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 竜が来ないのは、決して安心できるような事ではない。


 夜襲から二週間以上。迎撃から数日。外周は静かで、空に影はない。鳴き声も、風に混じる羽音も聞こえない。だが、その静けさは「安全」とは違う種類のものだった。


 来ない日が続くほど、準備は削られていく。

 それは食糧だけではない。


 コトが資材置き場で数を確認しているのは、板、鉄骨、ワイヤー、滑車、楔。補修と迎撃の要となるものばかりだ。どれも足りていない。完全な復旧を諦め、仮補修を重ねてきたツケが、はっきりと数字になって現れていた。


 壊れたから直す、ではもう遅い。

 どこを直すかを選ばなければならない。


 食糧の話は出なかった。

 それだけで、コトは少しだけ息がしやすくなった。


 ここ数日、誰も「減っている」とは言わない。

 ラーシアが管理しているらしいが、それが現場に直接届くことはない。

 だから、わざわざ話題にしない。それが暗黙の了解になっているようだった。だから今日は、資材の話だけが前に出ていた。


 ――今日は、まだ大丈夫だ。


 そんな根拠のない安堵が、胸の奥に生まれる。


 だがその安堵も、長くは続かない。


「ここはCだろ」


 ヤズの声が、点検の場に響いた。


 牽引区画。天鎖とウインチ、巻取り式の主索が集まる場所だ。事故死が最も多く、だが迎撃の成否を左右する要でもある。


「落とし床は仮で持つ。今はCを固めるべきだ」


 即物的で合理的な判断。

 だが、それに即座に反論が返る。


「Bに決まってるじゃん」


 ヒオだった。


 Bは初動拘束。落とし床、楔、誘導線。

 竜を止められなければ、C以前に全てが崩れる。


「Bがなきゃ意味ねえよ! Cなんて仮のワイヤーで誤魔化せるだろ〜?」


 声は荒く呼吸が浅い。

 目は血走り、ギョロギョロと泳いでいた。


 ヒオの口には、いつものようにタバコがあった。火は点いておらず、吸ってもいない。

 ただ、手放すことが出来ないみたいに、強く噛んでいた。


「Cが崩れたら、その“最初”も無駄になるって言ってんだ」


 ヤズが返す。

 苛立ちを含んだ視線が鋭かった。


「引っ張れなきゃ、止めても死ぬだろ」


「だからって!」


 ヤズが声を荒げ、ヒオがそれに反応する。

 一歩踏み出すが、足取りが不安定だ。肩が上下し、手が震えている。


 これは議論じゃないということに、コトは少しだけ勘づく。


「お前はいつも理屈だけだな」


「理屈で死なねえとでも?」


「っ……!」


 ヒオの視界が揺れた。

 次の瞬間、拳が出た。


 乾いた音が響く。

 完全に当たったわけではない。だが、十分だった。限界が形となって現れる。


 一瞬、場が凍る。


 ヒオは息を荒くし、肩で呼吸をしている。

 明らかに顔色が悪い。汗が浮き、焦点が合っていない。怒りというより、何かに追われているような目だ。


「……ヒオ」


 ヨルが前に出た。

 声は低く、はっきりしている。


 だが、ヒオは顔を上げられない。


「くそ……」


 唇が震える。

 タバコを噛み、唾を飲み込む。


 欲している。

 コトにもそれが分かった。

 身体が、精神が、本能がそれを求めている。


 ヨルは一瞬、周囲を見渡した。

 それから決断したように口を開く。


「……ラーシア」


 呼ばれた名に、落ち着いた雰囲気の女が顔を上げる。


「内臓の一部、まだあったか」


 空気が変わった。


「……あるわ」


 短い返事。

 僅かに視線が別の方へ向いていた。


「調合してくれ。今すぐ」


 その瞬間、ヤズが声を荒げた。


「はあ!?」


 苛立ちが噴射する。今度ははっきりと。


「そいつのために使うのか!? ただの中毒者に!?」


 指がヒオを指す。


「怪我でもねえ! 持病でもねえんだぞ?」


 正論だった。

 竜の内臓は、命の延命や止血のためのものだ。

 本来、薬物など不要なもののために使うものではない。


「ただの自業自得だろ!?」


 ヤズの声が震え、狭い空間を反射した。

 場に重い沈黙が落ちる。


 ヒオは何も言わない。

 言えないでいた。


 ヨルは、ヤズを見据えた。


「死なせるくらいなら……使うしかねぇだろ」


 息を吐きながらそう口にする。

 手に負えない、面倒、そんな雰囲気で満ちていた。

 

