表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/17

第10話 暖簾に腕押し

長い間、お待たせして申し訳ありまんでした。

お盆休みでようやく書く時間が取れたので、短いですが更新します。

 夕食が準備できた事を知らせるために、薫は躊躇いがちに明人の部屋のドアをノックした。


「夕食ができたので、降りてきてください」

「すぐに降りる」


 明人の返事を確認してから、薫は明人の部屋の前から離れた。

 時々、明人は台本読みに集中し過ぎて、周りの声が耳に入らない事がある。そういった時は、何度も声をかけないと明人が気づいてくれない事を薫は学習していた。

 台所に戻って、薫は冷蔵庫の中から麦茶を取り出した。氷をグラスに入れずに、冷やした麦茶を注いだ。グラスの中に流れゆく麦茶の流れを見ながら、薫は思った。

 この取引、早まったかもしれない。


 明人が一癖ある人物であるのは、薫も再会した時に分かってはいた。しかし、更に二癖も三癖もあろうとは、誰が想像できただろうか?

 同居が始まってから、明人は何かにつけて薫に婚約者としての立ち振る舞いを求めてくる。

 偽装婚約だと周りに気づかせない為には必要な事なのだろうけど、陸上と勉強とアルバイトに明け暮れていた薫にとっては、ハードルが高すぎた。

 実家ではテレビのチャンネル権争いで弟達と喧嘩を繰り返していたような恋愛経験値ゼロの私が、いきなり百戦錬磨の女たらしと、演技だと言っても、人前でイチャイチャするなんて、どんな無理ゲーですか!

 思わず出そうになったため息を薫はぐっと飲み込んだ。

 だめだめ。ため息を出すと幸せが逃げていくんだっけ。

 気を取り直して薫は運ぶためにお盆の上に麦茶の入ったグラスを並べ始めた。



* * * * * * * * * *



 テーブルに冷たい麦茶を並べ終わった頃に、明人は食事の席に着いた。聡は既に出汁の旨味が効いた肉じゃがに舌鼓を打っていた。


「こんなに美味い肉じゃが食ったのは久しぶりだよ。この料理の腕前なら、いつでもお嫁に行けるんじゃないか?」


 美味しさは正義だ。幸せそうに綻ぶ聡の顔が、そう物語っている。

 薫が普段使う食費の3倍分の金額を予算として明人から手渡されて、薫は奮発して牛肉を使った料理を一品作った。安い鶏肉と豚肉しか東京に出てから使ったことがなかったが、美味しくできたようで良かったと、薫は胸をなで下ろした。


「薫の食事の量が俺達に比べると随分と少ないようだが……、あれだけの食費では足りなかったのか?」


 薫の手元にある食事と目の前に置かれている食事を見比べて、明人は更に食費の予算を追加しようと席を立とうとした。


「ちがいます! 頂いた食費は十分すぎるほどです。カロリー計算と栄養を考えると、これ位の量が私の最適な食事量になるんです!」


 勘違いしている明人を薫は慌てて引き止めた。

 これ以上、食費を追加されても、庶民の薫には節約癖がついてしまっているので、予算を余らせてしまう自信があった。

 他人のお金は可能な限り預からないのに限る。何かあった場合には、弁償できないからだ。


「薫はもう少し太っても良いんじゃないか?痩せている方が綺麗だという思い込みが女性にはあるようだが、俺は適度に丸みを帯びた柔らかい体の方が好みだ」


 明人が何気なく言った言葉が、薫の箸の動きを止めた。

 この男は自分を中心に世界が回っているとでも思っているんだろうか? 学費を出しているからと言って、私の全てが自由にできると思っているんじゃないでしょうね? ここは、一発ガツンと言ってやらないと。

 薫は箸を置くと、明人に凍えるような冷たい微笑みを向けた。顔は確かに笑みを浮かべているが、目が全く笑っていない。

 もしも、薫の弟がこの場にいたら、黙って後ずさりしながら部屋を出て行った事だろう。薫が怒り出す前兆なのだから。


「私は確かに貴方と婚約偽装の取引をしたけど、人生まで売り渡した覚えはありません。長距離を走るのに必要な体型を自分の意志で維持している事をとやかく言われたくない」


 薫の雰囲気が変わったのを敏感に察知した聡は、二人の間で視線を落ち着きなく往復させていたが、明人はどこ吹く風でジャガイモを口に運んでいた。

 もぐもぐと慌てる事無く口の中の物を咀嚼し、飲み込んでから明人は口を開いた。


「大学の学費は俺が出したんだし、特待生でもなくなったのだから、長距離走を続ける必要もない。陸上など辞めてしまって、普通の女子大生生活を送っても良いんじゃないか?」


