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08

 最初に聞こえたのは、怒鳴り声だった。


 金属の擦れる音や、索が張られる音に混じって、明らかに異質な声が跳ねた。

 コトは反射的に肩を強張らせ、足元を確かめる。板は固定されている。索も張られている。問題はない――はずだった。


 だが、声の大きさそのものが問題だった。


 ヒオと二人で行っていたのは、通路脇の索の点検だった。単調な作業で、確認する箇所も少ない。ヒオはいつも通り指示を出し、コトはそれに従って手を動かしていた。


 ただ、ヒオの様子が少しだけ違った。


 同じ箇所を二度確認する。

 結び目を締め直す回数が多い。

 指先に力が入りすぎて、索が軋む。


 疲れているのだろうと、コトは思った。

 彼は夜の見張りも任されており、人よりも疲労が蓄積するのは当然だった。


 昨夜の名残は、まだ施設のあちこちに残っている。焼け焦げた金具。歪んだ梁。風が吹くたび、どこかが鳴る。


 軋みの音がしただけで、全員が一瞬、動きを止める。

 落とした工具が床を打つ音に誰かが息を詰める。


 竜は来ていない。

 だが、来ていないだけだ。


「――ちょっと待ってて」


 ヒオが言った。

 別の区画から声がかかっていたらしい。ヒオは一度だけコトを振り返り、「すぐ戻る」と言って、足早にその場を離れた。


 コトは一人になった。

 索を持ったまま、ヒオの背中を見送る。


 遠くで、声がぶつかり始めた。


 最初は低く、抑えた調子だった。

 内容は聞き取れない。だが、語尾の硬さから、穏やかなやり取りではないことだけは分かる。


 しばらくして、相手の名前が飛んだ。


「ヤズ」


 ヒオの声だった。

 次の瞬間、金属を叩く音がした。

 誰かが何かを置いたのか、蹴ったのか。いずれにせよ、無駄な音だった。


 コトは思わず索を握り直した。

 この程度の音で警戒する自分を、少し情けなく思う。


 だが、ここでは音が命取りになる。

 竜が来ていない今でさえ、音は敵だった。


 ヤズと呼ばれた少年とヒオの口論は、少しずつ熱を帯びていった。


 正論と正論がぶつかっているのが、声の調子だけで分かる。

 怒鳴り合いではない。だが、互いに引く気配もない。


 ヒオの声が、次第に上擦り始めた。


 コトは遠目に、ヒオの姿を探す。

 視界の端で、ヒオが身振りを大きくしているのが見えた。


 手が震えている。


 最初は気のせいかと思った。

 だが、震えは止まらない。ヒオの指先が小刻みに揺れている。


 瞳孔が、妙に開いていた。


 コトは喉が鳴るのを感じた。

 これは、まずい。


 竜の気配はない。

 だが、ここでは人間の異変も、事故と同じ重さを持つ。


「うっせえんだよ!」


 怒号が飛んだ。


 イシュリアの声だった。


 それまで黙っていた空気が、一気に裂ける。

 イシュリアは現場の端から声を張り上げていた。言葉は荒い。だが、怒りというより苛立ちに近い。


「今それやってる余裕あんのか! 手動かせ!」


 だが、口論は止まらなかった。

 声量では止まらない。

 それは誰もが分かっている。


「……はぁ」


 ヨルが姿を見せたのは、その直後だった。

 またか、と言わんばかりにため息を吐きながら、気怠そうに歩いていた。


 ヨルは落とし穴の補修をしていた。

 竜の墓場近く、意図的に大きく開けられた空間の縁で、歪んだ床板を外し、内部の機構を確かめている最中だったらしい。


 土と鉄の匂いをまとったまま、ヨルは現場に入ってきた。


「ヒオ」


 声は低く、よく通った。

 命令ではない。ただ名前を呼んだだけだ。


 ヒオが振り向く。

 その瞬間、コトにもはっきり見えた。

 ヒオの手が、制御できていない。呼吸が浅く、異様に速い。目の焦点が、居場所を求め泳ぎ回っている。


 ヤズと呼ばれた男も、言葉を止めた。

 場の空気が一段階変わる。


「そこまでにしろ」


 ヨルはヒオに言った。

 声色は柔らかいが迷いがない。


「戻れ。作業は代わる」


 ヒオは一瞬、口を開いた。

 何か言おうとしたのだろう。


 だが、言葉にならなかった。


「……ごめん」


 絞り出すような声だった。

 ヨルは頷き、ヤズの方を見る。


「でもヨル!こいつが……」

「言いたいことは分かる。後で聞く。今じゃない」


 ヤズは不満そうに口を歪めたが、それ以上は何も言わなかった。

 正論を言い切った後に残るのは、後味の悪さだけだ。


 ヒオはそのまま現場を離れた。

 背中が、小さく見えた。


 作業は再開された。

 まるで何事もなかったかのように。


 だが、空気は確実に摩耗していた。


 別の場所では、オルダとイシュリア、テリーが集まっていた。


 食糧庫の前だ。


「減りが早いな」


 オルダが言った。

 数字を確認しながら、眉を寄せる。


「計算が合わねえのか」


 イシュリアは腕を組んだ。


「誰かがちょろまかしてる」


 誰も否定しない。

 だが、誰も名前を出さない。


「……いるだろうね。そういうひとも」


 テリーが言った。

 声に怒りはない。ただ事実を置くだけの口調だ。


 犯人探しはしない。

 今は、それをする余裕がない。


 だが、問題であることも確かだった。


 竜は来ていない。

 だが、来れば全てが終わる。


 その「来る前」に、食糧が尽きれば、同じことだ。


 コトは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。

 聞いてはいけない気がして、自然と距離を取る。


 一人での作業に戻った。


 薄暗い区画。

 風が抜けるたび、鎖が鳴る。


 何かを落とした音がして、思わず身構える。

 ただの木片だった。


 自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる。


「これ、重いね」


 背後から声がした。


 振り向く前に、距離の近さで分かった。

 ラニーダだ。


「……う、うん」


 いつの間にいたのか、分からない。

 気配が薄いわけではない。ただ、存在の仕方がずれている。


「落ちたら、死ぬよ」


 ラニーダは淡々と言った。

 焦点の合わない青い目が、コトを見ているようで、見ていない。


「死んだらどうする? 怖いよね」


 長い髪が垂れ、顔はよく見えない。

 不健康そうな青白い肌がチラつく。


 コトは一歩、距離を取った。

 ラニーダはその分だけ近づいた。


 触れなくていい距離。

 答えずとも、一人での意味不明な会話を並べていた。


「……」


 何も言わなかった。


 ラニーダは不気味な笑みを浮かべ、しばらくそこに立っていたが、やがて何事もなかったように去っていった。


 残された空気が、重い。


 竜の影は、どこにもない。

 だが、軋み、怒鳴り声、距離の狂い――それらすべてが、同じ方向を向いている。


 クウォーターは、少しずつ削れていた。


 コトはまだ、それを異常だと思えている。

 だが、その感覚がいつまで持つのか、自分でも分からなかった。

 

 風が吹き、どこかで金属が鳴った。

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