第十章 そして、日常は戻らない
朝は、驚くほど普通に始まった。
鳥が鳴き、
風が吹き、
学院の鐘が、きちんと鳴った。
「……あれ?」
ノアは、目を覚まして天井を見つめた。
「今日は……何も起きてない?」
恐る恐る起き上がる。
床は軋まない。
空気は静かすぎない。
世界は――黙りすぎてもいない。
「……やった?」
ノアは小さくガッツポーズをした。
廊下に出る。
「おはよう」
「お、おはよう……」
生徒たちは、以前より少し距離を保ちつつも、
逃げ出したり、伏せたりはしない。
(……進歩では?)
食堂。
スープは普通の味。
七色に光らない。
半額でもない。
「……普通だ」
ノアは、ほっと息をついた。
「これだよ、これ」
料理長が、遠くで涙ぐんでいた。
午前の講義も、何事もなく進んだ。
チョークは折れない。
板書は最後まで書かれる。
講師も倒れない。
「世界法則は――」
ノアはノートを取りながら思う。
(ああ……日常って、こういうやつだ)
その瞬間。
隣の生徒が、ぽつりと言った。
「……ノア君が、落ち着いてる」
「え?」
「昨日までと違う」
ノアは苦笑した。
「俺は、ずっと落ち着いてたよ」
生徒は、真顔で言った。
「そう見えるだけで、
世界の方が緊張してた」
ノアは、聞かなかったことにした。
昼休み。
中庭のベンチ。
ノアは空を見上げる。
「……何も起きないな」
その言葉に、
空が少しだけ、きらっとした。
「……気のせい、気のせい」
自分に言い聞かせる。
夕方。
学院長に呼び出された。
「座りなさい」
「はい」
「まず、結論から言う」
学院長は、真剣な顔で言った。
「君の日常は、もう元には戻らない」
ノアは、静かに聞いた。
「……やっぱり?」
「戻そうとしたが、無理だった」
「努力、しました?」
「した。
世界が拒否した」
「世界が」
学院長は、穏やかに続ける。
「だが、悪いことばかりではない」
「そうなんですか?」
「君がいることで、
予測不能な未来が増えた」
「不安しかないんですけど」
「未来とは、そういうものだ」
ノアは、少し考えてから言った。
「……俺、魔法使えません」
「ああ」
「戦えません」
「知っている」
「それでも、ここにいていいんですか?」
学院長は、即答した。
「だからこそ、だ」
ノアは、笑った。
「理屈、通ってないですよ」
「この世界では、
理屈が通らないものが必要な時もある」
ノアは立ち上がる。
「……じゃあ、できることだけやります」
「何だね?」
「普通に生きること」
学院長は、少し驚いた顔をしてから、笑った。
「それが一番、難しい」
夜。
ノアは、自室でベッドに横になった。
「……結局、俺は俺のままか」
魔法は使えない。
特別な力も、実感はない。
ただ――
いるだけで、世界が少し揺れる。
「……まあ」
天井を見つめて、呟く。
「明日も、ちゃんと起きよう」
その言葉に、
世界は何も反応しなかった。
それが、少し嬉しかった。
だが。
遠く、誰も知らない場所で。
歯車が、ひとつ動いた。
「……観測完了」
「対象、“空白”は安定?」
「いいえ」
「では?」
「これからが本番です」
ノア・リーヴェンは、眠っている。
何も知らずに。
そして世界は、知ってしまった。
――彼を中心に、
物語が動き続けることを。
日常は戻らない。
だが、物語は始まったばかりだった。




