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 朝は、昨日より少しだけ楽だった。


 目を開けた瞬間、まずそれに気づいてしまい、コトは自分の内側に小さな棘が刺さるのを感じた。息が深く、耳鳴りが、完全ではないが遠く感じる。腹の奥にあったあの耐えがたい空洞が、いつもより薄かった。


 身体が、答えを出している。


 昨夜、食べてしまった。

 それだけのことを、身体は「正解だった」と言っている。


 コトはゆっくりと起き上がり、視線を伏せたまま身支度を整えた。作業服のポケットがほつれ、垂れ下がっている。それを直す暇もなければ、直したところで入れておくものもなかった。


 通路に出れば、いつもの慌ただしさ。

 誰もが同じように黙って動いていた。


 だが不思議と、足取りが軽い。

 こだまする鉄の音も、梁の軋みも、崖へと誘う風の通りも、恐怖へと直結しなかった。

 それが何より、恐ろしかった。


 作業場へ向かう途中、ヨルとすれ違った。


 いつも通りの歩調。いつも通りの表情。落とし床の補修で汚れた手袋を外しながら、ヨルはちらりとコトを見た。


「今日は、元気そうだな」


 それだけだった。

 今日は、という言葉に背筋が凍る。

 ヨルは気付いているのだろうか、という思いが立ち上がる。


 責める声でも、探る視線でもない。

 昨日のことを引きずっている様子もない。ただ、事実を口にしただけの一言。


 胸の奥が、ひくりと動く。

 理由ははっきりしていた。


 ヨルはそれ以上何も言わず、先へ行った。背中が遠ざかる。その背中を見送りながら、コトは自分の指先がわずかに冷えていることに気づいた。


 罪悪感か、後悔か。

 言葉に出来ない感情が立ち上がり、それを拭い取る手段はないことに気付く。

 崖がいつもより近く感じられた。


 修繕と補充の作業は続く。

 厄介な事に、昨日より手が動く。資材の重さが少しだけ軽い。紐の結び目も一度で決まることが増えた。


 それが誇らしく、同時に取り返しのつかないことのようにも思えた。


 アロットとは、言葉を交わさなかった。

 それが何よりコトを独りにおしやった。


 すれ違ったときに視線は合う。

 だが、それ以上の何かがあるわけでもない。


 アロットが告げ口をするかもしれない。そんな邪念が浮かぶが、それは排除した。

 我が身可愛さに誰かを蹴落とせば、ロクな結果にならない。

 驚く事にコトは、この幼さでそれを知っている。


 コトがアロットに抱くものは、秘密を共有したというよりも、互いの生存方法を認識した、という感じに近いものだった。


 しかし、アロットという存在を、いつもより強く意識するようになったのは間違いなかった。


 彼女はいつも通り軽い足取りで、どこか呑気そうにしている。罪の影も、怯えも見えない。あれが演技なのか、本心なのか、コトには分からなかった。

 だが、一つ言えるのは、その在り方が羨ましいというものだ。



 午前の作業が一段落した頃、空気が変わった。


「おい」


 荒れた声が響く。

 ヤズだった。

 赤茶の縮れた髪が、日に焼けた肌に馴染んでいる。


 別の班の作業区画から、苛立ちを隠そうともしない声が飛ぶ。


「減り方がおかしいだろ。どう考えても」


 周囲の動きが止まる。

 誰もが、その話題を避けてきた。


「今までもそうだったが……最近は特にひでぇ」


 食糧庫の前に立ち、何人かが集まっていた。


「管理が甘いんじゃねえのか? それとも――」


 言葉が濁る。

 濁したままでも、意味は伝わる。


 そこに、ヒオの声が噛みついた。


「お前がやってんじゃねえのか?」


 鋭すぎる言葉だった。

 空気が、一気に張り詰める。

 ヤズが振り向く。


「……は?」


「食い意地張ってんの、前からだろ。怪しいんだよ」


 ヒオの目は落ち着きを欠いていた。瞳孔が開き、呼吸が浅い。言葉が先に出て、思考が追いついていない。


 ヤズが一歩踏み出す。


「言いがかりつけんな。証拠もねえくせに」


「証拠なんか、ここじゃ――」


 掴み掛かろうとした時。


「ヒオ」


 低い声が割って入る。ヨルだった。


「一回、下がれ」


 ヒオは言い返そうとして、口を閉じた。だが、納得していないのは明らかだった。肩が強張り、拳が握られている。


 その様子を見て、誰かが口を挟んだ。


「ヒオ、お前はもう少し食った方がいいな。仕事ならねえ」


 冗談めかした口調。だが、その言葉は刃だった。


 ヒオの顔が歪む。


「……なんだよ、それ」


 ヨルが再び声を出そうとした、その前に――。


「うるせえッ!」


 怒号が響いた。


 オルダだった。


 年長者の声は、場を叩き潰す力を持っている。怒りを隠さない声。圧そのもののような威圧。


「ここで疑い合ってどうする。そんな奴はいねえと、俺は思いたい」


 一拍、間が空く。


 オルダは、全員を睨めつけた。


「……だがまあ。もしいるんだとしたら、覚悟はしておけ」


 殺意と敵意が、隠されていない。

 おそらく彼は容赦しない。

 犯人探しはしない。だが、見つけたらどうなるかは、誰もが分かる言い方だった。


 沈黙が落ちる。


 各々口をつぐみ、作業へ戻る。

 だが、空気は元に戻らないままだ。


 コトは、喉の奥が乾くのを感じていた。


 自分が、原因の一部だと分かっている。

 それなのに、胸の奥にあるのは恐怖よりも、奇妙な冷静さだった。


 ――見つかっていない。

 ――自分が盗んだわけじゃない。


 だが、それに自分が少しでも加担している事実が、今日は黙ったままの腹の底にあった。



 作業が終わり、食事を終え、各々が寝所へ向かう。


 廊下は暗く、音が少ない。

 それでも昨日ほど怖くはない。


 角を曲がった先に、アロットがいた。


 何かを持っている気配。

 はっきりとは見えない。


 コトは足を止めなかった。

 驚かないし、問いもしない。


 ただ、視線だけを向ける。


 アロットは、昨日と同じように立っていた。


「もってるのかな……」


 いやいや、と首を振った。

 これ以上進んだら戻れない。


 だが一方で、どうすれば見つからないかを考えてしまう。

 その考えが浮かんだ瞬間、コトは気づいてしまった。


 もう、自分はここで生きるための選択を、考え始めている。


 善悪ではなく。

 感情でもなく。


 ただ、明日を越えるために。

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