11
朝は、昨日より少しだけ楽だった。
目を開けた瞬間、まずそれに気づいてしまい、コトは自分の内側に小さな棘が刺さるのを感じた。息が深く、耳鳴りが、完全ではないが遠く感じる。腹の奥にあったあの耐えがたい空洞が、いつもより薄かった。
身体が、答えを出している。
昨夜、食べてしまった。
それだけのことを、身体は「正解だった」と言っている。
コトはゆっくりと起き上がり、視線を伏せたまま身支度を整えた。作業服のポケットがほつれ、垂れ下がっている。それを直す暇もなければ、直したところで入れておくものもなかった。
通路に出れば、いつもの慌ただしさ。
誰もが同じように黙って動いていた。
だが不思議と、足取りが軽い。
こだまする鉄の音も、梁の軋みも、崖へと誘う風の通りも、恐怖へと直結しなかった。
それが何より、恐ろしかった。
作業場へ向かう途中、ヨルとすれ違った。
いつも通りの歩調。いつも通りの表情。落とし床の補修で汚れた手袋を外しながら、ヨルはちらりとコトを見た。
「今日は、元気そうだな」
それだけだった。
今日は、という言葉に背筋が凍る。
ヨルは気付いているのだろうか、という思いが立ち上がる。
責める声でも、探る視線でもない。
昨日のことを引きずっている様子もない。ただ、事実を口にしただけの一言。
胸の奥が、ひくりと動く。
理由ははっきりしていた。
ヨルはそれ以上何も言わず、先へ行った。背中が遠ざかる。その背中を見送りながら、コトは自分の指先がわずかに冷えていることに気づいた。
罪悪感か、後悔か。
言葉に出来ない感情が立ち上がり、それを拭い取る手段はないことに気付く。
崖がいつもより近く感じられた。
修繕と補充の作業は続く。
厄介な事に、昨日より手が動く。資材の重さが少しだけ軽い。紐の結び目も一度で決まることが増えた。
それが誇らしく、同時に取り返しのつかないことのようにも思えた。
アロットとは、言葉を交わさなかった。
それが何よりコトを独りにおしやった。
すれ違ったときに視線は合う。
だが、それ以上の何かがあるわけでもない。
アロットが告げ口をするかもしれない。そんな邪念が浮かぶが、それは排除した。
我が身可愛さに誰かを蹴落とせば、ロクな結果にならない。
驚く事にコトは、この幼さでそれを知っている。
コトがアロットに抱くものは、秘密を共有したというよりも、互いの生存方法を認識した、という感じに近いものだった。
しかし、アロットという存在を、いつもより強く意識するようになったのは間違いなかった。
彼女はいつも通り軽い足取りで、どこか呑気そうにしている。罪の影も、怯えも見えない。あれが演技なのか、本心なのか、コトには分からなかった。
だが、一つ言えるのは、その在り方が羨ましいというものだ。
午前の作業が一段落した頃、空気が変わった。
「おい」
荒れた声が響く。
ヤズだった。
赤茶の縮れた髪が、日に焼けた肌に馴染んでいる。
別の班の作業区画から、苛立ちを隠そうともしない声が飛ぶ。
「減り方がおかしいだろ。どう考えても」
周囲の動きが止まる。
誰もが、その話題を避けてきた。
「今までもそうだったが……最近は特にひでぇ」
食糧庫の前に立ち、何人かが集まっていた。
「管理が甘いんじゃねえのか? それとも――」
言葉が濁る。
濁したままでも、意味は伝わる。
そこに、ヒオの声が噛みついた。
「お前がやってんじゃねえのか?」
鋭すぎる言葉だった。
空気が、一気に張り詰める。
ヤズが振り向く。
「……は?」
「食い意地張ってんの、前からだろ。怪しいんだよ」
ヒオの目は落ち着きを欠いていた。瞳孔が開き、呼吸が浅い。言葉が先に出て、思考が追いついていない。
ヤズが一歩踏み出す。
「言いがかりつけんな。証拠もねえくせに」
「証拠なんか、ここじゃ――」
掴み掛かろうとした時。
「ヒオ」
低い声が割って入る。ヨルだった。
「一回、下がれ」
ヒオは言い返そうとして、口を閉じた。だが、納得していないのは明らかだった。肩が強張り、拳が握られている。
その様子を見て、誰かが口を挟んだ。
「ヒオ、お前はもう少し食った方がいいな。仕事ならねえ」
冗談めかした口調。だが、その言葉は刃だった。
ヒオの顔が歪む。
「……なんだよ、それ」
ヨルが再び声を出そうとした、その前に――。
「うるせえッ!」
怒号が響いた。
オルダだった。
年長者の声は、場を叩き潰す力を持っている。怒りを隠さない声。圧そのもののような威圧。
「ここで疑い合ってどうする。そんな奴はいねえと、俺は思いたい」
一拍、間が空く。
オルダは、全員を睨めつけた。
「……だがまあ。もしいるんだとしたら、覚悟はしておけ」
殺意と敵意が、隠されていない。
おそらく彼は容赦しない。
犯人探しはしない。だが、見つけたらどうなるかは、誰もが分かる言い方だった。
沈黙が落ちる。
各々口をつぐみ、作業へ戻る。
だが、空気は元に戻らないままだ。
コトは、喉の奥が乾くのを感じていた。
自分が、原因の一部だと分かっている。
それなのに、胸の奥にあるのは恐怖よりも、奇妙な冷静さだった。
――見つかっていない。
――自分が盗んだわけじゃない。
だが、それに自分が少しでも加担している事実が、今日は黙ったままの腹の底にあった。
作業が終わり、食事を終え、各々が寝所へ向かう。
廊下は暗く、音が少ない。
それでも昨日ほど怖くはない。
角を曲がった先に、アロットがいた。
何かを持っている気配。
はっきりとは見えない。
コトは足を止めなかった。
驚かないし、問いもしない。
ただ、視線だけを向ける。
アロットは、昨日と同じように立っていた。
「もってるのかな……」
いやいや、と首を振った。
これ以上進んだら戻れない。
だが一方で、どうすれば見つからないかを考えてしまう。
その考えが浮かんだ瞬間、コトは気づいてしまった。
もう、自分はここで生きるための選択を、考え始めている。
善悪ではなく。
感情でもなく。
ただ、明日を越えるために。




