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Cafe月の倉  作者: 月倉 周
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一杯の珈琲とあなたに贈る小さな物語ー1組目ー

 小さな小さな町の西のはずれに、不思議な色に輝く湖が、まあるく静かに水を湛えている。湖畔に添う三日月形の林は木洩れ日を優しく吸いこみ、柔らかな地面に光を結ぶ。林の中の散歩道が、なだらかな曲線を描いてその先の草原へと続いていた。

 「café月の倉」。不思議な湖のほとりの小さなカフェ。今日も小鳥のさえずりをBGMに扉が開く。珈琲の香りがほんのりと午後の風に乗った。


    *  *  *


 春から夏へ、一番穏やかな季節。草原の一角には、カタバミの黄色い小さな花が揺れている。


 三日月の林の、散歩道から続くカフェへのエントランスには、小道の両脇にフランネルフラワーの鉢植えが並んでいる。シルバーがかった葉も、先端が緑色に染められたような白い花びらも、柔らかな質感のこの植物は、この季節にここを訪れる人々の心を優しく迎えてくれるようだ。


 昨年までは妻と共によく通ったこの店を、斎藤理(さいとうおさむ)は久し振りに訪れてみた。

「変わらない」

ほっと顔がほころぶ。久し振りに笑った気がした。


 珈琲の香りに誘われるように、彼は開かれた扉の奥へとそっと足を運ぶ。


「いらっしゃいませ」


低く穏やかな声がカウンターの中から聞こえた。

「やあ」

片手をあげて挨拶しながら、理は声の主を見る。


 店長の月倉真は、ともすれば無表情にも見えがちな黒縁めがねの奥で、明るい茶色の瞳をはにかむように伏せると丁寧にお辞儀した。

 少し長めの髪をしばり黒いバンダナをキュッとしめていると、長身の月倉はますます背が高く見える。白いシャツと黒で統一されたベストと細身のスラックスにソムリエエプロン。そんなモノクロの出で立ちに一瞬、真っ白な天使が重なって見え、彼は眩しげに目を細めた。


 初めて月倉に会った時から、彼の中でその印象は少しも変わらない。時の止まった世界に住んでいるのではないかとさえ思うことがある。


「五十年後も変わらぬ姿で、この店を訪れる人々を珈琲の香りとともに迎えているに違いない」


そんな想像が、本当になりそうな雰囲気がここにはある。水色のようにも、翡翠色のようにも見える不思議な湖のせいだろうか…


「本当に、いつまでもこのままであってほしい」

それが理と、亡くなった妻の願いでもあった。


 妻の宣子(のぶこ)が亡くなる一か月ほど前からほとんど外出をしなくなった彼が、この店を訪れるのはほぼ十か月ぶりだ。

思い出の場所は、時に孤独を増長させ、心が硬くなって闇の中へと落ちてゆきそうになる。

何処かへ続くどの道も、そして買い物に寄るスーパーでさえも、彼女の不在を思い知らされる。

 確かにあった温もりも、見えた姿も、聞こえた声も、もう何処にも無いのだ。


 彼はいつしか外出することが出来なくなっていた。悲しみの糸に絡みとられていたのだ。

何も見えない、何も聞こえない…まるで暗闇の世界にいるようだった。


 長く病を患っていた妻の死は、覚悟していたとはいえ、理にとってはやはり受け入れがたい現実だった。だが、宣子はまるでその日を「あなたの心が受け入れられるまで」とでもいうように、穏やかな看病の日々を与えてくれた。

 それでも、彼女と共に過ごした歳月の幸福を思うと、彼にとってはどうしても「奇蹟をもう一度」と願わずにはいられなかった。


 奇蹟…そう、あれは確かに「奇蹟」だった。


「斎藤さま、いつもの珈琲になさいますか」

月倉の静かなアルトの声が流れる。

「ええ、お願いします」

理は窓際の席に座ると、月倉の用意してくれた水を一口飲んだ。

それは、ミントの葉を氷に入れた、爽やかで懐かしい味だった。

珈琲豆を挽く音がしている。

「良い香りだ」彼はそう思いながら、その奇蹟を思い出していた。


    *  *  *


 今から十年前、定年を迎え、ようやくこれから二人でゆっくり過ごせると思っていた矢先、妻が重い病に倒れた最初だった。

 わたしは、余命を宣告され病院のベッドの上に横たわる彼女の、意識のない蒼白な顔色を何日も見続けるうちに、妻の死が刻々と近付いてくる現実に恐怖を覚え、そのイメージから逃れるように窓の外を眺めていた。