 薫は俯いてテーブルの上に置いていた掌を握り締めた。

 大学進学を半ば諦めかけていた薫にスポーツ特待生の道を開いてくれた重田コーチ、予選の出場枠から漏れた陸上部の仲間の為にも、薫はこのままでは終われなかった。

 失態挽回の機会は、9月に開催されるインカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)だ。それに向けて、薫は着々と準備を進めていた。

 不本意な同居生活を強いられるのも、明人が私の言う事をちっとも取り合ってくれずに、陸上競技場から攫って行ったのが原因なんだ。これ以上、明人に邪魔されて堪るものか。

 薫は顔を上げて明人を強い意志を感じさせる眼差しで見据えた。そして、断固たる口調で宣言した。


「陸上は辞めません」

「どうして?」

「私が好きで続けているんです。貴方には関係ありません」


 理由を説明してしも、明人は理解してくれないだろうと薫は思っていたので、突き放した言い方になってしまった。

 剣呑な空気が薫の周囲に立ちこめた。薫は精一杯の威嚇を明人にしているつもりだが、明人には懐かない無力で可愛い子猫が毛を逆立てている位にしか映ってなかった。


「薫は、不器用すぎるな。要領よく立ち回って、時々は力を抜きながら生きていかないと、気を張り詰めすぎて、いつかパンクするぞ。あと、仮初でも俺は婚約者なのだから、薫のする事は俺にとっては大いに関係がある」


 冷奴にポン酢をかけた明人は、薫の威嚇を気にすることなく食事を続けていた。

 そうですか、そうですか。婚約者という立場で私の生活に干渉する気ですか。この俺様は、自分の思い通りにならないと気が済まない性格なの?

 『のれんに腕押し』『糠に釘』。全く堪えていない明人の様子に、薫の怒りはふつふつと沸き上がっていった。

 薫の怒りの臨界点突破が近い事を感じた聡は、話題を変えてその場の雰囲気を変えようとした。


「よく食事に豆腐や大豆の煮物や納豆が出てくるけど、薫さんは大豆が好きなのかな?夕食を頻繁に御馳走になっているだけでは何だか悪いなと思っていたんだ。美味しい豆腐を作っている店を知っているから、今度、買って来ようか?」


 聡から声を掛けられて、薫の意識は明人から離れた。

 危なかった。聡さんがいるのに怒鳴りそうになるところだった。

 薫は冷静さを取り戻す為に深呼吸をした。


「それでは、お言葉に甘えて……。豆乳を買ってきて貰えませんか?」

「どうして豆乳なんだ?」


 聡は不思議そうに薫を見た。豆乳から豆腐でも作るのだろうかと首を捻った。それなら、始めから豆腐を買った方が良いはずだ。


「美味しい豆腐を作る所は、濃い豆乳を使っています。大豆には鉄分が豊富に含まれているんです。貧血にならない為にも、女子選手は鉄分を可能な限り摂取しないといけません。豆乳なら食事以外でも飲んで鉄分を取れるので、豆乳の方が良いんです」


 夏は汗を大量にかくことで、体内の様々なミネラルが失われていく。塩分もそうだが、鉄分も同様であった。

 しかも、女性は鉄分を体内に貯めにくい体になっている。貧血と熱中症にならずに夏の練習を乗り切る事は女子アスリートにとっては重要な課題だ。

 練習もそうだが、食事の内容も生活も細部に渡って注意を払っていかなければ、トップアスリートとしての能力を維持できない。

 実際、去年の薫の不調は貧血からくるものであった。それだけに薫は鉄分の摂取には人一倍注意を払っていた。

 高濃度の豆乳が入手できるかもしれないという期待に、明人へ向けていた怒りは、どこかへとすっ飛んでしまった。


「……単純だな」


 明人が聡と薫のやり取りを見て、ぼそっと呟いたが、幸いな事に薫の耳には届かなかった。


2013.08.15 初出

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