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 コトは飛び上がるように目を覚ました。

 確かに夢を見ていたはずだが、詳細は思い出せない。


 索に巻かれた鎖が鳴り、目が冴える。

 だが、その音は夢の中まで続いているようで、夢と現実の境界も曖昧になっていた。


 頭の奥で、昨日の轟音が鳴り続けている。


 爆鳴索の振動。

 鋼索が風を切る音。

 巻胴が唸り、ワイヤーが張った瞬間の、骨が引かれるような感覚。


 耳鳴りが止まらない。

 頭をガンガンと打ちつけ、正気を保とうとするが、側から見ればその光景が既に正気ではない。


 コトは顔を洗う水の冷たさに救われる気がした。

 冷たさはまだ「現実」のものだった。指先が赤くなる痛みは、昨日の音よりも信用できる。だが水を拭った後、ふと天井を見上げてしまい、すぐに視線を逸らした。


 低い天井、梁、鎖。そして補修の痕。

 そこに竜はいないのに、頭の中では巨大な影が通り過ぎる。


 恐れるものが増えるたび、自分の身体がこの場所に馴染んでしまうようだった。


 今日の仕事は「修繕と補充」だった。


 迎撃の後始末。切られたワイヤーの回収。曲がった鉄鉤の仕分け。壊れた金具の入れ替え。資材置き場からの補充運搬。

 釘、楔、板、縄、油。どれも一見するとただの物だが、この場所では命の部品だった。


 コトは運搬の籠を背負い、狭い通路を行き来した。

 今までは足元ばかり気にしていたが、今は無意識に歩けている瞬間があった。

 足場はまっすぐではない。水平を信用してはいけないと、身体が覚え始めているのだろう。傾いた梁に支えられた床板を踏むとき、重心はいつもわずかに崖側逃げている。


 ふと立ち止まると、耳鳴りが自分を追い越す。昨日の鳴き声が、風の音に化けて戻ってくる。コトは籠を置く手を止めず、板を運び、油を運び、指を擦りむいても口を開かなかった。


 空腹が、遅れてやってくる。

 腹が鳴る音が怖くて、息を殺し、腹を指圧する。


 食事は決まった量が配られる。

 二週間前の夜襲から、竜肉の配分も余裕がない。

 誰も口にしないが、皆同じことを感じている。明らかに足りない。だが足りないと言える状況でもないし、コトは発言できる立場でもない。


 コトは自分の胃が、空になっていくのを感じる。

 ある一定を超えれば、気にならなくなるが、気が付けばまた空腹ばかりが頭にこびりつく。

 身体が"次"を要求する。次がなければ死ぬのだと、身体が当然のように知っている。

 昨日、竜を追い払ったというのに、今日の腹は満たされない。


 コトは籠を置き、息を吐いた。

 吐いた息が霧みたいに白く見えた気がして、喉が渇く。


 ちゃんとしなくては。


 その言葉は、祈りのように頭の中で繰り返された。祈りではない。頼りにするものがないから、言葉を繰り返すしかない。


 生きるために。


 コトはそこで、考えるのをやめた。

「何をしたか」を思い浮かべると、足が止まりそうだった。


 頭痛が少し強くなった。


 昨日の「逃すな」というヨルの声を思い出す。

 はっきり聞こえたわけではない。だが、あの一言が現場を揺らしたのは覚えている。巻くのか切るのか。追い払うのか引くのか。迷いが生まれ、迷いが事故を呼ぶ寸前まで行った。


 ヨルの中にも迷いや矛盾があるのだと再認識する。

 だが、こんな些細な事でしか、人間性を認識できないヨルは、紛う事なき怪物であった。


 しかし、悠長なことも言ってられない。

 判断の余波は、今日の資材の山にまで残っている。切られたワイヤーは廃材の束になり、曲がった鉄鉤は再利用のために分けられ、擦り切れた滑車は交換待ちの列に並ぶ。

 昨日の矛盾が、今日の現実として積み上がっている。


 そんなとき、声が聞こえた。


 近くではない。通路を挟んだ向こう側。壁の薄い区画。作業の合間にだけ、言葉が漏れる。


「……あの言葉が出るのは分かる」


 イシュリアの声だった。低く、少し掠れている。

 コトは手を動かしたまま、耳だけを向けた。


「出るのは分かるけどな。次も同じこと言ったら、死ぬぞ」


 責めているわけでも、怒っているわけでもない。


 ヨルの返事はすぐにはなかった。


 しばらく、金属を叩く音が続いた。落とし床の縁で、補修の楔を打っているのだろう。


「……分かってる」


 短い声。

 言い訳はなく、謝罪もない。

 それが、ヨルらしいとコトは思った。


 イシュリアが小さく息を吐く音が聞こえた。


「分かってるならいい。……お前が竜を殺したいのも、分かってる」


 その言葉は、優しさではない。慰めでもない。

 ただ「知っている」と言っただけだ。理解者を名乗るわけでもない。だが、その一言は、責める言葉より強かった。


――竜を殺したい。

 

