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第9話 役者の資質

長い間投稿できなくて、すいませんでした。

ゆっくりでも更新は続けていきたいと思いますので、気長にお付き合い頂けるとありがたいです。

「ただいま」


 自宅の玄関を開けると、出汁の美味しそうな香りが明人の鼻腔をくすぐった。台所の方から野菜を刻む規則正しい音が聞こえる。

 薫が明人と同居するようになってから5日、誰かが帰りを待っていてくれる家の温かさを明人は心地よく感じていた。

 明人に続いて玄関へと入ってきたマネージャーの聡が、夕食の匂いをかぎ取るためか鼻をひくひくと動かした。


「今日の夕食は何だろうな? 楽しみだなあ」


 以前は打合せ等で明人の自宅に上がる事はあっても、用件が終ったらすぐに帰っていた聡だったが、今は薫の作る食事が目当てなのか長居をする事が多くなった。

 薫は二人分も三人分も料理する手間はそんなに変わらないと言って、快く食事の用意してくれるので、聡もついつい甘えている。


「最近、俺の家で飯食って帰るのが習慣になってないか?」

「薫さんは、ここでの生活に慣れていないだろ? 様子見も兼ねているんだよ。夕食の御相伴に預かるのが目的じゃないぞ」


 明人の指摘に聡は理由を取ってつけた。

 薫が明人の家で食事を作るようになってから、コンビニ弁当で食事を済ませる事は無くなった。塩分も脂肪分も少なく、野菜がたっぷり取れる温かい食事は、確実に明人と聡の胃袋を掴んでいた。

 風味豊かな醤油の匂いに引き寄せられるように、明人は台所へと向かう。明人がドアを開けると、薫がようやく明人の帰宅に気づいたのか、お玉を片手に振り返った。


「あ、お帰りなさい。食事ができるまで、もう少し時間が掛かりそうなので待って下さい。食事の用意ができたら呼びますから」

 すぐに鍋へと視線を戻そうとする薫に、明人は何故か面白くなく感じた。

 俺よりも料理の方が大事なのか?帰宅を出迎えて暮れたって良いと思うのだが……。ちょっと、からかってみてやるか。

 悪戯心がむくむくと頭をもたげてきた明人は、気配を消して薫の背後に立った。薫はそれに気づくことなく鍋をかき混ぜて、小皿に煮汁を取って味見をしていた。


「仮にも婚約者なのだから、婚約者らしく振る舞う癖をつけておかないと、嘘だってばれてしまうよ」


 耳元で囁かれた薫は驚いて、あやうく小皿を取りこぼしそうになった。背後から明人が手を伸ばして小皿を右手で受け止めた。小皿はコンロ横にある水の溜またシンクへと投げ入れられた。


「霧島さん、ち、近いです。調理の邪魔になるので、あっちへ行ってもらえませんか?」


 薫は右手で背後に立っている明人の胸板を押し、少しでも明人との距離を取ろうとした。しかし、明人の電磁調理器コンロの間に挟まれて薫の試みは失敗に終わった。

 あまり異性との関わり合いが薄い生活をしてきたのか、薫の顔は赤く、明らかに狼狽えている。

 薫の意識が今は自分に集中しているのを感じて、明人は表情には出さないが嬉しく思った。


「『霧島さん』じゃなくて、『明人』と呼び捨てにしないと駄目だ。あまりにも他人行儀すぎると、婚約偽装を疑われるぞ。ほら、練習。『明人』と言ってみて」

「後で練習しますから。今は調理に専念させてください。もう少し、みりんを足さないと美味しくない」


 調理を口実に、明人のからかい半分、面白半分の演技指導から薫の逃げる姿勢が透けて見える。

 本当によく俺から逃げようとするからな、この小鹿は。

 二人きりになって明人が構ってやろうとする度に敏感に気配を察知して、自主練習の時間だから、家庭教師のアルバイトに行く時間だから、レポートを仕上げないと、等と様々な理由をつけて明人の目の前からいなくなってしまう。

 俺との出会いも再会も薫にとっては良い印象はないはずだ。だが、同じ秘密を共有して、同じ屋根の下で眠り、同じ食事をしているというのに、少しは打ち解けてくれたって良いんじゃないか?


