32 視覚の創造
仮想世界は肌の感覚、聴覚、味覚、嗅覚と幅広く再現する。その中で、視覚はもっとも有効な情報源であるが、僕は生まれつき目が見えなかった。
生まれつき目が見えないので、仮想世界でも僕は視覚を楽しむことはできない。見るという能力がないのだ。
そんな僕にとっても、仮想世界はとても大切な場所なのである。
大きな船、人の体、建物、街並み、住んでいる世界、それらの形を知るのに非常に仮想世界は役に立つ。
用意されたデジタルな物質データは、重さも大きさも自在に出現させることができる。
それを、手で触れて、角ばっているところ、丸まっているところ、感触をどんなものでも確かめることが可能だった。
実物では、大きすぎて、手で触ってもまったいらにしか感じられないものも、小さくすれば簡単に手に取って確かめられる。
仮想世界があるからこそ、僕はあらゆるものの形を把握することができた。
とはいえ、目が見えないせいか、他の感覚は鋭敏になり、僕は仮想と現実の誤差をより強く感じていた。
あくまでも、かりそめの世界なんだという違和感を感じることが多かったが、少し前に発明された医療系の再現技術により、劇的に改善された。
紙や布の感触、きめ細やかさ、雑さ、振動、冷たさ、温かさ、いろいろな感触が仮想世界でもみごとに再現されていた。
机をたたいた時の振動、金属の冷たさ、反響する音、すくった水の感触、それらの違和感が極限まで少なくなった。
僕としてはそれが嬉しくって、そこで再現できるいろいろなデータを購入してしまっていた。
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僕は、目が見えないことに不満があったわけじゃない。
ただ、目が見えないからこそ、挑戦してみたいと思ったのだ。
目が見える人達へ、はたしてどこまで届くのか。そんな遊び、挑戦だった。
"魂の牢獄" は、サポートAIを自身で作成できる。そのサポートAIを独自に強化し、音声でのサポート、てのひらへの感覚通知によって疑似的に地図としたりして、僕はそのゲームに挑戦した。
そうした僕の活動は、面白いことが起こった。
僕は作ったサポートAIを公開して配布していて、それは僕としては同じ目が見えない人も、こういうゲームを楽しんでくれたらな、と思ってやったことだった。
それが、思いもよらぬところから好評をはくした。
僕のサポートAIを目の見える人たちが使い始めたのである。
目が見えないからこそやってきた創意工夫は、ときとして、目の見える人たちにとっても便利なものになりえるらしい。
とても面白い発見だった。
彼らがたどり着けるところへ、僕もたどり着こうと創意工夫した成果が、彼らを助け、さらに先に進めてしまうのである。
ずるいとも思ったし、楽しいとも感じた。
現実でもそういうことはたくさん起こってきたのかもしれない。
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僕に招待状が届いた。
それは、目の見えない人に視覚を獲得させる実験への招待状だった。
目が見える人は脳に視覚を処理する計算力というか仕組みが幼児期につくられるため、その後、視力を失っても仮想世界で視覚を獲得できる。
それは仮想世界にとどまらず、現実でも目の代わりにカメラを接続することもできる。
僕の場合は、生まれた時から目が見えないため、そういう感覚を知らない。
目で認識するという能力がないのだ。
そんな僕にでも、目が見えるようになるかもしれない、そういう技術を開発したい、という人達がいるのだそうだ。
知らない感覚を、0から脳に創造する、というのは脳を拡張するようなものなのかもしれない。
いったいそれはどんな技術なのだろうと興味はある。
ただ、僕にとっては、それはどうでもよいことだったので、招待状には辞退の返事をした。
だって必要ないじゃないか。僕は普通に生きている。
足りないこともあるし、不便もあるかもしれない。
でも、それは目が見えたってそうなんじゃないかと思うのだ。
人間は空を飛べないし、水中では息ができない、何かの補助が必要だ。
目が見えたって、他人の気持ちはダイレクトに理解できないし、言葉ですべてを伝えることも難しいだろう。
絵や図をかければ、少しマシになるのかもしれないが、目が見える人がみんな絵の技術があるわけではない。
だから、これでいいんじゃないかと思う。
映画は楽しめないが、小説は音声再生で楽しむことができる。
映画や映像も、実況してくれる人達がいる。
僕は、目が見えないなりにもできることを探求したい。
実は目に見えるようになることに対して、不安もあった。僕は、僕の顔を見てがっかりするんじゃないかと。




