明日への一歩
リッジモンドとの対峙のあと、アリエは人が少ない場所を目指してひたすら歩き続けた。奴隷少女の手を取りながら歩く彼女は非常に異質であったため、周りから好奇の目を向けられたためだ。
ようやく、人通りの少ない道にたどり着くと、アリエは奴隷少女に向き直って会話を始めた。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「名前は・・・とくにはありません。ま、前のご主人様からはガキとかチビと呼ばれていたので。」
先ほど怒りは収まったはずなのにまたこみあげてきた。リッジモンドは奴隷を人と思っていないとは知っていたが、まさかこれほどとは・・・。もう一度リッジモンドのもとへ行き、一発殴ってやりたい気持ちになったが何とか抑える。
少女は、ひたすらおびえていた。無理もない、先ほどまでずっと暴行を受けていたのだ。アリエは職業柄、いろいろな人と接してきたため声やしぐさから人の心を読む能力に長けていたが、そんな能力がなくてもわかる。声は震えていて、目はずっと下を向け、体は小刻みに揺れている。
アリエは子供がいないため、子供との接し方はよくわからなかったが、とにかく目を見て話したいと思い、しゃがんで目線を少女のそれに合わせた。
「そっかぁ・・・じゃあわたしがつけてもいいかな?」
「は、はい・・・。」
「せっかくだからかわいいのがいいよねぇ・・・じゃあ、伝説の勇者様の名前をとって、イリスとかどうかな?」
イリスとは、300年ほど前に各地のモンスターを倒して回り、伝説となった勇者の名前である。勇者の実力はさることながら容姿も端麗だったとされており、それをほめたたえる歌が多く存在する。
「わかりました。では、今日からはイリスと名乗ることにします。」
「え、もっと考えなくて大丈夫なの? 思い付きだったんだけど・・・。」
「わたしはご主人様の奴隷なので、指示には必ず従います。異論など、許されるはずがありません。」
アリエはリッジモンドとの会話を思い出した。確かあの時、あいつはこう言っていた。
『こいつは、戦闘用奴隷なんですよ。わたしが小さい時から戦闘用に育てたんですが・・・。』
つまりイリスは物心ついたときにはすでに奴隷だったのだ。そのころからリッジモンドから奴隷とはかくたるやということを教わっている、いや刷り込まれているのだ。物心ついてから奴隷になったものは人としての感覚を持っているが、彼女にはそれがない。それが、今の彼女のアイデンティティーとなってしまっている。
アリエは、イリスを奴隷として扱うつもりはみじんもなかった。そのため自分の意見を言ってほしいし、わがままも言ってほしい(聞くかどうかは別だが・・・)。 しかしながら、今の彼女にはそれを求めるのは酷かもしれない。そのため・・・
「じゃあ、名前はイリスで決定ね! 早速だけどイリス、わたしの旅についてきてもらってもいいかな?」
旅の中で人間らしさを身に着けてもらうことにした。リッジモンドと話しているときは、ただイリスを助けたいという思いだったので、孤児院に預けることも少し考えた。しかしながら、イリスが戦闘をできるということ、そして彼女にこれ以上不幸な道を歩んでほしくない、すなわち彼女を幸せな道に導いてあげたいという願いから、ともにグリンドを目指す旅に行くことにした。
「もちろんです。ご一緒させていただきます。」
「ありがとね! あと言っとくけど。」
そういって今一度アリエはイリスの目を見て微笑みながら言った。
「もう安心していいんだよ、そんなにおびえないで! わたしのことはお母さんだと思ってね! だからちゃんと名前で呼んでね、アリエって。 ご主人様は禁止だからね!」
「はい・・・分かりました・・・。では・・・アリエ、様。」
「様も禁止! 呼び捨てでいいよ!」
「では・・・アリエ・・・・・・・・・・・・・・さん、」
「ははっ、何それ! そんな無理しなくていいよ!」
アリエは、頑張って呼び捨てで呼ぼうとしているイリスの姿に思わず笑ってしまった。本当は呼び捨てがよかったのだが、さすがにハードルが高いらしい。
「じゃあアリエさんでいいっか、まあ、ご主人様って呼ばれるよりはいいかな。」
二人の呼び名が決まったところで、アリエは行動を始める。
「よしじゃあイリス、買い物に行こっか!」
「はい、アリエさん。」
さん付けはアリエにとってもイリスにとっても、まだ歯がゆいものである。しかしながら、アリエには少女の口が、少しだけ微笑んだように見えた。二人の旅は始まりを迎えた。