プロローグ
新連載始めました。
書き溜めできるのを待っていると、いつ始まるか分からないので不定期となりますが、始めてしまいました。
予告より始めるのが少し遅くなってしまいましたが、必ず完結させますので、気長にお付き合いいただけると、ありがたいです。
R15のタグを付けていますが、保険的な意味でつけています。前作のようなR15まんまの描写はほとんどない予定です。
梅雨明けの蒸し暑い天候の中、国立陸上競技場ホームストレート前にある室内練習場で、日本陸上競技選手権大会女子一万メートル予選出場選手のコールが行われていた。
世界陸上競技選手権大会の選考会を兼ねているこの大会は、予選と言っても地方大会には無かった張りつめた空気があたりに流れていた。
出場する女子選手達は呼ばれる自分の名を聞き逃すまいと、先ほどから一言も言葉を発していない。コール係員が予選1組に出場する選手名を淡々とリストを見ながら読み上げていく。コール係員の声と、それに応える選手の声が室内練習場に交互に響いていた。
立山薫は精神統一のため頭からタオルを被って視界を狭め、赤い陸上競技用のシューズをじっと見つめていた。自分の名前がコールされるとタオルを頭から取り去って、よく響く声で係員に返事をした。
走るのに邪魔にならないように短く切られた黒い髪。こげ茶の瞳には静かな闘志が宿っている。秀麗な顔立ちだけを見れば、少年だと言っても通用してしまいそうだ。
すらりと体から伸びる四肢は無駄な脂肪は一切ついておらず、一万メートルを走るためだけにつけた筋肉が脚に美しい曲線を描いていた。
薫は昨年の秋から冬にかけて、スランプで思うような結果を出せなかった。この大会で少なくとも決勝へ進出しなければ、スポーツ特待生としての待遇は取り消されるだろう、と薫は思った。
奨学金は後で返済しないといけないからと、学費が全額免除となるスポーツ特待生制度のある私立大学を選んで入学したのだが、免除が取り消されれば高額な学費を立山の家は払えるはずもなかった。
私立よりは安い国立大学の学費も払うのが難しいから、学費免除のある大学を薫は選んだ。だから、大学在学中の4年間は、大学生の中では1万メートルでトップクラスの選手でいる事が薫の至上命題となっていた。
本当に綱渡りの大学生活だよね。トップクラスの選手であり続けなければ、学費を払えなくて退学だなんて――。
薫は知らず知らずの内に自嘲の笑みを浮かべた。
でも、後悔はしていない。そうでもしなければ、大学へ進学できなかったのだから。幸いな事に、今年に入ってからは薫の調子が良くなってきていた。
世界陸上競技選手権大会出場に必要な国際A標準記録は、先月の地方大会で突破できた。この大会で入賞を果たせれば、日本陸上競技連盟の強化選手に選ばれる可能性だって出てくる。
強化選手になって強化トレーニングを受ければ、きっともっと強くなれる。強くなれば大学で学び続ける事ができる。だから、この大会は落とせない。
頑張るぞ! と密かな決意をした薫の耳に、室内練習場通路側の入口付近から穏やかでない雑音が入ってきた。
「ちょっと、君。部外者はこの場所には入らないでくれ!」
「そんな事を言っている場合じゃないんだ! 大事な用事があるんだ。俺を通してくれ!」
室内練習場の入口で年嵩の男性係員と黒のサングラスをかけた若い男性が揉みあっていた。
中には妙齢の女性の集団がコールを受けるために待っている状態だ。そこへ若い男性が乱入しようとすれば、係員が危機感を抱いて必死になって止めようとするのも無理はない。
「誰? あの人?」
「すごいイケメンじゃない?」
コールは続いているが、室内競技場はざわざわと声のさざ波が立ち始めていた。「静かに!」とコール係員が注意をするが、治まる気配はなかった。
騒ぎが伝わったのか陸上競技会の他の係員や野次馬が集まってきた。その中には薫が所属する京葉大学陸上部のコーチも混じっていた。
揉み合いが激しくなり、はずみで係員の手が若い男性のサングラスに掛かった。サングラスが床に落ち、男の素顔が晒された。
