第3話 泣きっ面に蜂
明人を完全に撒いた事を後ろを振り返って確認すると、薫は徐々に走るスピードを落として歩き始めた。
靴なしで全力疾走したものだから、足の裏が着地の衝撃をまともに受け止める事になって、じんじんと痛い。こういう時に靴のありがたさが実感できるのは皮肉な事だ。
今日の薫はベストコンディションで、予選を走れば必ず決勝には残れる自信と実力はあったのに、つまらない明人の誤解で欠場させられて、危機に立たされかけている。一体、何の因果なのだろうと薫は泣きたくなった。
絶対に今年は厄年に違いない。これ以上、変な厄を引きつけないように、騒ぎが納まったら近所の神社でお祓いしてもらおうと、薫は心に決めた。
あたりを見回して現在地を確認する。ランドマークとなる電波塔と高層ビルがこの位置に見えるという事は、駅を挟んで住んでいるアパートとは反対側に来ているようだ。
陸上競技用のユニフォーム姿で、しかも裸足で駅前を通過するのは、かなり目立ってしまう。
駅を迂回してアパートへ戻ろう。隠しているプランターの土の中にある鍵を使って部屋に入ったら、水を飲んで喉を潤して、それから、舞子の携帯に電話をかけて私の鞄がどうなっているのか聞いてみよう。ああ、重田コーチにも連絡をとらないと……。
目元に浮かんだ涙を拭い、鼻を啜りあげる。やるべき事を頭に浮かべながら、薫は電車が通る高架を目指して足を進めた。
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お金は競技場に鞄と共に置いてきてしまったから、水も飲めずに薫は小一時間ほど歩き続けていた。
喉が渇いた。
照りつける太陽と蒸し暑い空気は、薫の体から水分を奪い取っていた。あと15分も歩けば、アパートにつくはずだと自分を励まして脚を動かした。
アパートに近づくにつれて、人の密度が多くなってきていた。普段ならこんなに人が道路に出てくる事はない。しかも、薫は心なしか煙の臭いもするような気がした。
野次馬の関心は、薫の進行方向上空にもくもくと噴き上げている黒い煙にあり、ランニングシャツに短パン姿という普段着とは到底言えない薫の服装に気づく者はいなかった。
住宅密集地の間から噴き上げる炎が見え始めると、薫は黄色い規制線に行き当たった。ポンプ車が数台集まっていて、消火栓と近くを流れる川から水を引っ張っているようだった。
規制線の手前で野次馬を押し返している若い警察官が、薫が規制線を潜り抜けようとしているのを見つけて、慌てて引き止めた。
「何しているんですか! この向こうではアパートで起こった火事の消火活動をしているんですよ! 危険ですから、戻りなさい!」
「離して下さい! アパートに戻って知人に連絡を取らないといけないんです! 危ないと判断したら引き返しますから、10分でいいですから時間を下さい!」
この地区は古いアパートが密集している。火災が発生しているアパートは私が借りているアパートではないかもしれない。火事の現場から少し離れていれば、電話は通じるかもしれない。それに、服も靴もアパートに辿り着ければ替えがある。もう少しまともな服装にする事だってできるのだ。
薫が警官の腕を振り払おうとしていると、聞きなれた声が薫を呼び止めた。
「薫ちゃん!」
呼ばれて薫は後ろを振り返った。そこには薫のアパートの大家である里塚が立っていた。
里塚は薫の母と同じ年代の女性だ。いつも明るい笑顔を振り撒いているのだが、今日は顔を涙でぐちゃぐちゃにして薫の両腕を掴んだ。
「よかったぁ。薫ちゃんを探していたのよ。携帯に電話しても全然繋がらないから、火元になったアパートで逃げ遅れて焼死したんじゃないかって、気が気でなかったわ」
「へ? 火元? 私が借りていたアパートが火事になったんですか?」
暑さで上手く働かない頭を捻り、薫は里塚に事実を確認しようと口を開いた。ショックが大き過ぎたのか、薫には里塚の声が遠くに聞こえるような気がした。
「そうよ。火元は薫ちゃんの下の部屋みたいだけれど、消防車が来た時は建物全体に火が回ってしまっていたから、部屋の中にある物は絶望的だと思うわ」
とんでもない事実を突き付ける里塚の声に薫は打ちのめされた。
通帳もキャッシュカードも、アルバイトをして貯めたお金で買った高価な法学書も判例集も全部アパートの中にあった。
尚更、都合の悪い事に今日は金曜日。時刻は午後3時をとっくに回っていて、銀行の窓口は閉まっている。通帳やキャッシュカードの再発行を銀行に依頼しようとしても、月曜日の朝になってしまう。
そして、競技場に置き去りにしてしまった鞄の中にある薫の財布には、現金が五千円ばかりと使いさしの図書カードしか入っていなかった。
自分が置かれた状況を認識して、薫は気が遠くなりそうだった。
神様、仏様。こんなに不幸が立て続けに起こるなんて、私は何か悪い事をしましたか? 酔っ払いを助ける事は、善い事ではなかったのでしょうか? 助けた人がどうしようもない悪人だったから、私がこんな目に会うのでしょうか?
