第1話 最低な出会い
薫の回想です。
薫は日課である約1時間の走り込みを、近所にある大きな公園で行っていた。
この公園は広大な敷地の中にランニング用の周回コースが整備されていて、そのコースに沿って外灯も設けられていたので、夜間でも比較的安全に走れる場所となっていた。
自主練習も終盤に差し掛かった頃、空気がじっとりと湿ってきたように薫は肌で感じた。
これは雨が降る前兆だ。
天気予報でも夜半から下り坂になると言っていたから、もう少し時間が経てば振り出すのだろう。自分に課した15キロメートルの走り込みのノルマは達成している。早めに切り上げて家に戻ろう。
薫は素早く決断をしてランニングの周回コースを外れ、公園を横切る形で自宅までの近道をしようとした。
普段は通らない公園の芝生の上に、大の字になって寝転がっている男性が、ふと薫の目に入った。
左手に持っている大きな白い紙袋には、きらびやかな金色で描かれた「寿」の文字。黒色のジャケットとスラックスのフォーマルな装いの割には、白いシャツの襟元がだらしなく開かれていた。
黒いサングラスをかけているので、寝ているのか起きているのか分からなかった。薫が近くを走って通り過ぎても無反応なままだ。
その様子が気になって、薫は走るのを止めて男の元へと引き返した。
雨が降りそうになっている。声もかけずに通り過ぎて、雨に打たれて風邪でもひかれたら何だか後味が悪いじゃないか。
意識がないなら警官でも呼んでくるかと思いながら、薫は男の横に膝をつき、肩を叩いて声を掛けてやった。
「こんな所で寝ていると風邪をひきますよ。もうすぐ雨も降ってきそうですし、お家に帰られた方がいいんじゃないですか?」
「家はすぐそこだから、這ってでも帰る――。うーん」
明人が意識が朦朧とする中で呻きながら吐き出した息には、濃厚なアルコールの匂いが混じっていた。
酔っ払いか。
薫は不快なアルコールの匂いに顔を顰める。遠い場所に彼の家があるようなら、迷わず警察にこの男を引き渡して後の処理をお任せするところだが、家が近いなら何とか私が支える形で彼に歩いてもらい、家まで送り届けるのが良いだろうと薫は思った。
『情けは人の為にならず。まわりまわって己が為』
人に善行をなせば、いつか自分に巡り巡って返ってくるはず。
薫が幼い時から両親に繰り返し言い聞かされた教え。『三つ子の魂百まで』とは良く言ったもので、薫は自然と酔っ払い男に助けの手を差し伸べる決断していた。
「歩けないのでしたら、私が支えますから立って下さい」
明人の背中に腕を回して上体を起こさせた。明人の左腕を薫の肩へ回させ、右手で背中側のベルト部分を掴んで引き上げ、明人をどうにか立ち上がらせた。
お、重い……。
明人は酔っているから足元がおぼつかない状態だ。薫はそんな明人に盛大に寄りかかられて、思わずよろけそうになった。何とか踏ん張って、明人を半ば引きずるようにして一歩ずつ前へ歩いていった。
「ほら、私に寄りかからないで、しっかり自分の足で立って歩いて下さい。お家が近いんでしょう? 頑張って下さい」
励ます薫の声にも明人は曖昧な返事を返すだけで、全く頼りなかった。明人が時折出す指示通りに道の角を曲がり、薫は夜道を進んでいく。
その間、明人はぽつりぽつりと自分の酔いの原因を語り始めた。
「今日は親友の結婚式で……、新郎も新婦も両方とも親友だったんだ。花嫁姿の真理ちゃん綺麗だったな……」
「それはそれは、おめでとうございます」
お祝いの雰囲気に呑まれて酒を浴びる様に飲んだから、一人では歩けないほどに酔っているのかと薫は思った。それでも、淡々と明人の重みに耐えて歩を進めた。
「真理ちゃんはね、俺の初恋の人なんだ。でも彼女は俺の親友と相思相愛で、俺の割り込む余地なんてなかったよ……」
「告白はしたのですか?」
「できるわけないじゃないか。告白すれば、俺は親友も真理ちゃんの親友という立場も失ってしまう……。そんな事になるぐらいなら、何も告げずに親友でいる事を選ぶよ、俺は」
女々しい奴め。
男ならガツンと玉砕覚悟で告白でも何でもして、もう一度友情を結べはいい話じゃないのかと薫は思ったが、どうせ一度きりの出会いだから地雷になりそうな事には触れずにおくのが無難だと判断した。
「今日の結婚式で幸せそうな二人を見たら、やりきれなくなって、何もかも忘れたくて酒を浴びる様に飲んだんだ。おかげでこのザマだよ……」
「はいはい。分かりましたから、しっかり歩いて下さいね。ただでさえ貴方は重いんですから」
薫が本当にこの男の自宅に辿りつけるのだろうかと不安に感じ始めた頃、ようやく明人の自宅らしい家が見えてきた。
あたりはとっぷりと夜闇に包まれ、月明かりも雲に遮られて暗く、玄関の表札も目を凝らして見なければ見えないほどであった。
酔っ払いの言う事は信用してはならない。トラブルを避ける為に、薫は明人に玄関の鍵を開けてもらう前に明人に確認した。
「貴方は霧島さんなんですか? この家がご自宅で間違いないですね?」
「ああ、俺の家だよ。待ってくれ。今、鍵を開けるから……」
明人はスラックスのポケットから鍵を取り出すと、ドアノブにある鍵穴へと鍵を差し込んだ。カチリと静かな音がして鍵が解かれた。
玄関に放置して帰ろうかという考えが薫の頭の中を一瞬だけ過ったが、思い直して居間までは男を運ぶ事にした。
玄関なんかで眠りこけたら、翌朝、体のどこかが痛くなっているはずだ。せめてソファーまでは運んでやる必要があるだろう。
一旦、男を玄関に座らせて、上等そうな黒の革靴を脱がせる。それからもう一度、男を立たせて廊下を歩かせた。
居間らしき部屋を見つけてドアを開ける。ふかふかと柔らかそうなラグが床に敷かれ、その端に長いソファーが鎮座していた。
よし、あのソファーに彼を寝かせよう。そう薫は決めて、明人の重みに疲れて震え始めた腕を叱咤激励した。
やっとの事で明人をソファーへと下して、薫は肩で息をした。
ここまでやったんだから、もう帰っても良いよね?