 午後の、良く晴れた青空に一筋の雲。

わたしは立ち上がって窓に寄った。


 七階にあるこの病室からは、三日月のように広がる林の向こうに美しい湖が見える。

その不思議な湖面の色をぼんやりと眺めていたときだった。

ふわりと微かな風を感じたような気がしてわたしは振り向いた。


 そこに、天使は立っていた。


 いや、そんなはずはない。

 わたしの理性はそれを否定したが、「彼」の無垢な微笑みは、わたしの警戒心をさらりと解いてしまう。わたしはこれといって信仰する宗教など持たない人間だったが、そんなわたしの心にも、妻の傍らに立つ青年は天使なのだと思えた。

 いつしかわたしは彼の隣りにひざまずき、妻の手を握って祈るように目を閉じていた。

そして、わたしたちの手を包むようにそっと置かれた彼の両手。

 その時のわたしは、何ともいえない温もりと安らぎを感じていた。


 それからどのくらいの時間が経っていたのだろう。

目を開けると、横たわる妻の顔にあれほど濃く射していた死の影が薄らいだように見え、はっとしてわたしは病室を見渡した。

だが、あの天使の姿はすでにどこにもなかった。


 気が付けば、窓から差し込む柔らかな夕暮の光に、わたしたちは包まれていた。


 奇蹟は、そんな不思議な体験をした翌日に起こった。

 昏睡状態から回復することはないだろうと言われた妻の意識が戻り、それから少しずつではあったが病状は安定していった。それは医師からも「奇蹟だ」と言われた。


 わたしは目を覚ました妻に会わせたいと思い、病棟内であの青年を探したが見つけらずにいた。

背が高いわりに、色白で少年のような華奢な身体。

天使のように見えたのは、膝下まである長く真っ白なパジャマと、やはり白くてふわふわとしたニット帽のようなものを被っていたせいだろう。

きっとここの入院患者に違いない。

顔なじみになった病棟の医師や看護師に彼のことを訊ねてみたが、皆一様に、

「この科には、そういう入院患者さんはいない」

と首をひねるばかりだった。


 大きな総合病院であるこの建物は、科ごとに入院病棟が分かれている。

 わたしは一度、別の科の病棟に詰めている看護師にも彼のことを聞いてみたが、青年の名前も分からないわたしを訝しげに見る彼女に、

「お知り合いの方ではないのなら、患者さんの情報をお教えすることはできません」

と断られてしまった。

 当然のことだとは思ったが、諦めきれずにこっそりと病院中を歩き回ってみたものの、妻の入院中もう一度彼に会うことは、とうとうできなかった。


 三カ月後、妻は自宅療養をゆるされ、倒れたときにはもう二度と戻れないかもしれないと覚悟をしていた穏やかな日々を、わたしたちは住み慣れた我が家で過ごすことができた。

 そんな幸せな日常が一年、また一年と続くうちに、わたしはいつしか妻の病を無意識に心の片隅に追いやっていたのだろう。


 九年の歳月が流れたある日「その日」は唐突にやってきた。

しかし、一度目の時とは違い、妻は重度の昏睡状態にはならず、彼女の希望どおりこの家で、穏やかな眠りと目覚めを繰り返しながら、最期は微笑みさえ浮かべて静かに逝った。


 悔いがあったわけではない。


 ただ「妻のいない世界」に取り残されてしまったような苦しさに、どんなに猶予をもらっても、弱いわたしの心は耐えられなかった。


 味覚は曖昧になり、食事も喉を通らないような生活。

感覚は深い闇の底に沈んで、涙は枯渇したかのように泣くことさえ一度もできずに、機械的に呼吸し飲食するだけの毎日になった。


 もう、隣りにいない妻との思い出は「悲しみのみを紡ぎ出す」。

そんな思いに、わたしは囚われてしまっていた…。


 それが今朝は、不思議な夢で目を覚ました。


 夢を見ることさえ久し振りの感覚だった。

その中で、妻とわたしは木洩れ日の射す林を散歩していた。

「あなたにやっと会えた」

ゆっくりと歩きながら、妻がわたしに微笑む。


「これからは、わたしの分もあの天使さんを見守ってあげてね」


 いつの間にか彼女は、カタバミの群生する草原の中に立って、わたしに向かい少女のように屈託のない笑顔で手を振っていた。


 そうだ、彼女はこんな風に笑う人だった。


 夢から覚めたわたしは思い出していた。

