軍人刻苦
ー上ー
一対の夫婦は、縁側にて一枚の絵をみていた。
「この日になると、胸が苦しくなりますわ。」
「そうだな。」
桃の花が咲き乱れる、きれいな昼であった。夫はそれを見て、懺悔する。
ー中ー
私は軍人であった。日々、国のために精進していた。
ある日、外で行進をしていた。皆、私たちを見、尊敬していた。しかし、一人だけ興味を示さない女の人がいたのだ。後ろを向いて、あたかも私たちがいないように何処かを眺めている。
それからちょうど私は、病院へ書類を持って行かなくてはならなかったので、ほかの軍人と共に赴いた。
するとそこには、あの女の人がいた。
「どうした。」
私が見つめていると、隣の人が声を掛けてきた。声をする方へと見上げる。
「なにもない。」
「そうか。」
隣人は顔を正面に向け始めると、思い出したように声を上げた。
「あの女……もしかして行進の時分に僕たちを無視したやつか。」
ひとりごとに答える間柄でもなかったので、私は黙って過ごした。
それから、私たちは書類を提出し、寮へ帰った。
目を閉じ、こんな事を思い出す。
「ねえ、わたしたち一緒になれるかしら。」
「分からない。」
それは、私が軍に入る前の頃であった。
彼女は私の婚約者であった。最近流行りの柄を着て、第一に私に自慢していた。
「わたし、貴方がいなくなったら寂しい。」
彼女が泣きそうな顔になったとたん、急に罪悪が私を押し付ける。
「もし私が帰ってきたら、私と結婚いたしましょう。」
私は咄嗟にこう告げた。
「ええ。必ずよ。嘘は嫌よ。」
似ていた。行進をしている際に遠くを眺めていた女の人が、あの噓の告白の彼女に似ていたのだ。
私は生きて帰ったのなら、彼女に会わず、生涯別人として生きていこうと誓った。
今日は空が高く、雲がない丸であった。
「空は美しいのに、人は汚い。」
隣の同僚が呟く。
「なあ、お前、大切な人はいるのか。」
「言ってどうする。」
「親交を深めあうのだ。」
私は嘘をまた吐いた。彼女を愛していると言う。
同僚は驚きながらも、私の話を聞いた。
「そうなのだな。お互い高め合って、生きて帰ろう。」
後にこの男は死んだ。思い人を残して死んだ。私が死んだ方がましではないかと、毎晩悔やみに悔やんだ。
そして私は、彼女の言葉を思い出す。
「貴方が生きて帰れないのなら、わたし、死んでもいいわ。」
「どうして。」
「貴方がいないのは退屈だもの。数年なんていくらでも待つから、生きてちょうだい。悲しいのは嫌。嫌よ。」
そうだ、彼女の言葉は美しかった。私は浅はかにも再び言葉を聞きたいと思った。
私は罪人だ。私は彼女を愛していないのに、周りは皆、愛している者がいて、待っていると花に言われ、羨ましかったのだ。それでも尚、彼女はうつくしく、又、綺麗であった。
私は彼女のことを思いながら、日々を過ごした。折れそうな時も、お呪いのように輝いた。
そして軍人は生きて帰った。
腕や足にも包帯が巻かれ、手の感覚が麻痺していた。幸いにも四肢すべて付いている。
「おはようございます。」
この看護婦は、私に好意を抱いているのは、密かに知っていた。常に私の部屋にいては、「大丈夫。」と眉をひそめて覗いてくるのだ。
「よかったですね。こんないいところに病室があって。軍人さんは運が良かったのですよ。」
この病室には、私一人であった。
「そういえば、先日、何故女の方が見舞いに来られたのに、お引き取り願ったの。」
軍人は窓の外を眺めていた。
「ね、どうして。女性よ。」
「噓を吐くのは罪人か。」
看護婦の手が止まる。
「いいえ。優しい噓もありますもの。」
また、看護婦は執拗に軍人へ問いかける。
「ね、けれどもどうして。どうして亡くなった迄噓を吐いたの。愛していないの。」
私は体が自由に動けるようになった頃、幾度か病院を抜け出した。
ちょうど私は橋の上にて、水の流れゆく行き先を眺めていた。
「日本は負けたのか。」
新聞が川の上に浮かんでいたのである。
こうやって何でも川に捨てていると、数年後には自然と言うものが無くなるだろう。
「軍人さん。また逃げ出したのね。まだ回復してないのに。」
看護婦が私の隣に来る。
「川ね。川は危険よ。今の貴方にとっては危険なの。」
私はその後、看護婦に連れて行かれた。
「軍人さん、またあの女性がご訪問なされていますよ。どうします。」
この質問の時間が、私の生きている証拠であった。彼女は勘付くであろう。
「通さないでくれ。」
「わかりました。」
理由も知らない看護婦は悲しい顔をし、私を悪者にした。
看護婦が数分すると帰ってきた。気がつくと、私の部屋で編み物の続きをしている。
「あの女の人、貴方が生きている事を分かってらっしゃるわ。もう何故会うのが嫌なの?」