「婚約者の振りが必要になったら、ちゃんとそう振舞いますから、部外者の目がない時ぐらい自然体で良いんじゃないですか?」


 明人は薫の腹の上で腕を交差させて華奢な体を腕の中に囲い込む。体が密着しているのが嫌なのか、薫は手で明人の腕を掴んで引きはがそうとするが、力の差は歴然としていて薫を捕える囲いが破れる事は無かった。


「ほら、逃げようとしないで。普段できていない事がイザという時にできるわけない。普段から慣れておくことが大事なんだよ。『明人』でも『アッキー』でも良いから、呼び慣れておかないと必要な時に『霧島さん』という呼び方が出てきてしまうぞ」


 薫の言い分に呆れて明人はため息を落とした。薫の耳元で明人は喋っていたので、図らずもそのため息は薫の耳に息を吹き付ける形になってしまった。

 薫の体が一瞬だけ硬直し、肩がぴくっと跳ね上がった。

 へえ、薫は耳が弱いのか。薫は悟られないように必死に隠そうとしているようだが、もう遅い。既にバレている。

 いつまで経っても緩まない拘束に、薫は諦めて明人が望む呼び方を口にした。調理をしたいなら明人の要求を叶えるのが手っ取り早い方法だという計算も働いていた。


「明人……さん、お願いですから離して下さい」

「さん、と付けた時点でアウトだ」

「明人、明人、明人。これで良いですか?」

「棒読みに不満はあるが、呼び方は及第点としておこう」


 薫はこれで明人の腕の中から解放されると思い込んでいたが、暫く経っても明人の囲いは解かれない。更に明人は薫の右肩に顎を乗せくる始末だ。

 明人の体温は薫の体温よりも高い。正直、薫にとっては暑苦しい。纏わりつかれれば自由に動けなくなって、鬱陶しい事この上ない。

「あの? 私は調理を続けたいんですが……」


 遠慮がちに薫が離せと明人に促しても、当の本人は涼しい顔で答えた。


「調理はこのままでもできる。婚約者なら抱きしめられる事にも慣れておかないとね。できる事なら、俺の帰宅を出迎えてくれて、『お帰りなさい、明人。ご飯にします? お風呂にします? それとも、ア・タ・シ?』と言ってくれると――」


