第三話「扉の向こうへ」
しばらく経って朝陽がかなり規則的な睡眠の生活に慣れ始めた頃、異変は起きた。
見渡せば無限に奥行きのある真っ白い空間────気がつくとそんなところにひとりで立っていた。
先程まで自分は部屋のベッドで横になっていたはず、つまりこれは夢で間違いないのだろう。しかしこれが夢であるということを確信できるほど意識がはっきりしていることに、それなりの違和感は覚えていた。
まず頭をよぎったのは、「明晰夢」という単語。詳しいことはあまり知らないが、これを夢だと自覚できている以上この世界を思い通りに変化させられる可能性は高い。オカルトチックな物事に興味のある人間にとって、それこそ夢のある話だ。
そう────例えばある風景を強く念じてみる。その場所が実在するかどうかは問わないが、実際に行ったことがあるところ、特に日常的に通う道なんかはイメージしやすいだろう。朝陽にとっては大学へ行くのに利用するバスの停留所が最も思い浮かべやすかったようだ。
しかしそれだけではつまらないから、虚構的なことも若干交えてみる。街に人ひとり存在しないのは、充分現実的ではないと言えるだろう。
さて、虚実相半ばするようなこの空間で、朝陽は眼を閉じ、自分は人気の一切ない白昼の街に立っている────そんな情景を強く思い浮かべてみる。これが以前どこかで見聞きしたことのある明晰夢で相違ないというのなら、ただこれだけのことでも問題なく、思い通りの夢を見られるはずだ、と。そう思っていた。
「……あれ」
しかしそんな期待も空回り、眼を開けて視界を確認してみたが、そこには先程と全く同じ純白の世界が窮屈に広がっているだけだった。
スケールが大きすぎたのだろうか、そう思い朝陽は比較的ハードルの低そうなものから試してみることにした────が、空中遊泳や想像した物体の具現化なども一向に成功せず、やがて飽き飽きした様子で適当に座り込みながら虚空を眺め始めた。
ふと、視界の中で小さな輪郭が存在を主張した。
閉じかけていた眼を見開きそちらを見やると、童話にでも出てきそうな、清潔なワンピースに身を包んだ十代前半相応の少女が立っていた。碧眼と足元まで伸びた金髪は、少なくとも彼女には日本人以外の血が混ざっているのだろうという勝手な想像を掻き立たせた。もちろん彼女とは、これまで会ったことはない────もっとも、このような外見をしている少女と出会ったことがあれば忘れることはないのであろうが。
さて、そんな彼女は腰を折りこちらの顔を覗き込むと、やがて口を開いた。
「明日野朝陽────あなたにはひとつ、戻ってやり直したい過去があるんじゃない?」
全てを見透かすように冷徹に輝くその瞳で呑み込むようにこちらを見つめ続けながら、朝陽にそう尋ねた少女。会ったこともない彼女に名前を知られているのは驚くべきことだが、もうひとつ朝陽にとって、興味深いことを少女は口にしていた。
「本当だったんだな、都市伝説。いや、ここまで来てただの夢だったなんて、思えないし思いたくもない。……この時を待ちわびたぜ。
あんたの言う通りだよ。俺には五年前からずっと、月に陰る叢雲のように蟠り続ける後悔がある。払えなくて困ってんだ」
大袈裟にため息をつき、おもむろに立ち上がる。そして先程少女が自分にしたようにその瞳を見つめながら、朝陽は続ける。
「あんたが連れて行ってくれるのか? 俺のやり直したい過去に」
と、簡潔にそう尋ねると少女は口元を緩ませ、朝陽の背後を指差すとまた話し始めた。
「扉なら、ずっとそこにあるわよ。くぐり抜ければ、あなたの望む場所へ行ける。私はただ、背中を押すだけだから。
自分がなにをやり直したくて、そのためにいつに戻りたいか。それはあなた自身がよく知っているはず。あなたが強くそこへ行きたいと願うのなら、その扉から一歩踏み出せばいい」
振り返ると、確かにそこには自身よりもひと回り大きな扉があった。先程までの殺風景の中にひとつだけぽつんと、やけに存在感を放つそれはただ、微動だにせずその場で佇んでいた。
朝陽は扉の前まで近寄っていくと手で触れ、力を込めようとした────がそれよりも一瞬早く、甲高い声が制止した。
「最後にひとつ。これからあなたが戻る『過去』はあくまで『となりの世界』────いわゆるパラレル・ワールドというもの。いくらそちらで行動を起こしたとしても、あなたの住むこちらの世界において何かが変わるわけではないの。
そしてその扉を開けば、途中でやめたいと思っても抜け出すことはできない。必ずあなたの中で納得出来る結末に辿り着けるまで、この夢の世界は永遠に扉の中に閉じ込められることになる。それだけの覚悟があなたにあるのならば、その扉を開きなさいな」
そこまで聞くと、朝陽は鼻を鳴らし、やたら落ち着いた声色でまくし立てた。
「言っただろ。俺はあの日をやり直せるのなら、なんだってする覚悟だ。今更泣き言なんか言わねえよ、上等だ」
と。そしてひと思いに扉を解放すると、彼は大きく一歩を踏み出した────。
ギシギシと年季の入った音を立てながらひとりでに閉じ始めた扉の中に消えていく青年の背中を見送りながら、「行ってらっしゃい」と。
金髪で碧眼の少女はただそれだけ呟くと、虚空へ姿を消した。




