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第2話 意に染まない診察

一話の長さが安定しない・・・。

 明人に黒く高そうな車の助手席に放り込まれ、シートベルトを掛けられて、薫は明人と出会った時の回想と言う名の現実逃避から戻ってくる事ができた。

 ああ、こうしてはいられない。予選に出ないと決勝に出れないじゃないか。

 明人が運転席へ回る間に、シートベルトを外して車から逃げ出そうとするが、気が焦り過ぎたのか、シートベルトはすんなりと外れてはくれなかった。

 そうこうしてしいる内に、明人は素早く車を走らせてしまった。


「車を競技場に戻して! 私は一万メートル走に出場しないといけないのよ!」


 薫は必死に明人にお願いするが、明人は涼しい顔をして高速で車を走らせ、器用に車の間を縫うようにハンドルを操った。


「競技会なんて後からいくらでも出場できる。だが、流産したら失われた命は二度と戻っては来ない。とにかく、薫には産婦人科で診察を受けてもらう」

「そんな必要ない。マリア様の処女受胎じゃあるまいし、ヤる事ヤってないのに、子供なんて出来る訳ないでしょうが!!」


 荒っぽい明人の運転に、シートベルトを着けていても、体の芯が左右に揺さぶられた。

 無茶な運転を続けていればいつか事故になる。そうなったら、シートベルトは自分の命を守る命綱になる。

 いつしか薫はシートベルトを外そうとするのを止めていた。

 明人は横目でちらっと薫を見たが、すぐに正面を見据えて更に車のスピードを上げた。


「薫は陸上競技会に出たい一心で嘘をついているんだろ? 診察を受けて貰うまでは、君を帰さないから」


 何なの、この俺様は!

 四の五の言わずに私を車から降ろせ、と薫は言ってやりたかったが、薫が反抗する度に車のスピードを吊り上げていく明人に怖くなって、それ以上何も言えないでいた。

 大通りから脇道に車は入って行く。閑静な住宅地に分け入り、良く整備された道路の角をいくつか曲がると、小野原産婦人科医院と書かれた門扉を車は通りぬけて、医院の緊急搬送口に車は止まった。

 ちょうど医院の入口の裏側にある場所なので、人目はほとんどなかった。

 明人は運転席から降り、薫が座る助手席のドアを開けた。明人に車から出るように促されて、薫は渋々シートベルトを外した。そして、おもむろに陸上競技用のシューズの靴紐を解き始める。


「何をしているんだ? この医院は土足で入っていいはずだ」


 少々苛立った様子で明人は薫の腕を掴んで車から引っ張り出そうとした。薫は伸びてきた手を平手でぴしゃりと叩くと、明人を下から睨み上げて言い聞かせた。


「私が履いている靴は、陸上競技場用のものなんです。靴底の部分には、短いとはいえ金属製のピンがついています。そんなので歩いたら床に傷がついてしまうでしょ! 補修費用を請求されるのは、まっぴら御免です」


 両足からシューズを脱がせて助手席の足元へと揃えて置いた。素足を地面につけて医院の緊急搬送口の自動ドアへと向かう。

 こうなったら、妊娠しているか、していないか、検査で白黒つけてもらおうじゃないの。そして、人の言う事をこれっぼっちも聞かない俺様とは、二度と顔を会わせずに済む様にしてやるんだ!

 開き直って密やかな決意を固めた薫の前に、通路の壁に背を預けていた中肉中背の男性が立ち塞がった。白衣の下に青色の術着を着ていた。

身長は明人と同じぐらいだろうか。女性としては身長が低くもなく高くもない薫からは少し見上げる形になる。

 ぼさぼさの黒い髪の下にある目は、いかにも眠そうで、瞬きを頻繁に繰り返している。数日は剃られていないであろう無精髭が、うっすらと口のまわりに影を作っていた。


「緊急に診て欲しい患者がいると聞いたから待っていたが、遅いぞ。それに彼女のユニフォーム姿は何だ? まるで走っている途中で攫ってきたかのような様子だな。ご丁寧にゼッケンまでつけているし……」


