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第8話 家庭教師としての薫

 婚約記者会見が済んだからなのか、明人の家の周りには、あれほど群れをなしていた記者やレポーターの姿が忽然と消えた。

 噂は噂である事に価値がある。想像を膨らませて、あれやこれやと妄想する事で週刊誌の読者やテレビの向こう側の視聴者の興味が引けるのであって、確定した事実には想像は働かされない。

 正式な発表をもって、薫のニュースバリューは失われた。


 ようやく記者のバリケードを突破せずに、気楽に外出できるようになった薫は、家庭教師のアルバイトで三宮家に来ていた。

 格式のある門構えと広い庭を囲む高い塀。塀から離れた所から見れば、三階建の洋館の一部が見る事ができた。

 三宮家はお金持ちなんだなと、初めて三宮家を訪問した時、薫は思った。

 車も通れるほど幅がある大きな門の横にあるインターポンを押せば、三宮の奥さんである紀子の声がした。


「こんにちは、立山です」

『今、門を開けますから、玄関まで入ってきて下さいな』


 微かにモーター音を立てながら緑色の鋼板製の扉が開いた。薫が門を通過すると自動で閉まっていく。煉瓦を敷き詰められた道に沿って、薫は白い洋館へと歩いていった。

 道の両脇に植えられている芝生は良く手入れされて青く、薔薇が咲いているのかほんのりと香りが風に吹かれて漂ってきていた。

 いつものように玄関ベルを押せば、紀子が笑顔で迎えてくれた。


「待ってたんですよ。ここ数日、信彦が勉強する気を出してくれなくて、少し困っていたの」

「マスコミが家の周りに張り付いていて、家を出れなかったんです。家庭教師のアルバイトを私の都合で一日お休みしてしまって、申し訳ありませんでした」


 薫が頭を下げて謝罪すれば、彼女は首を振って逆に薫の身を気遣ってくれた。


「いいんですのよ。アパートを焼け出されて色々と大変だったでしょう。私に出来る事があれば、何でも言ってちょうだいね。もし、婚約者の霧島さんの家でお世話になるのが窮屈に感じるなら、ただで下宿してもらっても良いんですよ。空き部屋なら余るほどありますから。姫子も信彦も貴女にとても懐いているし、いつでも勉強を見てもらえるから、こちらとしても助かりますもの」


 信彦の部屋まで案内されている間、紀子が提案した内容は、一週間前ならどうしようかと薫は迷うようなものだった。しかし、今は霧島と芸能事務所との契約がある。学費を得るために彼女の提案に応じる訳にはいかなかった。


「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫です。これまで通り、家庭教師に来させて頂きますので、今後ともよろしくお願いします」

「困った事があったら、いつでも頼って下さいね」


 紀子はそう念を押すと、信彦の部屋のドアをノックして薫が来た事を知らせた。


「信彦、家庭教師の先生が来られていますよ。入ってもらって良いかしら?」

「どうぞ」


 澄んだテノールの声がして、ドアが内側に開かれた。

 ドアの向こう側に現れたのは、薫より少し背が低い少年だった。栗色の髪は短く切られていても癖がないために、ドアを開けた時に生じた風でさらっと揺れた。無邪気な笑顔を信彦は薫に向けてくる。


「こんにちは、薫先生。ご婚約おめでとう、でいいのかな?」

「あー、うん。ありがとう」


 薫は目が彷徨ってしまうのを抑えられなかった。事実と異なる祝福を受けて違和感をぬぐえない。教え子に対して偽りを訂正できない自分に情けなさが募っていく。

 実際には婚約なんてしてないから。心の中では言えても、口にすることはできなかった。


「薫先生、家庭教師辞めちゃうの?」


 笑顔が消えた顔と心細そうな瞳で信彦に見上げられると、どうしてもその姿が実家の弟と姿が重なった。

 高校卒業まで責任を持って教えると信彦と約束した手前、薫にはそんな無責任な事をできるはずもなかった。


「辞めない。信彦くんが高校卒業するまで、ちゃんと教えるから安心して」

「よかった。僕、先週の授業で分からない所が一杯あったんだ。教えてよ」


 信彦は薫の腕を引いて部屋の中へ招いた。それを微笑ましそうに紀子は見送って静かにドアを閉めた。


 信彦は父親の仕事の関係で、三年前まで海外で生活していた、いわゆる帰国子女だ。

 日本語は不自由なく話せていたが、国語と古文、漢文が苦手だった。国語の成績が良くない為に他の科目の成績まで足を引っ張っている状態だったのを、薫は半年で国語力を集中的に鍛えた。問題の内容を意図しているところを理解できなければ、問題を解く事もできないからだ。


