18 幸せ注入器 2
幸せを貪るだけでお金がもらえるだなんて、都合のいい話はなかったのだ。
考えるまでもないけれど、私は考える気がなかった。
少し試してみて、危険だと思ったら逃げたらいい、そういうふうに最初は考えていたのかもしれない。
そうして、実験を試しに受けてみて、私はそれが危険かどうか、考える気がなくなってしまった。
これは、そういうたぐいのものだ。
最初はただ感情を再現するだけだった。
そのメインというか、被験者を誘うミツが幸せだったのだろう。
ミツであり、クモの糸でもあった。
そのうち、幸せに痛みがともなうようになった。
いや、順番が逆か? それでいいのか? もうどちらでもよい。
痛みを感じるとき、幸せを感じさせられたのだ。そういう装置の実験だ。
感情を脳で再現し、与える、なにもしなくとも任意の感情をめばえさせる装置。
そして、本来の感情とは別の感情にすり替えてしまう装置でもあった。
実験は終了した。
何の事故もなく、何の問題もなく、順調に。
だから、私を、あの怠惰で幸せだった日々にもどすすべはない。
もう実験は終了し、あの施設に入る資格を失った。
被験者となる報酬のおかげでお金にはまったく困らない。
だが、それは生活に困らないという範囲で、私を幸福に浸らせてはくれない。
あの装置を購入できるわけでもない。まだ販売も、発表もされていない。
どうしてこうなったのだろう?
私は、なにか悪いことをしたのだろうか?
いまさら、平穏な日常にもどるだなんて、なんとひどい仕打ちだろう。
実験が終了し、1人暮らしの家でぼうぜんと1週間が過ぎた。
何もやる気がおこらなかった。ただ、どこかから、幸福がやってくるのを待っていた。
ご飯を食べるのさえ、めんどうくさい。
顔を洗うのさえ、めんどうくさい。
買い物は全て通販で、食べ物は全て宅配に、掃除をロボットの業者にまかせたとしても、そうして命を生きながらえさせてなにになるんだ?
もうあの実験場所にはもどれないんだよ。
知っている、気づいている。でも、それはダメだと思うんだ。
人生でいっときでも幸福であれば、幸せな人生だったみたいな話はなかったか。
それは、そこで人生が終わるからいい。私は終わらない。
どうせなら、終わってしまったほうがよかったのか。
いや、良いも悪いもない、ただ、こうなってしまっただけだ。
ふらふらと食器棚に向かう。べつに何か食べたいわけじゃない。
正直に言うとお腹が空いているかどうかさえよくわからなくなっている。
ご飯を食べても何も感じないんだ。
いつからだろう。
世の中の出来事を調べても何も面白くない。
何かを見たいとも、やりたいとも思わない。
これから先、どうしたらいいだろう。
お金はある。たぶん、10年はもつんじゃないか。
無駄遣いしなければもっともつだろう。
いや、そもそも、死ぬまで私にどうしろっていうんだ。
食器棚にあるフォークに手を伸ばす。冷たい。金属製だ。
フォークをぼーっとみて、手をながめる。
さすがに良くないと思う。
実験中はとても幸せだった。
嫌な感情の再現もあったとはいえ、たえしのび、待っているだけで幸せが得られるのだ。
実験施設にいけば、幸せになれた。幸せが待っていた。
もう、待っていてはくれない。
実験では、本当にいろいろな感情をたのしんだ。
恥ずかしいという感情を、あれほど抱いたのははじめてだった。
なんといっても、何が恥ずかしいのかという主語の抜けた羞恥の感情は、逃れるすべがない。
憎しみも、恐怖も、幸せも、喜びも、罪悪感も主語がなくつきささった。
そうしたことを繰り返して実験は次の段階に進んだ。
その実験は仮想空間だった。私は傷つけられるとき、痛みをきっかけにして幸せの感情が装置により偽装された。
それを繰り返し、たまに偽装をしないでどうなるかを確認する。
しだいに私の感情は歪曲し、装置の偽装がなくても痛いと幸せになった。
その痛みは誰かから与えられたものだった。
だから、それまでの実験と変わらず、わたしはただ幸せを待っているだけでよかった。
でも、もうまっていても、幸せはおとずれない。
自分から進んで前へ踏み出さなければ。
私は、勢いよく、右手に持ったフォークを左手に突き刺した。
痛みを感じると同時に私は幸せを得た。
ほんとうに、これは良くない。
血が出ている。それをぼうぜんとながめる。
痛いので、涙も流れた。
本当に痛みで涙が流れたのだろうか?
だれか、私を幸せにしてください。