 ぶつくさ明人に愚痴を言う彼は、薫を上から下まで視線を走らして、背後に控えていた落ち着きのある年配の女性看護師に指示を出した。


「その恰好だと、医院の中は冷房がかかっているから体が冷えるな。谷川さん、すまないが、彼女にスリッパと入院患者用のレンタル寝巻きを持って来てくれ」

「かしこまりした」


 谷川はすぐさま廊下の奥へと消えて行った。

 明人は谷川看護師の姿が見えなくなったのを確認してから口を開いた。


「無理を言って申し訳ありません、榎木先輩。遅くなったのは薫の説得に時間が掛かったからです」

「まさか、説得できずに無理矢理連れてきたわけではなかろうな?」

「……」

「図星か」


 榎木はため息を一つ吐き出して、薫の意志を確認するために、白衣のポケットに両手を突っ込んで薫に向き直った。


「私は明人に君が妊娠している可能性があるから診察してくれと依頼されたのだが、君には診察を受ける意志はあるのかな?」

「診察を受けます。そうしないと、帰してもらえそうにないですから」


 薫は嫌々ながらも榎木の問いに答えた。

 妊娠していない事が分かれば、明人は私に興味を失ってくれるはずだと、この時、薫は思い込んでいた。

 寝巻きとスリッパを手にした谷川看護師が薫たちの所へと戻ってくる。薫はその場で寝巻をユニフォームの上から着て、スリッパを履いた。

 谷川から検尿用の紙コップを渡されると、薫は素直に受け取った。


「まず、検尿から検査を始めさせてもらいます。その次に血液検査、体重と身長の計測をさせて頂きます。御手洗いまで案内しますので、私についてきて下さい」


 谷川は先導するために薫の少し先を歩きはじめる。薫は嫌な検査をさっさと終わらせるべく、素直に谷川の後ろをついて行った。



* * * * * * * * * *



 谷川から検査結果が出るのに1時間ほどかかるので、それまでここで待ってくださいと言われて、薫は待合室に案内された。

 そこには明人が長椅子に座って待っていた。薫は明人の座る長椅子とは別の長椅子に座る。

 午前の診療時間が終って、診察待ちの患者がいない待合室。薫は不愉快さを隠しもせず無言で座っていた。明人の方を見ようともしない。

 明人は何か会話の切っ掛けを掴もうと、ちらちら薫の顔を伺い見ていたが、薫は完全無視を決め込んでいた。

 大学生活の掛かった陸上競技会から強制的に連れ出されて、意に染まない検査を受けさせられている。好印象を明人に持てるはずもない。

 早く検査の結果が出ないかな。そしたら、こんな俺様から解放されるのに……。

 薫が心の中でため息を吐きだした時、廊下から小走りに走ってくる足音が聞こえてきた。近づいてきているのか足音は次第に大きくなる。


 廊下の方をふと見やった薫の視界に、やせ形の男性が飛び込んできた。長い間走って来たのか、肩で大きく息をしている。短く切りそろえられたさらさらの黒髪は、所々が汗で濡れていた。