 視界の片隅で薫がお玉の持ち方を変えたのを明人は捕えた。嫌な予感がして一歩後ろへ飛びのく。

 次の瞬間、明人がいた空間をお玉が凄い勢いで横切っていった。


「私は一般人なんですよ! そんなメロドラマみたいな台詞、言えるわけないでしょうが!!」


薫は顔を真っ赤にして、目を潤ませていた。怒りによるものなのか、恥ずかしさによるものなのか、お玉を握り締めて、その身を細かく震わせていた。

 これは、流石にからかい過ぎたか。


「ごめん、もう薫の調理の邪魔はしないから機嫌直してよ。大人しく食事ができるのを待っているから」


 明人は反省して薫を宥めようとしたが、薫は無言のまま明人に背を向けた。



 明人がリビングに入ろうとすると、台所に様子を見に行こうとしていた聡と鉢合わせした。


「さっき、薫ちゃんが怒ったような声を出していたけど、何かやらかしたのか?」

「少しからかい過ぎた」

「おいおい、明日から撮影に入るのに、協力関係にひびが入るような事は控えてくれよ。薫ちゃんの立場が弱いからと言って、無茶を言い過ぎると『窮鼠猫を噛む』ぞ」


 そんな事は明人にも分かっている。

 「おかえりなさい」と薫から言葉をかけられただけでは満足できなかった。調理の邪魔になるとは知りつつも、薫に構って、薫の意識をこちらへ向けたかった。

 これでは、好きな子の興味を引きたくて、ちょっかいかけている小学生と何も変わらない。

 おかしい。同じドラマで共演した女優を食事や飲みに誘うのは、もっとスマートにできていた。

 未成年とはいえ、女性である薫に彼女達と同じようにスマートに接する事が何故できないのか。明人は答えを持っていなかった。


「食事ができるまで、時間が掛かると薫が言っていたから、それまで明日からのロケの荷造りをしておく。食事ができたら呼んでくれ」


 聡から小言が降りかかってくる前に、明人は階段を上がって自室へと逃げ込んだ。


* * * * * * * * * *



 明人が立ち去ってから、暫く後に聡が台所に入ってきた。


「いつも夕食を御馳走になってばっかりで申し訳ないから、何か手伝わせてもらえないかな。盛り付けか配膳ぐらいなら役に立てると思うけど」


 聡の申し出は薫にはありがたかった。

 明人が薫の調理の邪魔をしたせいで、薫が立てていた段取りが狂ってしまっていた。

 まだ、食器洗い機の中に入った食器を食器棚へ移せていなかったし、既に出来上がっている二品のおかずも盛り付けも済んでいなかった。


「食器洗い機の中にある食器を拭いて、食器棚へ納めてもらえませんか?」

「お安い御用で」


 申し訳なさそうに薫が頼むと、聡は布巾を受け取って食器洗い機の蓋を開けた。大きな皿から順番に取り出して手際よく食器についた水滴をふき取っていく。


「器用ですね」


 慣れているような聡の手つきを見て、薫が素直に感想を零すと聡は苦笑いを浮かべた。


「母に随分と手伝わされたから上手いよ。食器拭きと皿洗いと盛り付けだけは得意なんだ。料理の方は味付けのさじ加減が分からなくて、全然上達しなかったけどね」


 全然手伝ってくれなかった明人とは、大違いだ。これも親の教育のなせる業か。明人の両親の顔が見てみたいと、薫はふと思った。



 聡が手伝ってくれたおかげで、予想していたよりも早く食事の準備を整える事ができた。

 明人を呼ぶために薫が台所から廊下へ出ようとすると、聡が呼び止めた。


「映画の撮影が始まる前に話しておきたい事がある」


 何だろうと薫は訝しげに思ったが、聡が勧めるままにリビングのソファーに座った。


「明人は明日からロケに頻繁に出掛ける様になって、あまり顔を合わせる事も少なくなるけど、撮影期間中、君には気を付けて欲しい事があるんだ」

「気を付けるって、何を?」


 事ある毎に薫に面白半分に構ってくる明人のいじり癖に関してなのだろうか? それとも、門限を過ぎていないのに家庭教師のアルバイト先にまで迎えに来ようとする過保護さについてなのだろうか? はたまた、自主練習の走り込みに出かけようとすると引き止めようとする強引さについてなのだろうか?

 正直、心当たりが多すぎて、何について気を付ければ良いのか、薫は判断がつかなかった。

 聡は、膝の上で組んだ手の指を落ち着きなく動かして、どう説明しようかと迷っていた。


「俳優に必要な才能の一つに、演じる人物になり切る、というのがある。誰でも、自我を持ち合わせているから、役者の個性を完璧に消してしまってまで役を演じる事は難しいんだが、明人にはそれができるんだ」

「さすが、主演男優賞をもらっただけの事はありますね」


 のほほんと危機感もなく答えを返す薫は、まだ問題の本質が見えていなかった。聡は薫に理解してもらえるように、更に言葉を重ねていく。


「それで、役者には二通りあって、ロケが終ったらすぐに役と自分との切り離しができるタイプの人と、役を引きずってしまうタイプの人がいてね。性質の悪い事に、明人は後者なんだ……」

「でも、それはお仕事での話ですよね? 私が気を付ける事ではないように思うのですが?」


 首を傾げ、眉を寄せて考えている薫は、聡が言っている内容を自分の事として捉えてなかった。


「半日ぐらいであれば、大した問題にはならないが、明人の場合は一週間続いたりする。今回の映画は純愛物だから、ロケの合間に家に明人が帰って来た場合に、君にとっては意味不明の言動を明人がするかもしれない。愛しているとか、好きだとか……。過去にドラマで共演した女優と交際の噂が飛び交ったのも、明人が役に引きづられた側面が大きい」


 そこまで聡が懇切丁寧に説明すれば、薫はようやく自分にも降りかかる火の粉だという事を理解したらしく、眉間を人差し指で押さえて首を横に振った。


「……。頭が痛いですね……。霧島さんがロケから帰ってくる日は、友人宅かビジネスホテルに避難させてもらっても良いでしょうか?」

「いや、それは困る」


 聡は即答した。婚約偽装を疑われる事は極力避けたかった。


「こちらでも気を付けるれけど、明人の様子が変だと思ったら、私に電話を掛けてきてほしい。駆けつけるから」


 明人が役に呑まれていても、今回は純愛物だ。薫ちゃんが嫌がっているのに、無理矢理気持ちを押し付けるような事はしないはずだ。……たぶん。

 素の明人と役に嵌り込んでいる明人を知り合って間もない薫ちゃんが見分ける事は難しいかもしれないが、可能な限り明人の仕事をスケジュールに詰め込んで、明人が家に帰る機会を減らしていこうと、薫の不安げな顔を見た聡は心に決めた。



2013/07/07 初出

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