09
冷たい朝に慣れることはない。
冷たいというより、濡れていた。断崖の霧が骨に染み、鉄骨に張りつき、どこを触っても指先が湿る。クウォーターは街ではない。防衛と捕獲のための歪な構造物で、その日その日に修繕され、継ぎ足され、崩れる前提で立っている。
コトは、薄汚れた厚着の襟を指で押さえながら、通路の板を踏みしめた。板の軋みが小さく鳴るたび、身体が勝手に固くなる。
今日は来るのか。
恐怖や動揺が、少しずつ警戒に変わっている事に、コトはまだ気付いていない。
竜の墓場寄りの区画では、ヨルが落とし床の補修を続けていた。縁に腹ばいになり、歪んだ枠を叩き直し、仮の楔を打ち込む。二週間前の夜襲で壊れた箇所は数えきれない。修繕は進んでいるが、完璧ではない。完璧にするほどの資材も時間も、人間も、ここにはない。
コトはその姿を遠目に見る。
ヨルは黙っている時の方が多いが、冷たいわけではない。必要な時には声をかけ、手を貸す。昨日もそうだった。怒鳴り声が飛び交う現場で、ヨルは人の顔を見て言葉を選んだ。だから余計に、今日の補修の背中が重く見えた。
負担を減らしたい、という大層なものではない。
だが、ヨルの姿を目にする度、身体が勝手に動いた。
ヒオは別の区画で索の点検をしていた。細い輪郭に深い隈。目だけが落ち着かず、焦点が揺れる。コトは、あの目を見るたびに、竜より怖いものがここにいる感覚に襲われる。
午前の作業は単調で、同じことの繰り返しだった。索を張り直し、金具を締める。
冷えた手が赤みがかり、関節は切り落とされそうなほどに痛む。
補修材を運び、歪んだ梁を仮支柱で支える。誰もが口数少なく、油と錆と血の臭いが薄く残る空間で、呼吸だけが淡々と続いた。
――それて、それは来る。
遠くで、短い金属音が鳴った。
次いで、報せが鳴った。
鈴ではない。角笛でもない。爆鳴索を軽く弾いた、骨に響く振動音。
合図――外周だ。
一瞬で空気が変わる。
誰もが顔を上げ、視線を外へ向ける。風の向きが変わった。霧が裂け、影が落ちた。
大きい。速い。
鳴き声が、断崖の壁に反響して、施設の腹の中をも震わせる。
竜が、飛んでいる。
襲ってはこない。だが、鳴きながら外周を回っている。索敵のように見えるが、威嚇にも見える。
「迎撃配置!」
ヨルの声が通った。落とし床の縁から身を起こし、泥と鉄粉を払う。
その声は短い。だが、それは現場を制す命令として最適化されたものだった。
「墓場は使わない。近づけさせるな」
理性の判断。安全を優先する。
コトにも分かることだった。
今の補修状況で墓場に引きずり込むのは危険だ。班を揃え、固定し、押さえ込む――その工程自体が事故の温床になる。追い払う方が楽で、危険が少ない。
迎撃台へ人が走った。
巻取り式バリスタが軋む音を立てる。
鉄鉤の付いた矢が装填され、極太ワイヤーが巻胴に噛ませられる。
発射担当が構え、巻取り担当がウインチの前に張りつく。
分業だ。一射したら撃つ者は別台へ走り、巻く者が張力を管理する。連続迎撃は可能になるが――判断が乱れれば、誰が巻き、誰が切るかで一瞬が死んでしまう。
鋼索カーテンが落とされた。
高所から斜めに垂れた鋼索が、空域を裂く。竜にも人にも危険な網だ。
鎖弾投射機が準備され、鎖と重錘が揺れる。狙いは精密ではない。飛行を乱すだけでいい。
爆鳴索が再び弾かれ、低い轟音が施設全体を震わせた。
コトの胃がきゅっと縮む。音は竜を追うためのものだが、人間の神経も削る。
竜が旋回して少し高度を落とした。
影が壁を滑る。鳴き声が波打つように境界を這った。
ワイヤーが風で撓み、板が軋む。誰かが足を滑らせ、工具が落ちた。
乾いた音。
全員の呼吸が止まり、梁のわずかに揺れが全身を穿つ。コトの目は勝手に天井へ走った。竜ではなく、落下物への警戒であった。
「撃て!」
発射台から矢が飛んだ。
鉄鉤が空を裂き、ワイヤーが唸る。狙いは翼の付け根。貫くのではなく、引っ掛けるための形だ。
竜が身を捻り、爪が空を掻いた。
鉤はかすり、鱗の縁で跳ねた。ワイヤーが弾かれ、巻胴が一瞬空転する。
「切れ!」
