第4話 薫、誤解される
午後10時という夜更けの時間帯に薫達は明人の自宅に帰り着いた。
聡の要請で明人が所属する芸能事務所が自宅前に派遣した警備員のおかげで、記者達に車を囲まれる事はあっても、割とスムーズに車庫へと入る事ができた。
記者やカメラマン達に車を取り囲まれて、コメントを得ようと車のドアの窓ガラスを叩き、何人もの人が同時に話しかけてくる事態に、明人も聡も慣れているのか平然としていた。しかし、薫はその異様な光景に驚いて、一瞬だけ明人の腕に縋り付いてしまった。
車庫から直接家の中へ入れる構造になっていたのには助かったと、薫は息を一つ吐き出した。あれだけの人の集団を自力でかき分けて玄関まで進める自信はなかった。
聡に促されるまま、薫は明人の後をついて廊下を歩いた。居間に着くと、明人はソファーに腰を降ろし、背中を背凭れに預けて天を仰いだ。
「あー、今日は疲れる一日だった……」
疲れをにじませた声で明人が愚痴をこぼす。聡はそんな明人の様子を見て、仕方ないなと呆れを含めた視線を向けた。
疲れているのは薫も同じだ。いや、それ以上かもしない。熱中症にかかった分、体力を消耗して、体には拭い切れない気怠さが残っていた。
もう眠ってしまいたい。それが薫の正直な気持ちだ。しかし、薫は電話を見つけて、今やるべき事を思い出した。
舞子に連絡をつけなければ――。
「電話を使わせてもらって良いですか?」
「どうぞ」
あっさりと電話の使用を認めた明人と違い、聡は条件を付けてきた。それは、マネージャーとしては当然すぎる措置だった。
「電話を掛けるなら、電話番号非通知の設定で掛けて欲しい。一般人にここの電話番号が漏れるのは良くない。あっと言う間に広がって、イタズラ電話が掛かってきかねないからね」
電話のタッチバネルを暫く操作してから、聡は薫に受話器を渡した。
「これで相手側にここの電話番号が表示される事はないはずだ」
受話器を受け取った薫は、唯一覚えていた舞子の携帯電話の番号を押した。
舞子は陸上部のマネージャーを務めている。重田コーチと共に国立陸上競技場にも来ていた。薫が明人に連れ去られた後、どうなったかを舞子は知っている可能性が高かった。
電話番号が表示されないからって、警戒して電話に出ないなんて事がありませんように。
薫は祈りながら単調に繰り返される呼び出し音に耳をすませた。
『はい、長瀬です』
「出てくれて良かった、舞子。薫です。突然、競技場からいなくなって、ごめん」
電話に出た当初、舞子の声には警戒感が混じっていたが、薫の声を聞いた途端に砕けた口調が戻ってきた。
『やだ! 薫なの? 霧島明人に連れ去られてから、こちらは大変だったのよ。雑誌やらテレビ局の記者に質問攻めにされて、付きまとわれて鬱陶しかったんだからね。今、どこにいるの? 重田コーチも自宅に電話をかけたんだけど、繋がらないって心配していたわよ』
居場所を舞子に告げても良いだろうかと一瞬だけ考えたが、思い直して居場所は告げずにおいた。
明人の自宅に居ますなんて言ったら、薫と明人が深い仲だというデタラメ報道に根拠を与えてしまう事になる。それは避けたかった。
「住んでいたアパートが火事で燃えてしまって、それで電話が繋がらなかったんだと思う。陸上競技場に残してきた私の鞄、どこにあるか知らない?」
触れられたくない事柄から舞子の関心を逸らすように薫は話題を変えた。舞子は薫の思惑に気づく様子もなく、あっさりと薫の問いに答えた。
『薫の鞄なら、手元にあるよ。鞄の中に入っている携帯電話が、さっきまでメールや電話の着信音を引っ切り無しに鳴っていた。今は電池が切れたのか、うんともすんとも言わなくなったけどね――』
「迷惑をかけて、本当にごめん。今から鞄を取りに行きたいんだけど、いいかな?」
薫がそう切り出した途端、横から聡が受話器を取り上げて、電話口の向こうにいる舞子に勝手に話し始めた。
「こんばんは、舞子さん。霧島明人のマネージャーをしている河野聡です。この度は明人がそちらに迷惑をかけてしまった様で、申し訳ありませんでした。明人の自宅には記者たちが張り付いていて、とても薫さんが外出できる状態ではありませんので、私が鞄を取りに行かせて頂きます。そちらの住所を教えて頂けますか?」
着々と舞子から薫の鞄を受け取るべく段取りを進めていく聡に、薫は頭を抱えた。
舞子は恋バナ大好き、噂大好き人間だ。きっと月曜日には、薫が明人の家に居るという事は、陸上部、いや大学中に広まっているに違いない。
薫は聡から受話器を奪い返そうと手を伸ばすが、聡はひらりと器用に身を躱して、それを許さなかった。
ようやく薫の手に受話器が戻ってきたのは、聡が舞子の住所どころか携帯電話番号まで聞き出した後だった。
「もしもし? 舞子?」
『もう、薫、冷たいじゃないの。霧島さんの家に居るなら、そう言ってくれればいいのに。来週、霧島さんとの馴れ初めを聞かせてね。じゃあねぇ』
おどけた言葉を最後に電話はぷつりと切れた。
明人の家に何故薫がいるのかを説明も弁明もする間もなく電話を切られてしまった。受話器から流れるツーツーという音に薫はがっくりと肩を落として首を振った。
絶対に舞子に誤解された。明人の家にすぐに転がり込めるほど親密な仲になっているって。違うのに、違うのに!
