第5話 取引
「おーい、薫さん、朝食の用意ができたよ」
聡は薫が眠る部屋のドアをノックした。コンコンと軽快に繰り返される打音に、薫は泥のような深い眠りの中から意識を浮上させた。
厚い遮光カーテンから微かにこぼれる太陽の光が、窓とは反対側に置かれているベッドの上まで差し込んでいた。床は畳ではなくフローリングで、天井には蛍光灯が釣り下がってはおらず、最新式のLEDシーリングライトがあった。
見覚えのない部屋。それが薫に覚醒を促した。
ここは、どこだ? おんぼろアパートじゃない……。ええと、昨日は陸上競技会があって、それから……。
薫は昨日の出来事を、寝起きで上手く働かない頭を使って反芻する。突然、ある事実に気がついて、薫は飛び起きた。
まずい、昨夜は眠さに負けて、重田コーチに連絡を入れずに寝てしまった。携帯電話は鞄の中だ。昨夜、聡さんが取りに行ってくれたはずだ。連絡とらないと。
ドアを勢いよく開けられて驚いた聡に開口一番に薫が言ったのは、朝の挨拶ではなかった。
「聡さん、私の鞄はどこにありますか?」
「居間に置いてある」
寝癖がついている髪をとかす事もせずに、薫は足早に居間へと向かう。
ソファーの上に置いてある鞄から携帯電話を取出し開いてみるが、電池が切れて画面は真っ黒になっていた。
「すいません。充電させて下さい」
「どうぞ」
後を追いかけてきた聡は、薫が鞄から充電器を取り出すのを目の端で捕えながら台所へと居間を横切った。
充電器を携帯電話につないで電源ボタンを押せば、画面には数多くの受信とメールの到着を知らせるアイコンが現れた。
まともに読んでいたら何時間かかるやら。
げんなりする自分の心を隅に押しやって、これから連絡を取ろうとしている重田の留守番電話とメールを優先して履歴の中から探した。
『連絡できるようなら、電話をくれ』
重田からは用件のみの簡潔なメールが1件だけあった。
電話帳を開いて、薫は重田へと電話をかける。数コールの後に重田が応答した。
『はい、重田です』
「おはようございます。今まで連絡取れなくて、すいませんでした」
『長瀬から大体の事情は聞いた。自宅が火事にあったそうだな。災難だったな』
舞子はどこまで重田コーチに話したのか。まさか、明人の家に居る事も言ったんじゃないでしょうね。
薫は自分の顔が緊張で引きつっていくのが分かった。
あの特大電波塔機能付きの放送局は、時々ここだけの話で打ち明けた話も無制限にばらまく事があるから、ある意味怖い。
『我が陸上部の選手が今日の陸上競技会に出場するから、立山も応援に来たいだろうが、来るなよ。マスコミの連中が張り込んでいるからな。出場する選手の邪魔になる。大学にも最低でも一週間出席しないで欲しいと、学長から非公式の伝言を預かっている。大学の方にもマスコミが取材攻勢をかけて、大学側が対応に追われているらしい』
「……、わかりました」
世界進出も見込める大事な大会だ。選手の精神状態はそのまま成績に影響を与える事も多々ある。少しでも選手を良い状態に持って行くのもコーチの務めだ。
重田の指示に薫は納得して返事をした。仲間の足まで引っ張りたくはなかった。
『それから、立山のスポーツ特待生の資格剥奪が昨日の夜に理事会で決まった。事実関係を確認し、本人に反論の場を与えるべきだと粘ってみたんだが、聞き入れてもらえなくてな……。試合を正当な事由なしに棄権した事が理事たちの怒りを買ったようだ。前期までの学費は免除されるが、後期分からは納付しなければならなくなる』
想定していた事態の中でも最悪のパターンを告げられて、薫は暗澹たる気分になってくる。
好き好んで女子一万メートルを欠場したわけじゃない。不可抗力だ。私は明人の勘違いに巻き込まれただけなのに、何で特待生の資格まで失わなければならないのか。
それでも、理事会で決まった事は、そう簡単には覆らないだろう。
「私のために尽力して下さって、ありがとうございます。学費については用意できるか考えてみます」
両親の資力からいって、私立大学の学費を用意するのはかなり難しいと、薫は感じていた。
貯金も学費を賄えるほどはない。今から奨学金の申請をしても、後期の学費の納付期限までに間に合うのか微妙なところだ。
『何か困った事が起こったら、相談してくれ。そろそろ審判員の打合せが始まるから、電話を切るぞ』
通話が終った後、薫は携帯電話の画面を操作してメールに目を通し、留守番電話の内容を聞いていく。
その中に母からの伝言があった。
