温かい薬草スープと10人のユキ
1杯の温かい薬草スープ。
冬の朝は、これがないと始まらない。
木皿に入ったスープを片手に持って、毛玉だらけの魔道用ローブにくるまり魔道書のページをぺらと開く。
食糧不足で日々の生活にあえいでいる俺にとっては、唯一ともいえる至福の時間だ。
ページ毎に現れる、美しい六角の魔方陣たち。
紋様は複雑であればあるほど殺傷力が高く、それを描く難易度も上がる。
俺はいつものように、目を皿のようにしてそれに見入った。
…しかし複雑に見える魔方陣も、基本は皆六角形だ。
何の変哲もない、ぺたりとした六角形。
この基本の六角形さえマスターすれば、複雑な魔方陣もじきに描けるようになる。
しかし単純ものほど奥が深いというか何というか、これを正確に描くのは熟練した魔導士でも、なかなか難しいものだ。
ことり。
俺はスープ皿をテーブルに置き、人差し指に魔力を込めた。
銀色の光が指先に宿り、それと同時にユキ達が、なんだなんだと寄ってきた。
1人のユキがスープ皿に近寄り過ぎて、熱いと小さな悲鳴を上げる。
「まだそばに寄るんじゃない。気が散る…」
俺はぼそぼそと文句を言いながら、指を動かし、空中に六角形を描き出す。
ユキたちは聞いているのかいないのか、踊るように俺の指の周りを舞った。
…ぱあん!
一瞬の間を置いて、空中に描かれた六角形は銀色に輝きだした。
うん、まずまずの六角形。
これで魔法発動の準備は完了だ。
「今だ!飛び込め!……お前ら!」
すると、さっきまでの元気はどこへやら。呼びかけたはずのユキたちは、ぽかんと空中に漂ったままだ。
…どういうことだ。
久しく大声をだしてなかったから、もしかしたら自分は出したつもりでも実際はぜんぜん声が出てなかったというオチか…?
くそ、その「何々?何か言った?ちょっと声小さすぎ…」みたいな反応は、引きこもりの繊細な心を一番傷つけるんだぞ!
「と、飛び込めええええ~!!聞いているのか!お前ら!」
今度は精いっぱいの大声を出し、飛び込むジェスチャーまで付けて命令したのだが、それでも奴らは動く気配がない。
…もしかしたら引きこもり過ぎて知らぬ間に実体をなくしてるのかもしれない…。と俺が自分自身の存在にさえ懐疑的になったその瞬間、さらさらの銀色の髪を耳の上で結い上げた1人のユキが、口をひらいた。
「…私たち、お前らって名前じゃあありません!名前、つけてくれないと私たちだって仕事できませんから!」
ふわふわふわ。
静まり返った部屋の中、スープの煙だけが何ごともなかったようにゆらめいている。
…もちろん忘れていたわけじゃない。ユキを使役し始めた、14歳のころなどは、名前をつけるという行為自体が嬉しくてしょうがなかった。
俺もやっと一人前に魔法が使えるようになったのだ。これでやっと復讐を遂げることが出来るようになったのだ、と。
でも、ユキを使役し始めてから今年でもう5年。
俺も19になり、そろそろ虚しくなってきた。
…カッコいい名前をつけたところで何になる?
それで魔法の威力が上がるわけじゃない。
…俺から全てを奪ったあいつを、ぶち殺せる力が付くわけじゃない。
…―それに。
…どうせ、すぐに消えてしまうのに…。
俺は1つため息をついて、冷めかけたスープを口に運んだ。