「鞄を取って来ます。薫さんはお風呂に入って先に寝て下さい。今日は色々あり過ぎて疲れたでしょう。着替えはソファーの上の紙バッグの中から適当に選んで下さい」
そう言うと、聡は車のキーを取り出して車庫へ向かって歩き出した。呆然と見送っていると、明人が薫に背後から声をかけた。
「薫、浴室はこっちだ」
いつの間にかソファーの上にあった紙バッグを明人は左手に持ち、薫の手を引いて浴室へと案内した。
ドアを開けると洗面台も備えられている脱衣所がおった。奥には曇りガラスの扉がありその向こうが浴室になっていた。
「バスタオルはここ。タオルはこの棚にある。ボディソープはないが、石鹸は浴室の中にある。ああ、この紙バッグの中に女性用のシャンプーとかリンスとかが入っているから、髪を洗うなら、それを使って欲しい」
一通り説明を済ませると、薫を残して明人は浴室を出ていった。
紙バッグの中を覗いてみると、シャンプーだけではなく、化粧水や乳液といった化粧品や、ご丁寧な事に下着までが入っていた。サイズを確認してみると、どれもこれも薫に合わせた物だった。
さすが女性が必要とする物をよくご存じでいらっしゃる。よく短時間でここまで揃えられたものね。薫は皮肉めいた感想を持つ。明人は間違いなく女たらしだ。
タオルを一枚手に取って浴室へと入ると、大きな浴槽が目に入った。手足を伸ばしても薫の体がすっぽりと収まるくらい大きい。乳白色の浴槽の肌が滑らかな曲線を描いていた。
季節は初夏。浴室は裸でも寒く感じなかった。狭い浴槽に身を縮こまらせて真冬の間もシャワーだけで入浴を済ませていた薫は、贅沢な作りの浴槽を使ってみたくなった。
ちょっとした温泉気分が味わえるかもしれない。
シャワーを使って一日の汚れを落としている間に、薫は浴槽にお湯を張った。
浴槽の縁に頭を置き、寝そべるように体を伸ばしてお湯に浸かる。ほどよい温度に保たれたお湯の温かさが、じわりと疲れた体に心地よく染み渡る。
ああ、癒される――。
一生分の災厄が降りかかったような一日に、薫は精神的にも肉体的にも疲れていたのか、湯船の中でうたた寝しまっていた。
* * * * * * * * * *
女の風呂は長いと分ってはいるが、いくら何でも長すぎる。
明人は時計を見て、苛立ちを強めていた。薫を浴室に案内してから、もう40分は経っている。
レディファーストで入浴の順番を譲ったのだが、明人も薫との追いかけっこでかなりの汗をかいてしまい、早くシャワーを浴びて早くさっばりしたかった。
脱衣所のドアをノックしてみるが、中からは反応がなかった。恐る恐るドアを開けて脱衣所を覗くが、そこに薫の姿はなかった。
まだ風呂に入っているのか。
少々呆れながらも浴室に続く曇りガラスのドアをノックしてみたが、薫の反応は返ってこなかった。
まさか、浴室の中でひっくり返ってるんじゃないだろうな?