『薫! 昼間のワイドショーの報道は一体なんなの!? 都会に出で、真面目に勉学に励んていると思っていたのに、俳優とイチャイチャしていたなんて、母さん、貴方を見損なったわ! 大学からは特待生の資格を喪失したから、後期の学費を振り込んで下さいって電話が掛かってくるし。どうなっているのか説明しなさい!』
きゃんきゃんと母が吠えている伝言を聞いて、泣きたい気分になった。
地元を離れて大学に進学する事に反対した父を説得してくれた母。味方になってくれた母に責められるのは辛い。
真面目に遊ぶ暇もなく、陸上と勉強とアルバイトに明け暮れていたというのに、事実と違う印象を作り出し、それをあたかも事実のように演出するとは、さすがマスコミだ。
スクープは早さが勝負かもしれないけどさ……。報道するなら、裏付けの一つも取って欲しい、と薫は切実に思った。
これもそれも、全部明人のせいだ。
でも、ほんの少しは私の責任でもあるかもしれない。あの時、酔っ払いの明人を助けなければ、明人と関わらなければ、こんな事にならずに済んだんだ。
薫は床に座り込んで、思考のループに嵌っていた。
なかなか薫が台所に来ないのを心配して、聡が居間に顔を覗かせた。
「何しょげているんだ? 飯が冷めてしまうぞ」
「すいません。顔を洗ってから、行きます」
薫は聡に目に浮かんだ涙を見られないように背を向けて鞄を掴み、洗面台がある脱衣所に駆け込んだ。
蛇口から水を勢いよく出して、無造作に顔を洗う。ついでに髪をブラシでといて寝癖も直した。
鏡に映った自分の顔を見て、薫は両手で頬を叩いて気合を入れた。
起こった事はどうしようもない。これから私にできる事をして、大学生活を続けれるように頑張らないといけない。
台所へ入ると、食卓には水のペットボトルと温められたコンビニ弁当が3人分並んでいた。
明人と聡は既に席についていて、薫は軽く頭を下げてから席に座った。
朝食は、薫の日常の食事とは程遠い内容だった。コンビニ弁当は野菜が少なく、揚げ物が多い。カロリーも高そうだ。味付けは濃く、体調管理の為に低食塩の調理を心掛けている薫には塩辛く感じた。
折角、用意してもらった朝食なのだからと、薫は時々、水を口に運びながらコンビニ弁当を全て胃の中に収めた。
三人が朝食を食べ終わり一息ついたところで、薫が話を切り出した。
「私と霧島さんはお付き合いなんてしてないって、マスコミに知らせてくれたんですよね?」
マスコミの関心は霧島明人という俳優にある。薫が明人と無関係の人物であると分れば、一般人の薫をマスコミが追う価値はなくなるはずだと、薫は考えていた。
「あー、それなんだけどね……」
聡は言い淀んでいたが、明人と数回視線を交わし、腹をくくったのか薫を真っ直ぐに見据えて言った。
「実はまだマスコミには、その事を知らせていないんだ。騒ぎが落ち着くまで、貴方には明人の婚約者のふりをしてもらいたい」
「何で!?」
予想外の聡の要請に、薫は怒りをにじませた。
大学生活崩壊の危機を作った元凶の婚約者のふりをしろって、一体どんな冗談だ。馬鹿げた話に付き合ってられるか。
席を蹴るようして立ち、脇に置いてあった鞄を持って玄関へ出ようとしたところで、明人に呼び止められた。
「今は家から出ていかない方がいいぞ。外で手ぐすね引いて待っている記者とレポーターの質問攻めにあいたいなら、話は別だが」
明人の言葉で、玄関ドアのノブに掛かっていた薫の手が止まった。
よくよく考えれば、所持金五千円ほどで、この家を飛び出ても、月曜日までまともな生活が送れるのか怪しい。
薫は明人に促されて、朝食を食べたテーブルへと戻った。聡が話を続けた。
「うちの芸能事務所は明人の稼ぎで成り立っているようなものなんだ。もちろん売出し中の新人もいるけど、まだ利益になるほど育っていない。明人の仕事がなくなると芸能事務所の存続も危うい」
「それと、私が霧島さんの婚約者のふりをする事に何の関係があるんですか?」
聡の説明の途中で、薫は疑問を挟んだ。
関わりたくないったら、関わりたくない。平々凡々な人生を薫は望んでいるのに、赤の他人同士が婚約者のふりをするなんて……。
演技に慣れている俳優の明人はともかく、薫には荷が重すぎた。
「もし、ここで薫さんと明人が付き合ってないと公表したら、最悪の場合、マスコミは明人が未成年の女子大学生をヤり捨てたのかって、騒ぎ立てるかもしれない。そうでなくても、明人の役柄を狙っていた他の俳優や芸能事務所が、ここぞとばかりに大いに煽ってマスコミを焚きつけるだろう。私ならそうする。イメージを悪くするためにね。今、明人に入っている仕事は純愛物の映画の主役だ。作品を大切にしたいのは、どの監督も同じだから、間違いなく明人は主役を降ろされる」
「そうしたら、お金が入ってこなくなって、芸能事務所が潰れるって事?」
