を進めた。秘密裏に非合法に探偵を雇い2人の不貞が真実か確かめる。そして……それは紛れも無い事実であった。
2人の逢瀬は巧妙であったが、知るものが見れば分かりやすいものであった。特にわたしは2人に近いのだから。だが、巧みにも殿下には知られずにいる。3人でいる時はいつも通りだ。
そして2人は、近々駆け落ちをする計画を立てていた。襲撃による行方不明を装った計画だ。そのままどこかの国へと逃亡するのだろう。
わたしはどうすべきなのだろう。殿下に報告する? そうなれば2人はどうなるだろうか? 罪に問われて、処刑されるだろうか。わたしはーー。
半年後。
薄暗い路地にわたしは1人立つ。国外へ抜ける脱出路。ここを通るであろう、人物をわたしは待つ。やがて数人の足音が近づいて来た。
「!」
集団はわたしを見つけ止まる。護衛に囲まれた2人のフード。顔は見えないがきっと驚愕でその顔は染まっているだろう。その人物をわたしは知っている。
「お兄様、ティアンヌ様」
びくりっ、とその声に2人は反応する。2人は震えていた。2人の計画は完璧だ。現にわたし以外に知られていないのだ。なのに、バレていた。しかもわたしにだ。2人の動揺は相当に違いない。
護衛達は剣を抜く。わたしを始末するのか。だが、そんな事は予想済みだ。
「わたしを殺せば、2人の事が広まるようにしてあります。そうなれば、計画は台無しですね」
「……っ」
「……安心して下さい。わたしはもう別にどうこうするつもりはありませんから」
「?!」
そう言ってわたしは道を譲る。もう止めるつもりは無い。止めるならとっくに告発している。もうどうしようもないのだ。
貴族間の不貞は死罪だ。ティアンヌ様もお兄様も処刑され、わたしの家は没落するだろう。それは別に良い。それ相応の裏切りなのだから。だが、テオドール殿下はどう思うだろうか。婚約者と親友に裏切られるのだ。もっとも信頼していた2人に裏切られる。それは地獄の苦しみだろう。それでも殿下はその苦しみを背負ったまま生き続けなければならないのだ。
だったら。
「行って下さい。バレたらあなた方の不貞で殿下が苦しむ。なら襲撃で行方不明の方がまだ諦めがつくでしょう。だから……行って下さい」
ただ、それだけでは許せない。せめてーー。
「だけど、わたしは忘れません。上手く行方不明で綺麗さっぱり暮らすなんてわたしは許さない。2人が裏切ったその罪をわたしは忘れない。……死ぬその日まで、あなた方を恨んでいるわたしがいる事を忘れないで……怯えながら生きろ」
「……っ」
「さあ、行って下さい。気が変わらない内に」
2人が息を飲む気配がする。どうしようもないけれども、これがわたしに出来るせめてもの復讐だ。
そして、再び集団が動き出しわたしの目の前を通り過ぎて行く。そして、再び静寂が訪れた。
行ってしまった。もう2人と会う事はないだろう。これでよかった。もうどうしようもないから、これでよかったんだ。……けれど。
「……どうして」
怒りより悲しみが湧き出て来た。取り留めもなく溢れるそれは、もうどうしようもない。そればかり溢れ出て来て、わたしは泣き崩れた。
すぐに、2人の行方不明は明らかになる。2人の筋書き通り襲撃による行方不明。捜索は国を持って行われたが、見つかる事は無かった。
何よりテオドール殿下の落胆は凄まじかった。最も親しい友人と婚約者を一度に失ったのだ、その苦しみは計り知れない。
体調を崩し自室で療養する、殿下を訪ねる。ベッドには酷い顔をした殿下。
「……テオドール殿下」
「フィリア……わたしは愛する者と親友を一度に失ってしまった」
「……」
殿下の目から涙が零れおちる。あの2人の所為で殿下が悲しんでいる。それははらわたが煮えくりかえる気持ちだ。
「……フィリア」
「で、殿下」
殿下がわたしの手を握る。その手は弱々しく震えている。
「フィリアは……何処にも行かないでくれ」
お兄様とティアンヌ様が逃げ出し罪。だとしたら、それを知りながらも黙っていたのも罪なのだろう。本当に黙っていた事が正しかったのか分からない。この方が殿下が傷つかない、というか考えもわたしの独善的な思いなのかもしれない。
罪を犯したとはいえ、2人が死ぬのが。それにより殿下が壊れるのが、わたしは怖かった。けれども罪を知りながら黙っていたわたしは、卑怯者だ。
だから……わたしら殿下の支えになろう。
「何処にも行きません……殿下」
かつて、手を握ってくれたように殿下の手を握り返す。黙っていた事、2人が生きて駆け落ちた事。それは殿下に伝える事は出来ないけど、わたしは殿下とともに生きていく。それが、わたしにできる事なのだから。