薫は自分で自分を褒めてやりたい気分だった。
「霧島さん、もうご自宅に着きましたから、私は帰らせて頂きますね」
帰る前に薫は明人に声を掛けてみたが、明人は聞こえているのか聞こえていないのか返事をしなかった。そればかりか薫に要求を出す始末だ。
「水、水が欲しい……」
焦点の合わない、どこか夢うつつな目でそう訴えられて、薫は諦めたようにため息を吐いた。
今夜はやけに蒸し暑い。水分はとっておいた方がいいだろう。脱水症状を起こされて救急車を呼ぶ事になってはかなわない。
「分かりました。水だけ持ってきます。そしたら私は帰りますからね」
居間を出て、キッチンを探し、食器棚からグラスを一つ取った。
人様の家でキッチンをごそごそ漁っていたら、家人が起きてきて泥棒と間違われるんじゃないだろうかと、ひやひやしていたが誰も人が来る気配はなかった。
もしかして、彼はこの広そうな家に、たった一人で住んでいるのだろうか?
無造作に水道の水をグラスに注いで居間へと取って返した。居間に戻ってみると、明人はソファーに寝そべって泣いていた。
「好きだったんだ。真理ちゃん、忘れられないんだ。どうして俺の親友なんか好きになったんだよ。好きになった人が他の奴なら、俺も果敢にアプローチして、好きだって言えたのに……」
薫はソファーの傍にあったサイドテーブルに水の入ったグラスを置いた。膝をついて目の高さを明人に合わる。
宥める様に明人の頭を撫でて、実家で弟達にするように、うっかり慰めの言葉を掛けてしまった。
「好きだった事、忘れなくて良いんじゃないですか? それだけ人を好きになれた事を誇ればいいと、私は思いますよ。人を好きになるって素晴らしい事なんですから」
酔っているせいで明人の目の焦点は合っておらず、薫の言葉をぼーっと聞いていた。涙に濡れた目を明人は薫に向ける。
ソファーから身を乗り出すと、明人は薫の上にどさりと落ちてきた。
「ふげっ」
突然落ちてきた重みに押し潰されて、薫は奇妙な声を上げた。明人は薫をラグの上で強くかき抱いたまま、溢れんばかりの想いを告げていた。薫ではなく、真理に――。
「真理ちゃん、好きなんだ。武を見ないで俺だけを見てくれ。俺の告白が許せなくても、受け入れられなくても、俺を嫌いにならないで。お願いだから……」
息ができないほど強く抱き締められて、耳元で熱く告白されて、薫は混乱に陥りながらも、腹の底から怒りがこみ上げてきていた。
私を真理さんの代わりにするんじゃない! この酔っ払いめ!
湧き上がった怒りが混乱する思考を凌駕した。そのおかげで大人の男に組み敷かれているという状況下にも関わらず、薫は比較的冷静でいられた。
どうにかしてこの状況を抜けださないと、と薫が思ったところで急に明人の腕の力がなくなった。明人の重みがそっくりそのまま薫の上に重しのように乗りかかる。
耳元で聞こえる寝息に、明人が眠ったと薫には分かった。
「えっ? 寝てしまったんですか? 霧島さん、起きて下さい。私の上からどいて下さい!」
薫が明人に話しかけても、腕を叩いてみても、明人が起きる兆しは全く見られなかった。
仕方なく、身を捩って明人の胸に手をついて体を少しずつ押し上げて慎重に体をずらしていった。完全に明人の体の下から抜け出した頃には、薫はぐったりと疲れ切ってしまっていた。
薫は自主練習中だったから、汗をかいても大丈夫なジャージにTシャツという服装だから良かったものの、普段の服装ならべっとりと肌に布地が張り付いて相当に気持ち悪い思いをしただろう。それほどに冷や汗と嫌な汗を含めた大量の汗をかいていた。
季節は6月頭。蒸し暑い気候だ。夜といっても昼間の晴天下の太陽光に家が温められて室内の温度は相当に蒸し暑かった。
体格の良い大人の体の下から抜け出すという重労働を私にさせて、一万メートル走るのに必要な筋肉以外の筋肉がついたら、どうしてくれるんだ。無駄な筋肉は走る邪魔にしかならない。
薫は明日筋肉痛になりそうな手足を擦りながら、そう思った。一言言ってやりたい気持ちはあったが、明人は深く眠っていて目を覚ます気配はない。
電話の傍に置いてあったメモとペンを借りて、薫は明人へのメッセージを書き殴り、サイドテーブルに置いた。
『マリさんと間違えて告白するなんて、最低ですね。もう二度とお酒は飲まない方が身のためですよ』
乱れたラグの上に俯せで眠っている明人を振り返りもせずに、薫は玄関から家の外へ出た。闇空を見上げると玄関の灯りに照らされて、雨がポツポツと降り始めているのが見えた。
傘なんて持って来ていない。これは急いで帰らないと。
薫は帰り道を最速で走り抜けるべく駆け出した。
2013.04.15 初出