 それはコトが初めて触れる、ヨルの心の中だった。


 ヨルは返事をしなかった。

 ただ、楔を打つ音がまた続いた。


 コトは作業をしながら、その会話を飲み込んだ。

 理解することはできない。だが、あの二人の間には、クウォーターでしか成立しない距離がある。年齢や立場では測れない。互いを信じているわけでもないのに、互いの「危うさ」を知っている距離。



____





「……最近、お前、変だぞ」


 ヨルの声だった。

 コトは資材束を抱えたまま、視線を動かした。


 ヨルの前には、少し様子のおかしいヒオがいた。

 疲弊した目、深い隈。年齢より幼く見える顔が、今は妙に硬く感じられた。


「そんなこと……」


 ヒオは声を出すが、続ける言葉を持っていない。

 その反射が、否定ではなく防衛に見える。


「……作業が荒い。声もでかい」


 ヨルは責める口調ではなかった。昨日の迎撃後の余波を責める言い方ではない。事実を並べているだけだ。


 ヨルがこうして向き合うことは少ない。

 現場を動かす最適な言葉だけが、ヨルの表面であった。


 ヒオは唇を噛んだ。

 指先が微かに震えている。


「ちゃんとするよ」


 その声に、焦りが混じる。

「信頼されたい」という焦り。

「見捨てられたくない」という焦り。


 ヨルは一歩だけ近づいた。

 近づきすぎない距離で止まる。肩を叩くわけでも、抱き寄せるわけでもない。そういう場所ではないことを、ヨルは知っている。


「ちゃんとしろ。……死ぬぞ」


 言葉は硬いが、冷たくはなかった。

 "お前が死ぬ"という意味が含まれているだけだった。


 ヒオは何か言いかけて、やめた。

 言葉が出ないのではない。出したら溢れてしまうから、飲み込んだように見えた。


 ヨルもそれ以上踏み込まない。

 踏み込むことが、救いになるか、そうでないかは、人それぞれであるからだ。

 もし仮に救いになったとして、ヒオがそれに縋れば、余計に危うくなる。


 コトは、視線を戻して資材を抱え直した。

 手が滑り、木片が床に落ちそうになり、慌てて掴む。指先が痛み。心臓が跳ねる。


 昼の作業は終わらない。

 終わらないまま、夕方になった。


 食事の時間が来る。

 竜肉の皿が配られ、皆が黙って口に運ぶ。味はいつも同じだ。油と血と、鉄のような後味。噛めば噛むほど、身体が「これは生きるものだ」と理解していく。


 コトも食べた。

 食べたが、満腹にはならない。腹の底に薄い熱が落ちるだけで、すぐに空洞が戻る。身体がもっと欲しいと訴る。だが、欲しいと言える環境ではない。


 皆も同じだと分かる。

 同じだからこそ、誰も口にしない。


 夜になると、怖さの形が変わる。


 音が減る。

 音が減ると、耳鳴りが大きくなる。


 コトは寝所へ向かって歩いた。トボトボと、という言葉が似合う歩き方だった。

 精神高にも肉体的にも疲労が蓄積していた。

 空腹で頭がぼんやりする。耳の奥が痛い。崖側の風が強く、通路の板が僅かに揺れる。


 ふとした瞬間に上を見てしまう。

 梁の影に竜の影を重ね、慌てて視線を落とす。


 そのとき、暗がりから声がした。


「ねえ」


 軽い声。

 場違いなほど軽い。


 コトは足を止めた。心臓が一拍遅れて鳴る。

 影が動いた。小柄な人影が、通路の端からぬるりと出てくる。


 少女だった。

 年はコトより少し若いか、同じくらい。髪は乱れていて、表情はやけに明るい。目が生きていて、ここでは珍しい種類の生気だ。


 少女は、手の中に何かを持っていた。

 小さな布包み。あるいは乾いた肉片。はっきりとは見えないが、食べ物であることだけは分かる。


「これ、食べる?」


 コトは一瞬、息が止まった。


 食べ物だ。

 喉が震え、小さな音を立てた。


 欲しい。


 だが、どうしてここにそれがあるのか。

 どうしてこんな時間に。


 そんな思いが頭を過ぎるが、それはすぐに押し込られ、じわじわと身体が疼いた。


「……取ってきたの?」


 多分これは、食べてはいけないものだ。

 配られた数少ない食事を、誰かに分け与えられるほど余裕があるはずがない。


「どっちでもいいじゃん」


 驚くほど呑気に、少女は笑った。何も悪いことをしていない顔で。


「いらないなら、いいけどさ」


 コトは喉が鳴るのを感じた。

 耳鳴りが、少し遠のいた気がした。


 少女の名をコトはまだ知らない。


 腹の奥が熱を帯びる。

 善悪の区別が暗がりに溶け、コトの手がゆっくりと伸びた。



―――


ヒオ


挿絵(By みてみん)

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