二人の母
「…わたしは、わたしのお母さんを殺しました…」
そうかたるイリスの瞳は、初めて会った時のような空虚さを取り戻した。
涙を流すことすら封じられた、そうとも思わせる。
「そして、逃げました…」
イリスの声のトーンが、また一つ下がる。
「もしかしたら助かったのかもしれないのに… わたしはお母さんをおとりにして逃げたんです…」
イリスの声がどんどんか細くなっていく。
アリエは、ただ黙って聞いていることしかできなかった。
「…逃げ切った後は、恐怖で魔法がほとんど使えなくなりました。 また、誰かを傷つけるんじゃないか、誰かの命を奪ってしまうんじゃないか、そう思うと、手が震えて、辛いんです…」
「だから、わたしには奴隷がちょうどいいんです。 わたしなんかに、生きる資格はない。 同じ人間として扱われる資格はないんです。…”人殺し”ですから…」
なんとかして、声をかけてあげたい、この子を救ってあげたいと思うアリエだが、何も思いつかない。
イリスが悪くないことは、痛いほどよくわかる。
だが、そんなことをいっても、彼女はきっと否定するのだろう。
”わたしが生まれてこなければ、お母さんはもっと幸せに暮らせたのに”と。
そして、イリスの抱える闇の大きさに、ただただひれ伏すばかりだった。
イリスの過去、それは決して開けてはならないパンドラの箱だった。
もしも母親が魔物に襲われただけならば、魔物を憎む芯の強い冒険者になれたのかもしれない。
もしも母親が病気で死んだのならば、人を思いやり慈しむ優しい人間に育ったのかもしれない。
だが、仮定の話をしても仕方ない。
イリスは自らの手で自分の母親を殺した、そして置き去りにした。
これは紛れもない事実なのだ。
過去に干渉することはたやすいことではない。
それは変わることなくその者を死ぬまで縛り付けるのだから。
だが、そんなことで引き下がるわけにはいかない。
「イリス、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
返答はない。
過去を思い出してしまったからだろう。
イリスにとっては、死ぬよりも辛いことかもしれない。
「…なんで、イリスのお母さんは、魔物に襲われたときイリスの前に出たのかな? どうして、イリスのことをかばったのかな?」
やはり、返答はない。
だが、かまわない。
「もし本当に、イリスのことが嫌いなら、憎んでいるのなら、最後まできっとイリスの背中に隠れていたはず。なのに、お母さんはイリスが魔物に襲われる瞬間に、イリスの前に飛び出た。」
ゆっくりと語りかけるように話す。
相変わらず返答はない。
しかし、気にせずアリエは話し続ける。
イリスの心に届いていると信じて。
「それは、お母さんにとって、自分の命よりもイリスの方が大切だったからでしょ、違う?」
イリスの指先が、ほんの少し動いた。
確かに言葉は届いている。
「それなら、決してお母さんはイリスのことを恨んでなんかない。 自分の一番大切な存在が、今こうして、立派に生きているんだから。」
「で、でも…」
ようやく、イリスの口が開かれた。
「でも夢に見るんですっ! あの後お母さんが恐ろしい顔をして私を追いかけてくるのをっ! ずーっとずーっと、ずーっと追いかけてくるんです!」
堰を切ったように喚き散らすイリス、それは恐怖によるものだろう。
今まで心の奥底に押し込めていた分、あふれんばかりの勢いで流れ出てくる。
「そんなお母さんが私を恨んでないわけないじゃないですかっ! きっといつか、私はあのお母さんに殺されるんです… お母さんもきっとそれを望んでるんですっ!」
「じゃあもうお母さんのことは嫌いなの?」
間髪を入れずに質問をぶつける。
ここで引き下がってはだめだ。
ここで引き下がったら、二度とイリスを助けられないかもしれない。
「…けないじゃないですか。」
囁くように発されたイリスの言葉は、確かに震えていた。
「嫌いになれるわけないじゃないですかっ!!!!!」
その咆哮は何よりも強く、そして何よりも清らかだった。
而して、大粒の涙があふれ出る。
初めて、イリスの心の底が見えた気がした。
「生まれたころから、お母さんといた記憶しかありません。お母さんと一緒にご飯を食べたり、遊んだり、そんな日々しか今はもう覚えていません…そんな記憶が、記憶だけがわたしの宝ものなんです…」
「じゃあそれでいいじゃない。」
イリスはきょとんとした顔になった。
「それでいいって…どういうことですか?」
「イリスはお母さんが大好き、そしてお母さんの思い出は宝物、それだけ思っていればいい。それの何が悪いの?」
「でも夢の中のお母さんは
「じゃあお母さんのこと忘れたいの?」
せきたてられたように話し続けるアリエに、イリスは委縮してしまう。
しかし、不思議なことにアリエの言葉は自然と体に吸い込まれていく。
「夢、そんなことなんかであなたは母親を嫌いになれるの? 恨むことなんかできるの?」
「別に嫌いになっては
「相手が自分を嫌いかもしれないと思うことは、相手のことを嫌いと思うことと一緒。だって、相手のことを信用してないんだから。」
幼心には難しい話かもしれない。
しかしイリスは、一言一句漏らさず一生懸命に耳を傾けている。
自然とそうなっているのかもしれない。
「わたしはそのころの二人のことも知らないし、イリスの本当のお母さんの気持ちは分からない。」
「でもこれだけは言える。」
”母親が娘をそんなに簡単に嫌いになれるわけがない”
「かりそめの母親である私ですらそう、イリスのことをそんなことでは絶対に嫌いにならない。」
「だからもっと、お母さんを信じてあげて、ね?」
またも静寂がその空間を支配する。
しかし、この静寂はあのときのものとは違っていた。
あの時が真夜中のような静寂とすると、今は夜明け、清らかな朝の始まりのような空気だった。
「…うん、信じるよ。」
”お母さん”
アリエの問いかけの最後、イリスには昔見たお母さんの姿とアリエが重なって見えた。
姿かたちも性格もまるで違う二人が重なって見えたのはなぜなのか。
それはイリスにしかわからない。