 俯いて頭を下げたまま、体を折って両膝に両手をついて暫く呼吸を落ち着かせていた。

 この人、私と明人とどちらに用事があるのだろうと、薫は目の前に現れた彼を見ていた。

 話せるまでに呼吸が落ち着いてきたのか、彼は地の底から這うような低く震える声を出して明人を下から睨み上げた。


「明人ぉ、事務所に断りなく、何て事をやってくれたんだぁぁ。おかげで大騒ぎになっているんだぞぉ――!」

「すまん、聡。いや、ほら、人の命は地球より重いと言うから、不可抗力だと思って堪えてくれ」


 明人はマネージャーの聡を拝み倒すように手を合わせて頭を下げた。それでも聡の立腹は治まらない。

 持っていたビジネスバッグからタブレット型端末を聡は取り出すと、素早く操作してある動画を呼び出した。そして、明人の目の前に突き付けた。

音声をミュートにしていないせいで、薫にまで動画で喋っているレポーターの声が聞こえてくる。


『今一番注目されている人気俳優、霧島明人に熱愛発覚です。お相手は一万メートル走で国際標準A記録も持つ19歳の女子大生で……』


 耳に入ってくる内容に、薫は驚いて明人のもとに駆け寄り、聡が差し出した動画を食い入るように見つめた。

 一万メートル走で国際標準A記録を持っている女子大学生なんて、ほんの数人だ。これじゃあ名前は伏せられていても、誰だか簡単に分かってしまうじゃないか。

 一筋流れた冷や汗を拭いもせずに、薫は聞き漏らすまいと全神経を耳に集中させた。

 レポーターは事実1割に憶測9割を交えて、センセーショナルな内容に仕立てながら得意げに話し続ける。


 芸能界に全く興味がなかった薫は、そのレポーターのおかげで明人の女性遍歴の数々を知る事ができた。

 ドラマの競演女優とは、ほとんどと言って良いほど交際の噂が流れ、幾つかは不倫疑惑まで持ちあがったらしい。

 好きだった真理さんの結婚に自棄酒飲むぐらい傷心していた明人に、少しでも慰めの言葉をかけてやった自分が馬鹿みたいだ。好きな人に振り向いてもらえないからと言って、他の女性に次々と手を出すのは、如何なものか。

 彼にとっては恋愛なんて人生を楽しむためのスパイスに過ぎないのだろう。薫はそう結論づけた。


『視聴者から提供された動画からも分かるように、霧島さんは彼女を大事に思っている事が分かりますね。ここからも二人の信頼関係の深さが伺えるのではないでしょうか』


 携帯電話で撮影したのか、薫が明人にお姫様抱っこされて運ばれた時の様子が、画面一杯に映し出される。

 画質の荒い動画は薫と明人の細かい表情まで捕えられないはずだ。しかも、私は暴れると落ちると脅されて、怖くなって抵抗を止めたのに、どこをどう見たら、そんな風に見えるのか教えて欲しいものだ、と薫は思った。

 薫はレポーターへの憤りをふつふつと湧き上がらせていた。このタブレット端末が明人の物であったのなら、薫は確実に叩き潰していただろう。

 誰も掴んでなかった特ダネだと、勿体ぶるレポーターに明人も嫌気がさしたのか、タブレッド端末の電源を切った。


「大変な事になっているのは理解した。記者会見を開くのか? それとも、謹慎処分になるのか?」


 こういった騒ぎに、明人は傍目からでも分かるほど慣れていた。

 聡が言い出しそうな事を先回りして聞くあたり、薫を陸上競技場から強引に連れ出した時から、ある程度の覚悟が明人にはできていた。


「それは相手の女性の対応次第だ。私に隠れて私立探偵を雇い、こそこそと誰かを探していたという事は、行きずりの人なんだろう?」


 聡はちらっと薫を見た。薫の出方を探る視線に、薫はますます不愉快になって眉を寄せる。

 事をややこしくするつもりは薫には全くなかった。薫の人生に関わってこなければ、明人が謹慎処分になろうが、記者会見で弁明しなくてはならなくなろうが、薫にはどうでも良かった。


「ええ、行きずりでしたとも。こんな事になるなら、公園で酔っ払って寝転んでいた貴方を助けようなんて思わなければ良かった……。私は週刊誌やパパラッチに情報を売る事はしません。私が霧島明人と無関係だと周知して頂ければ、それで十分です」