「ありていに言えば、そうだ」
芸能界は弱肉強食の世界なんだ。
スキャンダルという隙を見せれば、容赦なく蹴落とされる非情さに薫は眩暈を覚えた。
「でも、霧島さんと私との間に何も無かったのは事実だから、説明すれば納得してもらえないですか?」
何とか状況を打開しようと薫は頭を捻っていた。薫と聡の会話の成り行きを見守っていた明人が、薫が忘れ去りたかった事実を指摘した。
「俺は薫が妊娠しているような事を公衆の前で喋っているから、『何もなかった』と言っても、信じてもらえる可能性は皆無だ」
そうでした――。
コールに集まっていた女子選手たちにも、当然、マスコミは取材をしているはずだ。医師は守秘義務があるから、薫が妊娠しているか、していないかは絶対に喋らないわけで……。
こうなると状況証拠で判断されてしまうのは仕方のない事だった。灰色に近い黒。世の中の皆様に、『何かあった』と思われてるのは、薫にも容易に想像がついた。
「事実か事実でないかは、マスコミの連中にとっては大した問題ではないんだ。視聴率が取れるか取れないか。それだけが彼らの頭の中にある。だから、視聴率の取れる話題なら喜んで飛びつく」
明人はマスコミに関して批判的な見解を述べた。そんな明人を尻目に聡は説明を続けた。
「今まで幾度も明人と女優との交際の噂が流れている事を考えれば、薫さんとの交際の事実を否定して火に油を注ぐよりも、交際を認めて、結婚を前提にした真剣な交際をしていると公表した方が傷は少ない」
「嘘がばれたら、どうするんですか!」
薫は真面目に生きてきた人間だ。嘘をつくのも、腹に一物を抱えたまま表面を取り繕うのも、苦手だった。
とても上手く立ち回れる自信がない。薫はそう思った。
「ばれないようにする。マスコミの連中も新しいスキャンダルが出たら、こっちには張り付いていられなくなるだろう。時間がそれなりに経てば、新鮮味がなくなって追うのを止めるようになる」
今までの経験が物を言っているのか、明人は自信たっぷりに請け負った。
「この勘違い野郎の為でなく、スターを夢見て日々努力している、うちの芸能事務所の新人たちの為に、協力してもらえないだろうか? この通り、お願いします」
テーブルに額を擦りつけんばかりに頭を下げた聡に対して、薫は即答した。
「お断りします」
気まずい沈黙が三人の間を数秒流れた。
頭を上げた聡は、薫に協力を拒否されたにも関わらず、まだ余裕の笑みを浮かべていた。まだ何かあるのかと、薫は警戒を強めた。
「そう言えば、薫さん、特待生の待遇がなくなったんだって? 学費を払わなければならなくなったんじゃなかったっけ?」
「どうして知っているんですか?」
「昨夜、長瀬さんの家に鞄を取りに行ったときに、彼女から聞いたんだ。私達に協力してくれたら、学費を卒業まで芸能事務所が負担する」
薫にとっては、とてもとても魅力的な提案だった。
「う……」
「悪い話ではないだろう?」
ここぞとばかりに聡が提案を売り込んでくる。
デメリットとメリットを両端に乗せている薫の心の中の天秤が激しく揺れ始めた。
薫は大学だけはどうしても卒業しておきたかった。
そもそも、薫が法学部を志望したのも、立山家が学費を賄えない状況になったのも、父が友人の連帯保証人になった事に端を発していた。
父の友人が夜逃げをして、友人が抱えていた少なくない額の借金を父が支払らなければならなくなったのだ。
軽い気持ちで連帯保証人になって、財産を巻き上げられる羽目になるとは――無知とは恐ろしいと、薫は子供心に刻みつけられた。
法律を習得して、私が家族を守るんだ。
その決意を胸に秘めて、進学に役に立ちそうな事は、薫は何でもやってきた。陸上も進学を有利に進める手段の一つでしかなかった。
どうしても、学費が欲しい。
薫の心は定まった。
残りの大学生活が窮屈になっても、私は学びたい。
「不本意ですが、協力します。口約束だけでは不安なので、合意内容を詰めた後に、それを文章化してもらえますか?」
迷った末の結論を薫は聡に伝えた。
「いいよ。契約書のように私と薫さんで、控えを一部ずつ持つように手配しよう」
どこかほっとした表情を見せながら、聡は背広の内ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。
文章化すれば、それほど私に不利な内容は詰め込めないだろうと、この時、薫はたかを括っていた。
それに、私だって法律を学ぶ者の端くれだ。簡単に丸め込められたりしない。
そう思った薫は気づいてなかった。法律の知識と交渉力は、全く別物である事に――。
2013.05.14 初出