薫は心の中で自問する。傍から見ればショックのあまりに惚けたように見えたかもしれない。
突然、眩暈が薫を襲う。目の前が真っ暗になって体から力が抜けて行った。全力で逃走した後、初夏の蒸し暑い日差しの中を水分も取らずに歩き続けていたため、薫は熱中症に陥っていた。
意識が朦朧として、ぐらりと傾いだ薫の体を横から伸びてきた腕が抱きとめた。腕の主は明人だった。
「薫」
「薫ちゃん!」
明人の腕の中でぐったりとしている薫に明人と里塚が呼びかけるが、薫は意識を失っていて反応を返す事はなかった。
* * * * * * * * * *
探偵に薫の自宅住所を調べさせておいて本当に良かった、と明人は薫を腕の中に抱えながら思った。
目の前で女性に逃亡されたのは、明人にとっては今回が初めての経験だった。
今まで整い過ぎている容貌に魅かれて寄ってくる女性は数多く、ここまで嫌悪の感情をストレートに表現して、明人から遠ざかろうとする女性はいなかった。
それも当然か。酔っ払っていた明人を親切にも自宅まで送ってくれた恩人なのに、酷い事をしてしまったに違いないから。
波打つように乱れたラグ。自らが吐き出したであろう欲望の白い体液で所々が汚れていた。
靴下しか履いていないという、ほぼ全裸の状態で明人は目覚めた。サイドテーブルに書き殴られたメモを見て、昨夜飲みつぶれてからの記憶を思い出し、明人は頭から血の引く思いをした。
夢だと思って真理を好き放題に抱いたのが、実は現実で別人を抱いていたのか? まずい。夢だと思っていたから避妊なんてしていなかったぞ。
明人は大いに焦った。
探偵が探し出してきた薫の情報に「女子一万メートル走に出場予定」と書かれた項目を見つけて、慌てて陸上競技場に駆け付けた。流産させてしまったら、更に薫を苦しめる事になると明人は思っていたからだ。
薫に再会して、明人よりも陸上競技を優先しようとする薫の態度に、何故か切なさがこみ上げた。
結局、妊娠は明人の誤解という結論に落ち着いたが、それでも、薫に行った所業が消えるわけではない。償いたいと、明人は思っていた。
だから、明人は薫に逃走された後も諦めずに追いかけて、アパート周辺で待ち伏せしていたのだ。
「貴方、薫ちゃんの知り合い?」
薫が気を失うまで話していた里塚が明人を訝しげに見ながら確認してきた。
明人はサングラスをかけて鍔が広い帽子を被っているので、彼が俳優の霧島明人だと里塚は気づいてなかった。
「ええ、そうです。薫を探していたんですが、ようやく見つかって良かった。早く病院へ薫を連れて行きたいので、またお話は後で」
「引き止めてごめんなさいね。私は消防と警察の対応をしなくてはならないから、薫ちゃんの傍にいてあげられないわ。彼女をお願いします」
里塚は明人に頭を下げた。
本当は里塚は現場検証や事情聴取などをすっぽかして、薫を病院へと連れて行って、付き添ってやりたかった。親元を離れて勉学と陸上とアルバイトの3つを鼎立させるべく、遊ぶ間もなく日々を過ごしている事を知っていたから。
だが、大家として他のアパートの住人にこれからの事を説明する義務があった。その為、里塚は明人に薫を託す事にした。
明人は強く頷いて薫を抱き上げ、規制線から少し離れた場所に停めてあった車の後部座席に薫を横たえた。
「どうした? 彼女、体調が悪いのか?」
運転席から身を乗り出すようにして、聡がぐったりとした薫の様子を伺った。薫の顔は赤く、呼吸は浅く速い。
明人は後部座席のドアを閉め、助手席に乗り込むと聡に指示を出し始めた。
「規制線のすぐ傍で、中年の女性と話していたら、薫がいきなり倒れた。咄嗟に抱き留めたから頭は打っていない。この暑さの中で熱中症になったのかもしれない。すぐに病院に運ぼう」
「おい、明人。そんじょそこらの一般病院に担ぎ込んで、マスコミ連中に更に騒ぎ立てるネタを提供してやるのか? 冗談じゃないぞ」
いくら病院が患者のプライバシーに配慮してくれると言っても、人の口に戸は立てられない。
霧島明人が意識のない女性を病院に連れてきたという事実は、噂となって漏れ出ていくに違いない。
マスコミ対策を誤れば、明人のこれからの俳優の仕事に影響が出る事は必至だ。余計な波乱要因は作りたくはないというのが聡の本音だった。
「榎木先輩を頼る。あの人の専門は産婦人科だが、他の病気も診れるはずだ。口も堅いし、午後からの診察は今日はないと言っていたから、他の患者と鉢合わせる危険も少ない」
瞬時に明人が導き出した決定に、聡は素直に従った。
確かに複数の病院に世話になるよりは、一か所である方が対処にかかるエネルギーも少なくて済む。それに大病院と違い、小規模の病院ならば融通が利くかもしれない。
「了解」
そう明人に応えると、小野原産婦人科医院に向って、聡は車を走らせ始めた。
* * * * * * * * * *