濁りのない瞳は全てを吸い込みそうなほどに澄んでいて黒く、短く整えた髪は癖があるのか軽く波打っている。うっすらと日焼けした健康的な肌が野性味を醸し出していた。
女性選手達の驚きによって、瞬く間に黄色い声の渦が室内練習場に満ちた。
「なに、なに? なんで霧島明人が此処にいるの?」
「昨年、日本アカデミー最優秀主演男優賞を受賞して、今一番人気の俳優よ!」
「サインほしいわぁ」
一斉にあがった歓声に薫は思わず耳を両手で塞いだ。耳を塞いでも、まだ入ってくるかしましい声にうんざりして、早々にスタート地点へと向かう為に、薫はホームストレートへと通じるガラスの扉へと足を動かした。
ああ、なんて煩い。コールが済んだのだから、此処にいる必要はないし、さっさと集中できる場所に向おう。
明人は歓声に驚いて動きが止まった係員を振り切ると、真っ直ぐに薫へと駆け寄って行く。薫は明人に背を向けている形だから、それに気づいていなかった。
「薫」
駆け寄りながら明人が薫に呼びかけるが、薫は競技に向けて精神を集中している最中だったので反応しなかった。薫は室内練習場のホームストレート側の出口へとゆっくりとした足取りで歩いて行く。
私の名前を知らない誰かが読んだ気がするけど、きっと幻聴だ。有名俳優なんか、こんな大事な時にお近づきにもなりたくない。あと十数分もすれば予選が始まるはずだ。
余計な事で精神を乱されたくない。
薫のそんな願いも虚しく、明人の無骨な手が薫の肩をがしっと鷲掴みにした。骨が軋みそうなほど強く掴まれて、薫の眉間に深いしわが刻まれた。
長距離を上手く走るのには、腕振りも重要になってくる。肩を痛めて腕を思うように振れなくなったら、どうしてくれるんだ、コノヤロウ!
大いなる憤慨でもって、薫は肩を掴んでくれた人物を振り返った。薫の目に入ってきたのは、三週間前に助けてやった酔っ払いの男の顔だった。薫は驚きのあまり目を見開いた。
あの時、私は名前を名乗らなかったはずだ。何故、私の名前を知っているんだ?
怪訝な顔をして薫は明人を見ていた。明人はそれを物ともせずに薫に話しかけた。
「薫、探した。試合に出ると聞いて、慌てて飛んできたんだ。試合に出るのは止めて欲しい」
何を勝手な事を言ってくれちゃってますか、この男は。貴方にそんな権限あるわけないでしょう、と薫は思い、目に力を込めて明人を真正面からから睨みつけた。
「私はこの試合に出なきゃならないんです! ご用があるなら試合後に聞かせて頂きますから、あっち行って下さい」
しっしっと犬を追い払うような仕草をして薫は明人に室内練習場からの退出を促すが、明人は逆に薫を自分の方へと引き寄せた。その上で、しれっとした顔で爆弾発言を落とした。
「薫のお腹には俺の子が宿っているかもしれないんだ。一万メートルなんて長い距離を全力で走ったら流産してしまう」
「はあぁぁ!?」
薫が抗議の声を上げたが、周りの選手が出す悲鳴と悲嘆の声にかき消された。同時に刺さるような無数の視線が薫に集中した。
針のむしろの気分を味わう事になった薫に、更なる災難が襲い掛かった。明人が薫の膝裏をさらって,その胸の中に抱き上げてしまったのだから。
「降ろして! 流産なんてするはずがない!」
お姫様抱っこにされて薫は足をばたつかせた。必死に明人の胸を両手で押して抵抗するが、明人の方が一枚も二枚も上手だった。にやりと意地悪く微笑むと、香の耳元に唇を寄せて小声で脅してきたのだ。
「暴れて落ちたら腰の骨が折れるかもしれないな。腰の骨が折れたら、長い間走れなくなるんじゃないのか?」
抵抗する薫の力に迷いが生じる。明人はそれを見逃さなかった。長い脚を優雅に動かして、あっけにとられている女子選手達の間を抜け、陸上競技場出口へと早足に歩いて行く。
「お願いだから降ろして下さい!」
「駄目だ」
薫は必死に懇願するが、明人にどこ吹く風でさっくりと拒否された。
ああ、このままじゃ、私の大学生活が崩壊してしまう。善意で助けた人が私を窮地に追い込むなんて……。
世の中の不条理を身に染みて感じながら、薫は明人と出会った三週間前の夜の事を思い出していた。
2013.04.08 初出