誰かの声。巻取り担当が刃を探す。
その瞬間、別の台からヨルの声が漏れた。
「……逃すな」
たった一言。
だが、空気が揺れた。
ヨルの声は現場の声。
追い払うのか、絡めて引くのか、殺す気なのか。
現場の判断が一瞬止まる。
巻取り担当は刃に手を伸ばしたまま動けず、発射担当は次の台へ走りかけた足を止めた。矛盾が、言葉になって落ちた。
イシュリアが顔をしかめた。
首元の大きな傷が、動くたびに覗く。
「それはどっちなんだよ、大将」
皮肉じみた呼び方だった。普段は決して言わない。ヨルへの信頼と、年上としての立場が、その一言に同居していた。
ヨルは言い返さなかった。目だけが竜を追ったまま、その手は力強くレバーを握っていた。
欲がちらついたのだと、皆は感じた。
竜を殺したい衝動。そして食糧の現実。
だが同時に、負傷が癒えていない連中と、未完の補修が頭にある。
竜が再び外周をかすめた。
鎖弾が放たれ、重錘が空を描く。鎖が翼の端を掠め、竜が大きく鳴いて姿勢を崩す。追い払うには十分な嫌がらせだ。
だが、ここでも人間が噛み合わない。
「緩りぃぞ!はちゃんと固定しろ!」
ヒオの声が飛んだ。
コトは反射的にそちらを見る。ヒオの目が開きすぎている。焦点が合っていない。手が震えている。
「言われなくてもやってる!」
ヤズが噛み返した。反発の意思だけが強く響く。
声がぶつかり、動線が乱れる。
誰かが鋼索カーテンの範囲に踏み込みかけ、足を取られた。板が外れそうな音がした。
コトの喉が冷える。
事故は竜より静かに来る。
「下がれ! 使えねぇ!」
ユーカの声が短く飛んだ。普段は穏やかな目をしているのに、この瞬間だけは視線が鋭く、眉間に皺が寄る。攻撃性が全面に出ているようだった。
誰かが腕を掴まれ引き戻される。ギリギリだった。鋼索に絡めば、人は簡単に裂ける。
竜の影が重なる。
混乱した現場は、竜の「襲撃」ではなく、人間の「事故」で死ぬ寸前だった。
ヨルが顔を上げた。
その冷たい目は、決断の硬さに含んでいた。
「追い払え!」
声が張られる。迷いが切れる。
その瞬間、現場の矛盾が解消され、誰もが理解する。殺そうとするな、追うな、深追いするなと。
「巻くな! 切れ! カーテン維持! 爆鳴索、次!」
命令が具体になる。巻取り担当は躊躇なくワイヤーを切り、張力の反動に身体を持っていかれそうになりながら踏ん張る。
爆鳴索が弾かれ、低い轟音が竜の腹に響く。鎖弾がもう一発、空を裂き、翼の軌道を乱す。
竜は鳴き、旋回し、距離を取った。
影が薄くなり、霧が元に戻る。
最後にもう一度、こちらを見下ろすように鳴いてから、断崖の向こうへ消えた。
静けさが戻る。
戻ったのは音だけで、空気は戻らない。
ヒオは息を荒げ、唇を噛んでいた。
ヤズは目を逸らさず、まだ言い足りない顔をしている。
ヨルは全員を見回した。
怒鳴らない。だが、言葉を置く。
「……今のは、人が死ぬ寸前だった」
声は低い。責めるためではなく、事実を共有するための声だった。
「竜じゃない。俺たちのせいで、死ぬところだった」
俺たち、とヨルは言った。
自身の指示の半端さも、十分に理解した言葉だった。
だから誰も返事をしない。
他責ではなく、自責を含んでいるからだ。
そして、それぞれに落ち度があったからでもある。
ヨルは一度だけ、外を見た。
竜の影はない。それでも視線はすぐ戻らない。そこに欲が残っている。殺したい、という本能が、まだ指の先に絡みついている。
そして、その欲が言葉になって現場を乱したことも、ヨル自身が分かっていた。
「作業に戻る」
ヨルは言った。今度は端的だった。だが冷徹ではない。これ以上言葉を増やせば、摩耗が増えるだけだと知っている声だった。
コトは胸の奥がざらつくのを感じながら、板を踏み直した。
竜が去った後は感覚が麻痺している。
少しの音では、身体は跳ねなかった。
クウォーターは、今日も生き延びた。
だが、食糧は増えない。補修は未完のまま、設備と人間関係だけが摩耗した。
コトは息を吐く。
どれだけ消耗しようと、今日を越えた――ただそれだけが、今の彼女の全てだった。




