10
コトは飛び上がるように目を覚ました。
確かに夢を見ていたはずだが、詳細は思い出せない。
索に巻かれた鎖が鳴り、目が冴える。
だが、その音は夢の中まで続いているようで、夢と現実の境界も曖昧になっていた。
頭の奥で、昨日の轟音が鳴り続けている。
爆鳴索の振動。
鋼索が風を切る音。
巻胴が唸り、ワイヤーが張った瞬間の、骨が引かれるような感覚。
耳鳴りが止まらない。
頭をガンガンと打ちつけ、正気を保とうとするが、側から見ればその光景が既に正気ではない。
コトは顔を洗う水の冷たさに救われる気がした。
冷たさはまだ「現実」のものだった。指先が赤くなる痛みは、昨日の音よりも信用できる。だが水を拭った後、ふと天井を見上げてしまい、すぐに視線を逸らした。
低い天井、梁、鎖。そして補修の痕。
そこに竜はいないのに、頭の中では巨大な影が通り過ぎる。
恐れるものが増えるたび、自分の身体がこの場所に馴染んでしまうようだった。
今日の仕事は「修繕と補充」だった。
迎撃の後始末。切られたワイヤーの回収。曲がった鉄鉤の仕分け。壊れた金具の入れ替え。資材置き場からの補充運搬。
釘、楔、板、縄、油。どれも一見するとただの物だが、この場所では命の部品だった。
コトは運搬の籠を背負い、狭い通路を行き来した。
今までは足元ばかり気にしていたが、今は無意識に歩けている瞬間があった。
足場はまっすぐではない。水平を信用してはいけないと、身体が覚え始めているのだろう。傾いた梁に支えられた床板を踏むとき、重心はいつもわずかに崖側逃げている。
ふと立ち止まると、耳鳴りが自分を追い越す。昨日の鳴き声が、風の音に化けて戻ってくる。コトは籠を置く手を止めず、板を運び、油を運び、指を擦りむいても口を開かなかった。
空腹が、遅れてやってくる。
腹が鳴る音が怖くて、息を殺し、腹を指圧する。
食事は決まった量が配られる。
二週間前の夜襲から、竜肉の配分も余裕がない。
誰も口にしないが、皆同じことを感じている。明らかに足りない。だが足りないと言える状況でもないし、コトは発言できる立場でもない。
コトは自分の胃が、空になっていくのを感じる。
ある一定を超えれば、気にならなくなるが、気が付けばまた空腹ばかりが頭にこびりつく。
身体が"次"を要求する。次がなければ死ぬのだと、身体が当然のように知っている。
昨日、竜を追い払ったというのに、今日の腹は満たされない。
コトは籠を置き、息を吐いた。
吐いた息が霧みたいに白く見えた気がして、喉が渇く。
ちゃんとしなくては。
その言葉は、祈りのように頭の中で繰り返された。祈りではない。頼りにするものがないから、言葉を繰り返すしかない。
生きるために。
コトはそこで、考えるのをやめた。
「何をしたか」を思い浮かべると、足が止まりそうだった。
頭痛が少し強くなった。
昨日の「逃すな」というヨルの声を思い出す。
はっきり聞こえたわけではない。だが、あの一言が現場を揺らしたのは覚えている。巻くのか切るのか。追い払うのか引くのか。迷いが生まれ、迷いが事故を呼ぶ寸前まで行った。
ヨルの中にも迷いや矛盾があるのだと再認識する。
だが、こんな些細な事でしか、人間性を認識できないヨルは、紛う事なき怪物であった。
しかし、悠長なことも言ってられない。
判断の余波は、今日の資材の山にまで残っている。切られたワイヤーは廃材の束になり、曲がった鉄鉤は再利用のために分けられ、擦り切れた滑車は交換待ちの列に並ぶ。
昨日の矛盾が、今日の現実として積み上がっている。
そんなとき、声が聞こえた。
近くではない。通路を挟んだ向こう側。壁の薄い区画。作業の合間にだけ、言葉が漏れる。
「……あの言葉が出るのは分かる」
イシュリアの声だった。低く、少し掠れている。
コトは手を動かしたまま、耳だけを向けた。
「出るのは分かるけどな。次も同じこと言ったら、死ぬぞ」
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ヨルの返事はすぐにはなかった。
しばらく、金属を叩く音が続いた。落とし床の縁で、補修の楔を打っているのだろう。
「……分かってる」
短い声。
言い訳はなく、謝罪もない。
それが、ヨルらしいとコトは思った。
イシュリアが小さく息を吐く音が聞こえた。
「分かってるならいい。……お前が竜を殺したいのも、分かってる」
その言葉は、優しさではない。慰めでもない。
