第四話「実感と問題」
妹を喪ったあの日、七月二七日のことを思い出す。
何事にも熱心な妹の夜月は、夏休みに入ってからも部活のある日は学校へ行っていた。中学校に入ってからまだ三ヶ月しか経っていないというのに、やけに馴染んだ制服に身を包みながら、フルートの入ったバッグを肩にかけて。
対する朝陽は、と言うと。
「お兄ちゃん、今日も補習行かない気でしょ。もう九回目の夏休みだって言うのにさぁ、相も変わらずそんなだらけて……宿題はやってるの?」
そう、何をするわけでもなく、ただ引きこもりの生活をしているだけだった。こんな夏休みも既に八回過ごしてきて、いずれもやるべき宿題を最後の三日で全て終わらせていた。それに懲りることもなく今年も同じなのだろうと、夜月がそう説教垂れるのも当然と言えば当然だ。
しかしそんな彼女の言葉を聞き入れず、リビングのソファで仰向けになって本を読んでいた朝陽は「あー聞こえない」と耳を塞ぐ。
その様子を見ながら、夜月はため息をつきまた話しだした。
「高校、水泳の授業がないところに行くんでしょ。最後の機会なんだからさぁ、補習受けて来ればいいのに。お兄ちゃん、ロクに泳げないままだったら、今後どこかで後悔するかもしれないよ。例えば、海で溺れたり」
「めんどくさい」
「うわぁ、身も蓋もない……」
思わず夜月は片手で頭を抱えてしまう。まさかここまでとは、と言わんばかりに眉間に皺を寄せながら。
だが彼女の言うように、朝陽は水泳が苦手だった。彼らの通う中学校ではそんな生徒のために夏季休暇中、学校での補習を設けているのだが、もちろん朝陽は一度も参加したことがない。
「安心しろよ、溺れ死ぬほどマヌケじゃない」
傍らに立つ夜月を見上げながらそう呟くと、朝陽は再び本を開き文字を眼で追い続けた。
読書に勤しむ彼に夜月は鼻を鳴らすと、時刻を確認してから部屋の戸の方へ歩き始めた。どうやら家を出る時間らしい。
「読書もいいけど、宿題も少しは進めるんだよ。少なくとも、例年通りにならないように」
「おう」
「それと……今日、少しだけ遅くなるかもだけれど、ちゃんと待っててね。楽しみにしてるから」
「当たり前だ。帰り気をつけろよ」
夜月は戸を開け、最後に「いってきます」とだけ呼びかけると、部屋をあとにした。
「あ」
直後思い出したように朝陽は起き上がったが、夜月は既に家を出たらしく、それを確認するとまたおもむろに身体を後方に倒した。
(まだ言ってなかったな、おめでとうって)
────しかしこの日、どれだけ待っても夜月が帰ってくることはなかった。
「おかえりなさい」も、「誕生日おめでとう」も言えないまま、明日野夜月は、間もなく他殺体として発見された。
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白くぼやける視界が徐々に機能を取り戻していくと、既に日は高く、懐かしい風景の中で立っているのに気がついた。アスファルトの上で直立している重力感と肌を這う生ぬるい夏の空気は、先程の空間とは別にここが現実の世界であることを実感するには十分だった。
しかしここで気付くことになる。朝陽の格好は、まさに寝る前のそれと同じものだ。上下ともに部屋着で、もちろん靴は履いておらずそれどころか裸足だ。真昼ではないことが幸いしてなんとか日陰でやり過ごしているが、問題はもうひとつあった。
(眼鏡、つけてねぇ)
能力上人よりも多く視覚による情報が入りその結果脳に負荷がかかる朝陽にとって、眼鏡の有無は死活問題だ。
八方塞がりなこの状況は、しばらくこの世界で過ごす上でかなり深刻な問題であると捉えていいだろう。
(どうやって戻るかもわからないしな……)
今はなんとか免れているが、こんな格好ではいつ通報されるかもわからない。なにせ、部屋着に裸足で出歩いているなんて、怪しすぎる。
ひとまずは身を隠せる場所、例えば遊具のある公園などを目指すべきなのだろうか。
この日が何月何日であるのかも気になるところだが、やむを得ないだろう。
ふと、背後で戸の開く音が聞こえ、思わず電柱の影に身を隠してしまう。そこは五年前に妹の夜月や祖母と住んでいた一軒家だった。
敷地から姿を現したのは、小柄で紺色の長いツインテールをぶら下げた少女────妹の明日野夜月だった。




