12
竜が来ないのは、決して安心できるような事ではない。
夜襲から二週間以上。迎撃から数日。外周は静かで、空に影はない。鳴き声も、風に混じる羽音も聞こえない。だが、その静けさは「安全」とは違う種類のものだった。
来ない日が続くほど、準備は削られていく。
それは食糧だけではない。
コトが資材置き場で数を確認しているのは、板、鉄骨、ワイヤー、滑車、楔。補修と迎撃の要となるものばかりだ。どれも足りていない。完全な復旧を諦め、仮補修を重ねてきたツケが、はっきりと数字になって現れていた。
壊れたから直す、ではもう遅い。
どこを直すかを選ばなければならない。
食糧の話は出なかった。
それだけで、コトは少しだけ息がしやすくなった。
ここ数日、誰も「減っている」とは言わない。
ラーシアが管理しているらしいが、それが現場に直接届くことはない。
だから、わざわざ話題にしない。それが暗黙の了解になっているようだった。だから今日は、資材の話だけが前に出ていた。
――今日は、まだ大丈夫だ。
そんな根拠のない安堵が、胸の奥に生まれる。
だがその安堵も、長くは続かない。
「ここはCだろ」
ヤズの声が、点検の場に響いた。
牽引区画。天鎖とウインチ、巻取り式の主索が集まる場所だ。事故死が最も多く、だが迎撃の成否を左右する要でもある。
「落とし床は仮で持つ。今はCを固めるべきだ」
即物的で合理的な判断。
だが、それに即座に反論が返る。
「Bに決まってるじゃん」
ヒオだった。
Bは初動拘束。落とし床、楔、誘導線。
竜を止められなければ、C以前に全てが崩れる。
「Bがなきゃ意味ねえよ! Cなんて仮のワイヤーで誤魔化せるだろ〜?」
声は荒く呼吸が浅い。
目は血走り、ギョロギョロと泳いでいた。
ヒオの口には、いつものようにタバコがあった。火は点いておらず、吸ってもいない。
ただ、手放すことが出来ないみたいに、強く噛んでいた。
「Cが崩れたら、その“最初”も無駄になるって言ってんだ」
ヤズが返す。
苛立ちを含んだ視線が鋭かった。
「引っ張れなきゃ、止めても死ぬだろ」
「だからって!」
ヤズが声を荒げ、ヒオがそれに反応する。
一歩踏み出すが、足取りが不安定だ。肩が上下し、手が震えている。
これは議論じゃないということに、コトは少しだけ勘づく。
「お前はいつも理屈だけだな」
「理屈で死なねえとでも?」
「っ……!」
ヒオの視界が揺れた。
次の瞬間、拳が出た。
乾いた音が響く。
完全に当たったわけではない。だが、十分だった。限界が形となって現れる。
一瞬、場が凍る。
ヒオは息を荒くし、肩で呼吸をしている。
明らかに顔色が悪い。汗が浮き、焦点が合っていない。怒りというより、何かに追われているような目だ。
「……ヒオ」
ヨルが前に出た。
声は低く、はっきりしている。
だが、ヒオは顔を上げられない。
「くそ……」
唇が震える。
タバコを噛み、唾を飲み込む。
欲している。
コトにもそれが分かった。
身体が、精神が、本能がそれを求めている。
ヨルは一瞬、周囲を見渡した。
それから決断したように口を開く。
「……ラーシア」
呼ばれた名に、落ち着いた雰囲気の女が顔を上げる。
「内臓の一部、まだあったか」
空気が変わった。
「……あるわ」
短い返事。
僅かに視線が別の方へ向いていた。
「調合してくれ。今すぐ」
その瞬間、ヤズが声を荒げた。
「はあ!?」
苛立ちが噴射する。今度ははっきりと。
「そいつのために使うのか!? ただの中毒者に!?」
指がヒオを指す。
「怪我でもねえ! 持病でもねえんだぞ?」
正論だった。
竜の内臓は、命の延命や止血のためのものだ。