 もう、うんざりだ。スポーツ特待生の待遇を喪失しないように打つべき手は、全て打っておかなくてはいけないのに、余計な問題は抱え込みたくない。

 聡が明人の関係者なら、この問題を押し付けてしまえと薫は考えていた。


「お腹に子が宿っていれば、その父親は俺だ。無関係なんて言ってられなくなるぞ」

「ですから、私が妊娠なんてあり得ません!」


 頑として主張を取り下げない明人に、薫はついつい声を荒げてしまう。どこからその自信が来るのか教えて欲しいぐらいだ。


「酔っ払って薫に自宅まで連れ帰ってもらった次の日の朝に、俺が素っ裸でラグの上に寝ていて、辺りに俺の体液が散らばっていたのは、どう説明するんだ?」

「そんなの知りません。私が貴方の家を出た時は、貴方は服を着ていたんですよ。その後の事まで責任を持てるはずないじゃない!」

「薫は俺と関わりたくなくて嘘を言っているんじゃないのか? あの家の玄関ドアはオートロックになっていて、鍵は俺とマネージャーの聡しか持っていない」

「嘘は言ってません!」


 待合場所で激しい口論を展開していると、谷川看護師が厳しい顔をして待合室に怒気を孕んで登場した。息を目一杯吸い込むと、それに見合った大声で明人と薫を一喝した。


「ここをどこだと思っているんですか! 病院では静かにしなさい!」


 午前の診察時間を終えて患者の姿はなかったが、病院で感情の赴くまま口喧嘩するのは、確かにみっともない事であるので二人は項垂れて押し黙った。

 よろしいと言わんばかりに息を鼻から吐きながら満足げに谷川は頷いた。次の瞬間、ころっと表情を変えて患者に向ける労わりの笑顔を見せた。


「立山さん、霧島さん、検査結果が出ましたので榎木先生がお呼びです。診察室へ入って頂けますか?」


 その変わり身の早さに、薫と明人と聡は目を瞬かせ、言われるままに頷いていた。

 さすがベテラン看護師は一味違う。あれだけ自由に感情をコントロールできるなら、女優になれるんじゃないか、と後に聡は明人に感想を漏らした。

 谷川に案内されて診察室の前に来た三人は、そのまま診察室に入ろうとして聡が谷川に入室を止められた。


「部外者は診察室の外でお待ち下さい」


 谷川が聡の目の前に立ち塞がった。笑顔で子供に言い聞かすように優しい声で話しているのだが、目が笑っていない所が怖い。


「いや、私は部外者じゃない。明人のマネージャーだから同席しても差し支えないんじゃないか?」


 聡が即座に反論すると、一瞬だけ谷川の片眉が跳ね上がり、眼光が僅かに険しさを増した。谷川は丁寧な態度を崩さずに、聡に分かり切った事を意地悪く問いかけた。


「失礼ですが、貴方は立山さんの保護者か親権者の方ですか?」

「いいえ、違います」

「では、貴方は部外者ですね。患者のプライバシー保護の為にご協力ください」


 一歩も引かない谷川の様子に、聡は音を上げて後ずさり半歩だけ診察室から外に出た。すかさず谷川が診察室の引き戸のドアを、聡の目と鼻の先でぴしゃりと閉めた。

 谷川に勧められるまま、薫と明人は丸い背凭れのない回転イスに座った。

それを確認した榎木はカルテに張り付けられた検査結果を見ながら、薫と明人に検査結果を告げた。


「検査の結果、立山さんの妊娠は否定された」


 榎木の言葉に、ほら見ろと言わんばかりに、薫が明人を横目で睨みつけた。

 明人は納得していない様子で右手の拳を顎に当てて考え込んでいたが、やがて薫にとってはとんでもない事を口走った。


「榎木先輩、薫と俺が性的な交渉を持ったかどうかは、調べれば分かりますか?」


 薫は目を剥いた。何度同じ事を言わせれば気が済むんだと、明人のしつこさに頭が痛くなりそうだった。

 我慢できずに薫はイスから立ち上がり、明人を威嚇するように人差し指を突き付けて言い放った。


「貴方とはヤってません。絶対に、ヤってない! 何度も同じ事を言わせないで!」


 声の大きさを非難するような谷川の目が向けられたのを感じて、薫は力なく指を下げてすとんと再びイスに座った。

 思えば、他人の目がある中で、なんて事を宣言しているんだ。恥ずかしい。こうなったのも、全部この男のせいだと薫は心の中で責任転換をしていた。

 薫が否定しているのに、尚も検査と診察を望む明人を見て、呆れたように榎木は長いため息を吐きだし、明人に説明を始めた。


「問題が起こって数日の間ならともかく、もう三週間も経っているんだろ? 神様でもない限り、本当の事は分からんさ。まあ、本人が否定しているんだから、ヤってないんだろう」