 学年で下から数える方が早い成績だったのを、上位の中ぐらいに押し上げた薫に紀子と信彦の信頼は当然厚くなった。

 学ぶ事の楽しさを教えてくれた薫に対する憧れにも似た好意が、信彦の中で恋情に代わって行くのに大した時間はかからなかった。

 しかし、信彦には生徒と先生の枠を超える事は、今はできなかった。薫を自分に引き止めている枠組みを壊せば、薫に会えなくなってしまうからだ。

 薫の授業が終盤に差しかかかった頃、信彦が「NAKAYAインターナショナル」と書かれた会社案内を机の中から取り出した。


「先生、就職はどうするの? 三年生から就職活動始める事になるって、この前教えてくれたよね? 地元の市役所か県庁の職員が第一希望って言っていたような気がするけど……、婚約して結婚が決まったのなら、介護休暇も育児休暇も取得率が高くて、女性でも生涯働けそうな会社案内なんて、必要ないよね……」


 信彦の言葉に薫の目の色が変わった。

 明人との婚約を偽装し続けるのは大学にいる間だけだ。その後の事までは取引内容には含まれていない。薫としては就職活動も当然するつもりでいたし、就職活動禁止は条件に入っていなかった。


「いるいる。欲しい」


 ひらひらと右手で会社案内を弄んで、そのままゴミ箱へと捨てようとしていた信彦から、半ばひったくるようにして薫は会社案内を奪い取った。

 熱心に会社案内を読み込む薫に信彦がその内容を補足し始めた。


「その会社、親父が勤めている会社なんだ。海外にも事業を展開しているんだけど、株式公開もしていないし、子会社の名前でしかコマーシャルを打ってないから、あまり一般には知られていないけど、財務体質も経営内容も良い会社らしいよ。来年も新入社員を募集するらしい」


 会社案内を読む限りでは、海外の鉱山や油田に数多くの権益を持ち、海運、貿易、農場経営と幅広く事業を展開していた。

 これって、超一流会社じゃないの? とても、私立大学出身となる私が入れる気がしない……。


「すごい会社だね。立派過ぎて、応募するのには何だか気おくれしてしまうな……」


 乾いた笑いを浮かべて薫は会社案内を返そうとしたが、信彦は掌で押し返して励ました。


「いつもの先生らしくないね。『やってみなければ、わからないじゃない』っていうのが先生の口癖だったと思うけど、ダメ元で応募だけでもしてみなよ。応募しなければ何も始まらない」


 年下に励まされるなんて……。最近、精神的に疲れる事が多すぎたから弱気になっていたのかな? 信彦くんの言う通り、応募だけでもしてみよう。


「ありがとう。就職活動が始まったら、この会社にも応募してみるよ」

「うん、そうしなよ。薫先生ほどの人なら、絶対採用されるって」


 何せ、親父も気に入っているからな。僕の嫁候補として。

 黒い笑みを無邪気な少年の仮面の下に隠して、信彦は薫の進路誘導の第一歩が上手くいったとほくそ笑んだ。



* * * * * * * * * *



 薫が家庭教師の仕事を終えて帰った後、紀子と信彦と姫子は食堂で夕食を取っていた。久しぶりに薫に会えた事で、信彦は上機嫌だった。


「薫さんが霧島さんと婚約するなんて、あの二人どこで知り合ったのかしらねぇ? 毎週家庭教師に来てもらっているけれど、恋人ができた素振りなんて、全く見せなかったのに」


 残念そうに呟く紀子に信彦は口元をナプキンで拭いてから彼の推測を述べた。そこには無邪気な少年の顔はもうない。


「これは僕の推測ですが、薫は霧島とは実際には婚約していないと思います。結婚が決まっているなら、就職活動の心配なんてしなくていいはずです。今、芸能界で一番稼いでいる霧島なら、薫に専業主婦になってもらう事なんて簡単なはずです。でも、薫は就職活動を気にしていて、僕がちらつかせた会社案内に大いに興味を示しました。何か裏があると思うんです」

「薫お姉さまは、何か厄介事に巻き込まれていらっしゃるの? 私、心配だわ」


 姫子が陰りを帯びた表情で憂える。紀子は少し首を傾げて考えて、すぐに決断を下した。

 NAKAYAインターナショナルの代表取締役の夫を持つ紀子は、子供を産むまでは秘書として夫を支えてきた。その時に養われた決断力の先見性の鋭さは、今も衰えてはいなかった。


「信彦のいう裏とやらを探らせてみましょう。将来、娘になるかもしれない人が困った事になっているなら、放ってはおけないわ」

「ありがとうございます、お母様」

「その代り、ちゃんと勉強に励んでね」


 ちゃっかり者の紀子は、にっこりと笑って信彦に念を押すことも忘れなかった。


2012.06.09 初出

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