本来、薬物など不要なもののために使うものではない。
「ただの自業自得だろ!?」
ヤズの声が震え、狭い空間を反射した。
場に重い沈黙が落ちる。
ヒオは何も言わない。
言えないでいた。
ヨルは、ヤズを見据えた。
「死なせるくらいなら……使うしかねぇだろ」
息を吐きながらそう口にする。
手に負えない、面倒、そんな雰囲気で満ちていた。
「回らなきゃ意味がない」
合理だ。
だが、誰にとっての合理かは分からない。
「……クソがっ!」
そう吐き捨て、場は解散する。
再びヨルは、大きく息を吐いた。
⸻
「大変そうだなヨル」
先ほどの様子を遠くから見ていたオルダだった。
「てめぇの仕事だろ」
ヨルは心底鬱陶しそうに言い放った。
こういった面倒ごとに、オルダはあまり関わろうとしない。不要なタイミングや状況で、安全圏から権限を振りかざすだけ。だからこそ、彼には人望が無いのだ。
「そういうのは、お前の方が適任だろう」
ヨルの苦労も知らず、笑ってみせるオルダ。
「殺すぞマジで」
余裕のないヨルの言葉には、本音と冗談の境などないように見えた。
外周点検の時間になり、持ち場が入れ替わる。
コトは資材を抱えたまま、足場の端で一度だけ空を見上げた。霧が流れ、雲が低い。いつもと変わらない断崖の空だった。
オルダとヨルが、そこには立っていた。
ヨルは相変わらずタバコを吸っており、オルダは地平の向こうを見据えていた。その周りでは、皆が仕事をこなすために動いていた。
崖側に寄りすぎない位置。だが、内側にも戻らない曖昧な距離。
眼帯の下で、視線だけが動いている。
しばらくして、オルダが遠くを見て小さく呟いた。
「……二匹だな」
声は独り言に近く、周囲に向けられたものではなかった。
「は?」
ヨルだけが反応した。
他の誰も反応しない。
見張りの者も、作業中の人間も空なんて見ていない。
ヨルはオルダの視線の先を見る。
そこには霧と雲しかない。
竜の影など、どこにも見えなかった。
「……なんで分かる」
詰める声ではなかった。
確認するような、一言だった。
オルダはすぐに答えなかった。
眼帯の下で、視線がわずかに揺れる。
「……勘だ」
それだけ言って、オルダは顔を背けた。
ヨルは追及しなかった。
だが、その眼帯から目を離さなかった。
何かいけない物を見た気がして、コトは直ぐに作業は戻った。
通路の向こうで、別の気配を感じる。
アロットだ。
何も言わず、ただこちらを見ている。
昨日の夜と同じ目。こちらの深くを、知っているかのような目。
しかし、また何も言わずに姿を消した。
「………」
理解できない事が多すぎて、コトにも少しずつ負荷が掛かっていた。
そして、視線のさらに奥。
影が動いたような気がした。
誰かがそこにいた気配だけを感じ取ってしまい、コトは少しだけ動揺した。
竜という脅威に対抗する。
その一点において、クウォーターの内側はもれなく味方のはず。
だが、誰もが胸の内を隠し、誰かを非難し、身勝手に動いている。
何一つ信じられない自分もまた、彼らと同じ尺度で存在していることに気付き、コトはまた一人孤独になった気がした。
結局、資材の割り振りは決まらなかった。
仮で回す。
今日を誤魔化す。
いつもの結論だ。
竜は来ない。
だが、人は削れていく。
人と人とで、摩耗していく。
そして、その環境に静かに慣れていくのを、コトは確かに感じていた。
――多分、おかしい。
そう思えるうちは、まだ外にいる。
だが、次に同じことが起きたら。
その時、自分は何を選ぶのか。
鎖が鳴る。
風が吹く。
来ない日が続いていた。
―――
オルダ