ただ「知っている」と言っただけだ。理解者を名乗るわけでもない。だが、その一言は、責める言葉より強かった。
――竜を殺したい。
それはコトが初めて触れる、ヨルの心の中だった。
ヨルは返事をしなかった。
ただ、楔を打つ音がまた続いた。
コトは作業をしながら、その会話を飲み込んだ。
理解することはできない。だが、あの二人の間には、クウォーターでしか成立しない距離がある。年齢や立場では測れない。互いを信じているわけでもないのに、互いの「危うさ」を知っている距離。
____
「……最近、お前、変だぞ」
ヨルの声だった。
コトは資材束を抱えたまま、視線を動かした。
ヨルの前には、少し様子のおかしいヒオがいた。
疲弊した目、深い隈。年齢より幼く見える顔が、今は妙に硬く感じられた。
「そんなこと……」
ヒオは声を出すが、続ける言葉を持っていない。
その反射が、否定ではなく防衛に見える。
「……作業が荒い。声もでかい」
ヨルは責める口調ではなかった。昨日の迎撃後の余波を責める言い方ではない。事実を並べているだけだ。
ヨルがこうして向き合うことは少ない。
現場を動かす最適な言葉だけが、ヨルの表面であった。
ヒオは唇を噛んだ。
指先が微かに震えている。
「ちゃんとするよ」
その声に、焦りが混じる。
「信頼されたい」という焦り。
「見捨てられたくない」という焦り。
ヨルは一歩だけ近づいた。
近づきすぎない距離で止まる。肩を叩くわけでも、抱き寄せるわけでもない。そういう場所ではないことを、ヨルは知っている。
「ちゃんとしろ。……死ぬぞ」
言葉は硬いが、冷たくはなかった。
"お前が死ぬ"という意味が含まれているだけだった。
ヒオは何か言いかけて、やめた。
言葉が出ないのではない。出したら溢れてしまうから、飲み込んだように見えた。
ヨルもそれ以上踏み込まない。
踏み込むことが、救いになるか、そうでないかは、人それぞれであるからだ。
もし仮に救いになったとして、ヒオがそれに縋れば、余計に危うくなる。
コトは、視線を戻して資材を抱え直した。
手が滑り、木片が床に落ちそうになり、慌てて掴む。指先が痛み。心臓が跳ねる。
昼の作業は終わらない。
終わらないまま、夕方になった。
食事の時間が来る。
竜肉の皿が配られ、皆が黙って口に運ぶ。味はいつも同じだ。油と血と、鉄のような後味。噛めば噛むほど、身体が「これは生きるものだ」と理解していく。
コトも食べた。
食べたが、満腹にはならない。腹の底に薄い熱が落ちるだけで、すぐに空洞が戻る。身体がもっと欲しいと訴る。だが、欲しいと言える環境ではない。
皆も同じだと分かる。
同じだからこそ、誰も口にしない。
夜になると、怖さの形が変わる。
音が減る。
音が減ると、耳鳴りが大きくなる。
コトは寝所へ向かって歩いた。トボトボと、という言葉が似合う歩き方だった。
精神高にも肉体的にも疲労が蓄積していた。
空腹で頭がぼんやりする。耳の奥が痛い。崖側の風が強く、通路の板が僅かに揺れる。
ふとした瞬間に上を見てしまう。
梁の影に竜の影を重ね、慌てて視線を落とす。
そのとき、暗がりから声がした。
「ねえ」
軽い声。
場違いなほど軽い。
コトは足を止めた。心臓が一拍遅れて鳴る。
影が動いた。小柄な人影が、通路の端からぬるりと出てくる。
少女だった。
年はコトより少し若いか、同じくらい。髪は乱れていて、表情はやけに明るい。目が生きていて、ここでは珍しい種類の生気だ。
少女は、手の中に何かを持っていた。
小さな布包み。あるいは乾いた肉片。はっきりとは見えないが、食べ物であることだけは分かる。
「これ、食べる?」
コトは一瞬、息が止まった。
食べ物だ。
喉が震え、小さな音を立てた。
欲しい。
だが、どうしてここにそれがあるのか。
どうしてこんな時間に。
そんな思いが頭を過ぎるが、それはすぐに押し込られ、じわじわと身体が疼いた。
「……取ってきたの?」
多分これは、食べてはいけないものだ。
配られた数少ない食事を、誰かに分け与えられるほど余裕があるはずがない。
「どっちでもいいじゃん」
驚くほど呑気に、少女は笑った。何も悪いことをしていない顔で。
「いらないなら、いいけどさ」
コトは喉が鳴るのを感じた。
耳鳴りが、少し遠のいた気がした。
少女の名をコトはまだ知らない。
腹の奥が熱を帯びる。
善悪の区別が暗がりに溶け、コトの手がゆっくりと伸びた。
―――
ヒオ