「回らなきゃ意味がない」


 合理だ。

 だが、誰にとっての合理かは分からない。


「……クソがっ!」


 そう吐き捨て、場は解散する。

 再びヨルは、大きく息を吐いた。





「大変そうだなヨル」


 先ほどの様子を遠くから見ていたオルダだった。


「てめぇの仕事だろ」


 ヨルは心底鬱陶しそうに言い放った。

 こういった面倒ごとに、オルダはあまり関わろうとしない。不要なタイミングや状況で、安全圏から権限を振りかざすだけ。だからこそ、彼には人望が無いのだ。


「そういうのは、お前の方が適任だろう」


 ヨルの苦労も知らず、笑ってみせるオルダ。


「殺すぞマジで」


 余裕のないヨルの言葉には、本音と冗談の境などないように見えた。


 外周点検の時間になり、持ち場が入れ替わる。


 コトは資材を抱えたまま、足場の端で一度だけ空を見上げた。霧が流れ、雲が低い。いつもと変わらない断崖の空だった。


 オルダとヨルが、そこには立っていた。

 ヨルは相変わらずタバコを吸っており、オルダは地平の向こうを見据えていた。その周りでは、皆が仕事をこなすために動いていた。


 崖側に寄りすぎない位置。だが、内側にも戻らない曖昧な距離。

 眼帯の下で、視線だけが動いている。


 しばらくして、オルダが遠くを見て小さく呟いた。


「……二匹だな」


 声は独り言に近く、周囲に向けられたものではなかった。


「は?」


 ヨルだけが反応した。

 他の誰も反応しない。

 見張りの者も、作業中の人間も空なんて見ていない。


 ヨルはオルダの視線の先を見る。

 そこには霧と雲しかない。

 竜の影など、どこにも見えなかった。


「……なんで分かる」


 詰める声ではなかった。

 確認するような、一言だった。


 オルダはすぐに答えなかった。

 眼帯の下で、視線がわずかに揺れる。


「……勘だ」


 それだけ言って、オルダは顔を背けた。


 ヨルは追及しなかった。

 だが、その眼帯から目を離さなかった。


 何かいけない物を見た気がして、コトは直ぐに作業は戻った。

 通路の向こうで、別の気配を感じる。


 アロットだ。

 何も言わず、ただこちらを見ている。

 昨日の夜と同じ目。こちらの深くを、知っているかのような目。


 しかし、また何も言わずに姿を消した。


「………」


 理解できない事が多すぎて、コトにも少しずつ負荷が掛かっていた。


 そして、視線のさらに奥。

 影が動いたような気がした。


 誰かがそこにいた気配だけを感じ取ってしまい、コトは少しだけ動揺した。


 竜という脅威に対抗する。

 その一点において、クウォーターの内側はもれなく味方のはず。


 だが、誰もが胸の内を隠し、誰かを非難し、身勝手に動いている。


 何一つ信じられない自分もまた、彼らと同じ尺度で存在していることに気付き、コトはまた一人孤独になった気がした。


 結局、資材の割り振りは決まらなかった。


 仮で回す。

 今日を誤魔化す。


 いつもの結論だ。


 竜は来ない。

 だが、人は削れていく。

 人と人とで、摩耗していく。


 そして、その環境に静かに慣れていくのを、コトは確かに感じていた。


 ――多分、おかしい。


 そう思えるうちは、まだ外にいる。

 だが、次に同じことが起きたら。


 その時、自分は何を選ぶのか。


 鎖が鳴る。

 風が吹く。


 来ない日が続いていた。


―――


オルダ


挿絵(By みてみん)

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