水深30センチメートルの水たまりがあれば、人は溺死する事ができる。のぼせて手足に力が入らなくなった状態になれば、湯に浸かっているのは危険だ。
最悪を予想して、明人は躊躇いもせずにドアを開けて浴室へと入った。
「薫っ、大丈夫か!?」
明人の声に薫は目を薄っすらと開いた。突然、視界に入ってきた明人の姿に驚いて、バランスを崩し、薫の頭が湯船に一気に沈んだ。
パニックになった薫はジタバタと湯の中でもがいていた。湯あたりして体の力が入らないのかと考えた明人は、薫の背後から両脇の下に手を差し込み、浴槽の中から引き上げた。
少しだけ湯を飲んでしまったのか、薫は激しく咽せていた。ようやく咳と呼吸が落ち着くと、薫は胸を両手で覆って床に座り込んでしまった。
「た、助けてくれて、ありがとうございます。後は一人でできますから、浴室から出ていってもらえますか?」
薫の声は明人に一糸まとわぬ姿を見られている恥ずかしさで些か震えていた。
そう言われて初めて明人は無駄が一切省かれて均整のとれた薫の肢体を見つめていた事に気がついた。慌てて背中を向けて目を逸らす。
「わかった」
ぎくしゃくと手足を動かして脱衣所へ移った。明人はタオルを棚から取り出して、濡れた手足を拭いた。
女の裸なんて散々見てきたというのに、何故か薫からは目が離せなかった。かなり動揺していた事を薫に悟られてなければいいが……。
明人はすっかり水を吸ってしまったズボンの裾を洗面台の上で絞りながら、頭に焼き付いてしまった薫の裸の映像を振り払おうとして、果たせなかった。
湿って肌に布地が纏わりつく気持ち悪さを我慢してズボンをはき、着替えを取りに寝室へ向かおうと脱衣所を出ると、聡が戻ってきた。
廊下で明人とで鉢合わせした聡は、明人の濡れた服を見て眉を顰めた。
「まさか、薫さんを風呂場で襲ったんじゃないだろうな?」
「そんな事、するわけないだろ! 浴槽で溺れそうになっていた所を助けただけだ!」
明らかにほっとした聡を見て、明人は面白くない。俺は普段から素行が悪いと思われていたのかと、少なからずショックを受けていた。
聡は出かけた時には持っていなかったボストンバックを肩にかけていた。肩ひもの部分に薫の名前が刺繍されている。居間のソファーの上にそれを置くと、もう片方の手で持っていたコンビニ袋をサイドテーブルの上に置いた。
「夕食買ってきた。あちこち飛び回ったせいで食べ損なったからな。日付が変わる前に食べてしまおうぜ」
聡はお茶とペツトボトルとのり弁当を袋から取り出す。ラップ包装を取り除き、割りばしを片手と口で器用に割って弁当を食べ始めた。5分とかからず弁当の中身は空になった。
「明人は食べないのか?」
「一つもらうよ」
野菜が比較的多く入っていそうな鮭弁当を明人は選んだ。
薫が紙バックを手に下げて居間に入ってきた。お風呂上りなので、上気した頬が薄らと赤く染まり、肌はしっとりとしている。
浴槽の中で眠ってしまうほど薫は疲れていた。瞼が落ちそうになるのを堪えて、しきりに目をこすっていた。
「薫さん、お昼から何も食べてないだろ? コンビニ弁当で良ければ、ここにあるよ。食べる?」
聡はコンビニ袋を指し示して手招きしたが、薫はお礼を言いながらも、首を横に振って聡の申し出を断った。
「ありがとうございます。でも、もう深夜なので遠慮させて頂きます。眠る前に食べると脂肪になってしまいますから」
「そうか。それなら、薫が寝る部屋に案内させてもらおう」
明人は複数ある来客用の部屋の一つに薫を連れて行った。
シングルベッドが一つとベット脇に小さなサイドテーブルとちょっとした書き物ができる机と椅子があり、収納家具がない代わりにクローゼットが設置されている。
部屋に入ってシングルベッドが目に入るなり、薫は紙バックをドアの脇に置いて吸い寄せられるようにベッドの方へ歩いて行った。
薫は眠さが限界に来ていた。7時間の睡眠時間を確保するために、寝るのは遅くても午後10時頃だった。今日は身も心もくたびれている上に、いつもの就寝時間を大幅に過ぎてしまっていた。
立っているのも辛いほど睡魔が襲っていた。
ベッドに俯けに全身を投げ出す。
ああ、このベットふかふかだ……。
その感想を最後に薫の意識は睡魔に呑まれた。
物の1分も経たないうちに寝息を立て始めた薫を見て、明人は諦めの眼差しを向けた。
ちゃんと今日の事を謝ろうと思っていたが、この様子では無理そうだ。
「おやすみ、薫」
明人は薫の耳元で呟いて部屋を後にした。
2013/05/06 初出