あれは、彼女の体調も落ち着いて二年ほど経った日の、月に一度の検診を終えた帰りだった。


 「散歩をしたい」という彼女を、わたしは「せっかくなら」と美しい湖畔に沿う林の道に誘った。

病院からは近いように見えるものの、病をかかえる妻には少し遠い距離に思えたので、わたしたちは病院から湖をぐるりと回る行程のバスに乗ることにした。

 二つほど向こうにあるバス停で降りれば、散歩にちょうど良い距離で次のバス乗り場があるはずだった。


 わたしたちは、三日月形に広がる林の真ん中あたりをゆっくりと歩き始めた。

気持ちの良い青空が、木々の葉陰から透けて見える。

 彼女の足元を気遣って視線を向けると、わたしたちの踏み出した足に驚いたように、小さな虫たちが一斉に飛び跳ねて草むらに逃げ込む。

 妻と目が合って一緒に笑った。

 土の感触が足の裏に心地よい。

 湖では、二羽の小鳥が囀りながら飛んでおり、湖面のすれすれを睦まやかに絡み合っては軽やかに上昇を繰り返していた。

 林の向こうから来た微風が、頬を撫でてゆく。


 ふと、珈琲の香ばしい香りがしたような気がした。


「ねえあなた、確かこの先に家が建っていましたよね。しばらく空き家になっていたような気がしますけれど、どなたか引っ越して来られたのかしら」

「そうだな…。ちょっと行ってみないか」


 珈琲好きのわたしは、その香りに惹かれて妻を誘った。

彼女は呆れたように笑う。

「まあまあ大変。普通のお宅だったらご迷惑になるんじゃありませんか?」

「こんな小さな町だもの。挨拶くらいいいじゃないか。それに、こんなに良い香りなんだ、もしかすると喫茶店かもしれないよ」


 わたしはだんだん強くなる珈琲の香りに心が弾み、若い頃のような気持ちで彼女の手を取って歩く。

手を引かれてわたしの少し後ろをついてくる彼女は、少女のように笑っていた。


 散歩で偶然訪れた湖のほとりの、そこは小さなカフェだった。

 オープンしたばかりらしいその店に、わたしたちが初めて訪れたのは八年前の今日。

それから彼女の調子が良いときには、一緒に通った店だった…。


 あの日の、豊かな珈琲の香りが蘇る。

気付くと頬を温かな涙が流れていた。

「久し振りに、出かけてみようか」

閉めきっていたカーテンを開くと、朝の光が部屋を満たす。

 わたしは窓を開けて真っ青な空を仰いだ。


    *  *  *


いつもの珈琲と、妻のお気に入りだった湖の見える窓際の席。

鳥の囀りが聞こえて理は耳を澄ます。


「ねぇあなた、すこし遠回りになるけれど、帰りは草原の道を散歩しましょうよ。今年もカタバミの小さなハートの葉を押し花にして、栞を作ろうと思うの」


 寄り添うような妻の存在を感じた。彼女がいなくなってしまった時から止まってしまった彼の時間が動き出す。

「ああ、そうだね」

小さく呟くと、カタバミの小花が一つ、そっと添えられた珈琲を味わうように飲む。


 焙煎されて飲み頃の豆を、挽いたばかりで出されるフルシティーの強い苦みと微かな甘みが、身体全体に染みわたり、自分に生きる力を与えてくれるようだった。


「いつもあなたのそばで、わたしは幸せでした」


 夢の中で、手を振る彼女は言ってくれた。

それは、仕事に明け暮れていた自分の、そうであって欲しいという、ひとりよがりな願望だったかもしれない。

それでも、この奇蹟のような九年間が、わたしに妻への感謝の気持ちを伝える充分な時間を与えてくれたのだ。


 闇の中で全てを消し去るより、思い出に寄り添うほんの少しの時間が、硬くなった心を解きほぐしてくれるということに、わたしはようやく気付くことができたのだろう。


「わたしの方こそ幸せだったよ」


 二人の歴史は、自分が(ここ)にしっかりと持っている…もうわたしは大丈夫だ。


 空になったカップを、静かにソーサーへ戻す。

「ごちそうさま。今日は少し草原を散歩して帰りますよ」

くしゃりと崩した笑顔で理はそう言うと、確かな足取りで午後の明るい日差しの中へと歩を踏み出す。

感情を表さない月倉の表情、しかしその瞳には、微笑みのような温もりが宿っていることに、彼は気付いていた。

「それではまた」


「はい、お待ち申しております」

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