「しかし……」


 尚も言い募る明人を榎木は片手をあげて制すると、今度は薫に向って話し始めた。その瞳には微かに同情の念が込められているように薫は感じた。


「立山さん、できの悪い後輩が迷惑を掛けてしまった様で申し訳ない。こいつ、感触も色も匂いも味もするリアリティに溢れすぎた夢を見るんだよ。だから、時々、夢と現実を区別をつけられなくて暴走してしまうんだ。大方、女を抱いた夢でも見たんだろう。どうか許してやって欲しい」


 榎木は座ったままだが、薫に深く頭を下げた。騒ぎの元を作った明人ではなく、お医者様に頭を下げられて薫は戸惑った。

 この人が謝る事なんてないのに――。


「そんな。頭を上げて下さい。明人さんの誤解が解ければそれで良いんです」

「俺が裸で寝ていたのは、どうしてなんだ?」


 納得がいかない様子で明人が薫と榎木との会話に割って入ってきた。薫は明人をじと目で見やって、ばっさりと言い捨てた。


「ご自分で脱いだんじゃないですか? あの日は蒸し暑くて、家の中にいても汗ばむぐらいでしたから」


 薫の榎木に対する態度と、明人に対する態度の落差があまりにも大きい事に榎木の傍に控えていた谷川は肩を震わして必死に笑いを堪えていた。

 今を時めくイケメン俳優が小娘に振られる場面なんて滅多に見られる物じゃないわね。この子、霧島明人に集ってくるファンの一人かとも思っていたけど、どうも違うようね。どうしてなかなか芯をしっかり持った子のようじゃないの。

 そう谷川に前向きに評価されている事も知らずに、薫はこれ以上明人と関わらないようにと頭の中で思索を巡らし始めていた。

 榎木から検査結果の説明が終わったので、薫と明人が診察室を出ると、廊下に聡が待ち構えていた。


「で、どうだったんだ?」


 早速、結果報告を求める聡に明人はばつが悪そうに答えた。これだけ人を巻き込んでおいて、勘違いだったでは済まされない。


「……。薫は妊娠していない。俺の勘違いだったようだ……」


 聡は張り詰めた表情をほぐして盛大にため息をつく。最悪の事態だけは免れたと聡が思っているのが、明人には分かってしまった。

 一方、薫は貸出されていた寝巻きを畳んで谷川に返却していた。今、薫にはピンのついた陸上競技用の靴しか持ち合わせがない。しかも、それは明人の車の中にある。

 薫が再び陸上競技用の靴を買う費用と、明人の車を開けてもらうまで明人と一緒にいなくてはならない不愉快さを天秤にかけた結果、後者が前者を上回った。

 検査結果も出たのだから、もう私には用はないはずだ。さっさと逃亡するに限る。


「私の妊娠は勘違いと分かってもらえたみたいですから、もう帰ります。ちゃんと私と霧島さんとは無関係で、お付き合いなんてしてないとマスコミに訂正しておいてください」


 一気に聡に対してまくし立てると、薫はスリッパを谷川の前に置いたまま、裸足で病院の緊急搬送口を通り抜けて外へと走り出した。


「あ、おいっ! 待て!」


 慌てて明人が追いかけるが、鍛え上げられたアスリートの脚の速さに、ジムで鍛えるのがせいぜいの芸能人の脚がかなうはずもない。

 住宅地のよく整備された道路の角を五回ほど曲がるうちに、明人は薫の姿を見失った。

 空気を取り込もうとして忙しなく活動する肺に合わせて呼吸は浅く短い。病院のクーラーが効いている環境では丁度良かったはずの薄手のジャケットが暑苦しく感じられて、堪らず脱いだ。


「なんで、あんなに早く走れるんだ?」


明人の疑問に答える者は誰もいなかった。


2013.04.22 初出

2013.04.23 脱字修正

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