消毒液と点滴液の匂いに包まれて、薫は芳しくない目覚めを迎えた。
まだ、頭が熱に浮かされたようにはっきりとしない。薫は辺りを見回した。
白い天井に周りに引かれた白いカーテン。素肌に当たる柔らく暖かな感触はベッドのマットと布団のものだった。左腕だけが上掛けの外へと出されていて、肘の内側の血管に点滴の針が刺さっていた。
ああ、そうか火事の現場近くで倒れて病院へ運び込まれたのか……。治療はしてもらえたようだけど、どうしよう。現金の持ち合わせないよ……。
支払いは来週の月曜日まで待ってもらえるのだろうか、と真剣に悩み始めた時、谷川看護師がカーテンを開けて入ってきた。
「あら、もう意識が回復していたのね。そろそろ点滴が落ち切る頃だと思って、様子を見に来ました。榎木先生から入院の必要はないと指示が出ていますから、意識が戻っているなら、点滴が終ったら帰って良いですよ」
模範的な笑顔と共に業務連絡のように伝えられた内容に、薫は確認せずにはいられなかった。支払を待ってもらえるのかどうかを。
少なくとも月曜日の朝までは、五千円ほどの現金で乗り切らなくてはならないのだ。
「治療費の支払いなんですけど……」
「ああ、それなら霧島さんが全てお支払いになりましたから、心配しなくて良いですよ」
「えっ?」
何故ここで明人の名前が出て来るのか、薫には分からなかった。目の前で倒れた私を心配して、大家の里塚さんが救急車を呼んでくれたんじゃなかったのか?
訳が分からないと思っているのを薫の表情から読み取ったのか、谷川は薫が此処に運び込まれた経緯を教えてくれた。
「貴女は熱中症になっていた所を霧島さんがこの医院に担ぎ込んだの。対処できる症状だったので、榎木先生が治療を担当されました」
「そうだったのですか……」
「そうそう、貴女が目覚めたら、教えてくれって霧島さんに頼まれていたんだったわ。点滴が終るまでもう少し時間がありそうだから、ちょっと待ってもらえる?」
薫が止める間もなく、谷川はカーテンの隙間を通り抜けて病室を出ていってしまった。
この医院にいるの?あの男が。何からか何まで立て続けに起こる不幸は、霧島に会ってからの事だ。彼は疫病神以外の何物でもない。
薫がベッドから降りようとしたところで、明人と聡が谷川に案内されて病室へと入ってきた。
「起きれるようになったのなら、家へ帰ろうか。着替えを持ってきたから、点滴が終ったら着替えると良い」
明人は大きな紙袋を薫の前に差し出した。薫が袋の中を見てみると、手触りの良いワンピースが入っていた。高校を卒業して以来、スカートなんて着た事がないな、と薫は思ったが、服がほとんど燃えてしまった今となっては、贅沢など言ってられなかった。素直にありがたいと感謝する。
「ありがとうございます」
「日も暮れてしまったから、薫さんも取り敢えずは明人の家で今夜は泊ってもらって、明日の朝、今後の事を話し合おう。貴女の住んでいたアパートは火事で焼けてしまったから、泊まる場所が必要だろ?」
聡の提案は薫にとっては――聡の思惑が隠された物であったとしても――とても魅力的に思えた。ただ、ほとんど知らない男性と一つ屋根の下で過ごす事には危惧を覚え、薫は答えを出すのに慎重になっていた。
前回は酔っ払った明人に押し倒されたのだ。のこのこついて行って、今度は寝ぼけた明人に組み敷かれたりしたら、たまったものではない。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という格言があるが、薫は経験にさえ学べない馬鹿になるつもりはなかった。
警戒心も露に明人を見遣る薫に聡は気づいた。どうも明人と一緒に居る事がネックになっているようだなと見当をつけた聡は、打開策を捻りだした。
この騒動を可能な限り穏便に治める為には、何としても薫を明人と傍に引き込む必要があった。
「今日と明日は私も明人の家に泊まる。薫さんには内側から鍵を掛けれる部屋を用意するし、明人が変な事をしないように見張ってあげるから心配しなくていい。野宿するよりは、ずっと良いだろ? 少しだけでも罪滅ぼしをさせてくれないか?」
開けられたベッドを仕切るカーテンの間から見える時計は午後8時を回っていて、病室の窓から見える風景は闇に遮られていた。
友人の所に転がり込む事も薫は考えていたが、週刊誌の記者や芸能レポーターが取材攻勢をかける可能性も考えると、泊まらせてと頼み込むのは躊躇われた。
聡が見張ってくれるなら、何とかなるかもしれない。明人のマネージャーなら、これ以上の揉め事は回避したい所だろう。
「わかりました。お世話になります」
薫は明人と聡に向って頭を下げた。
月曜日になったら、すぐに銀行にお金をおろしに行って、里塚さんに住んでいたアパートに近い物件を斡旋してもらおう、と薫はこの時は楽観的に考えていた。
2013.04.29 初出