「私はもう軍人ではないのだ。」
看護婦は私の顔を見た。
「そうね。もう終わったもの。」
会話はこれ切りで終わった。しかし、看護婦はまだ話したりなさそうに私は二度三度、見つめてきた。
「貴方はどこの人。」
看護婦に言う必要もなかった。
「貴方はこれからどうするの。」
私でも分からない。と口の中で呟く。一度、両親が見舞いに来た時も、何も答えられなかった。
「僕が居なくなったら、貴方はどうするのだ。」
「分からない。」
看護婦は少し頬を赤らめて、私を眺めた。
「貴方が居なくなったら、ねえ、わたし、どうすればいいか分からないわ。」
彼女とはまた違った答えであった。人というものは同じ生物なのにこんなにも考えが違うのかと、内心おどろく。
「そうか。」
少しの沈黙の後、看護婦が呼び出されたので、私一人、病室に取り残された。
私は紙と鉛筆がないか他の看護婦に聞こうと、廊下へ出た。そしてその自由をもらい、帰路を辿っていると、看護婦二人がいた。誰かの陰口をいっているようであった。妙に盛り上がっている。私は音を立てないように、その場を離れた。ちょっと行った所に、あの例の看護婦がいた。
「乙女が泣いているのに、貴方は何もしないのね。」
私は何も言わなかった。そして看護婦に一種の羨望した。しかし、それはすぐに泡のように消えて私は、自室へ戻ろうと足を運んだ。
「ね、ちょっと待って。わたし、貴方といる時間がうれしいの。ね、だからお願い。」
「泣いているのに。」
看護婦は目を少し見開いた。その動作すら、しなやかである。そして、私にはまだ心があったようだ。看護婦にこう投げかけた。
「僕の部屋に来い。」
部屋に戻ると、看護婦はけろっとして先刻までの涙は出さなかった。
「ね、貴方、ほんとは優しいのね。」
いつもは部屋の隅で編み物ばかりするのに、今回は私の隣に座った。
「ね、わたし、綺麗な恋がすきなの。純愛っていうのかしら。学生にしか味わえないのよ。」
看護婦は、ね、ね、とまた連呼する。興奮するとそういう癖があるらしい。
私は外の木についている枯れ葉を眺めていた。
「すてき。ね、貴方は恋についてどうお考え?」
平生、私は看護婦の問いを無視していた。一人になりたかったからである。けれどもそれは、無意識のうちにしていた。
私は看護婦に聞いた。
「貴方は恋をしていますか。」
看護婦は頬を赤らめた。
「恋って……ねえ。貴方はどうなの。」
「していない。」
私は事実を知っていた。
「そ。」
看護婦は、再び顔を赤らめて俯いた。
私は再び、病院を抜け出した。橋の下でうずくまっていた。
こんなにも、抜け出したら病院から退出願を出されるかもしれない。
「彼女はどうしているだろうか。」
私は平生の癖で、彼女のことを思い出した。全ての記憶において、彼女は艶やかであった。
すると自然と涙が溢れ出てくる。拭って拭ったけれども、うめき声だけが、無常に響いただけであった。
「大丈夫。」
見上げると、看護婦がいた。長い間、散髪にも出かけていない髪は長くなってしまった。
「なにかあったのでしょう。大丈夫。」
私はすぐさま、涙を引っ込めて、川の方へ視線をやる。自分でも強がりたいのか、将又、他人に惨めな姿を見られたくないからなのか分からなかった。
「ねえ。」
看護婦は私の髪を耳にかけようと触った。私はそれを払い除けた。
「もう。女の子一人、満足させれないの。」
横目で看護婦を睨みつけた。私はそうするしか、抵抗の仕方が見つからなかったのだ。
「貴方は無口ね。これじゃ、貴方を好きな人も離れちゃう。いいの。」
この看護婦は心理学を知らない。
「貴方は私のどこがいいのだ。」
「そりゃあね……看護婦だもの。」
私は看護婦に接吻をした。看護婦は真っ赤になって、硬直した。
「貴方はわたしがいいの?」
病室に帰ってから、看護婦は固まって動かない。
「ね、あの女の人は貴方の何なの。どうして私にキスをしたの。」
看護婦は俯いたまま、足のつま先をいじっていた。
「貴方がどう思っているか、私には分からないが、彼女は私の婚約者だ。」
すると看護婦の手が止まった。
「婚約者?だってあの女の人……」
そしてもう一度、その言葉を繰り返した。思い出すごとに、その記憶は美しく、儚く、幽かになってゆく。
「彼女は私の婚約者だ。」
翌日。病院のすぐ近くに池があるので、看護婦となら良いと病院から許可がおりた。しずかに二人で歩く。
「ねえ、知ってる? あのね、川で男女が心中したらしいわよ。新聞にでかでかと載られていたもの。それがね、他殺だと言うんですよ。」
看護婦は誰かとは言わなかった。ただ、どうでも良い事を話していた。たった二人亡くなっても、数週間後、世間はまた動くのだ。それは冷淡と捉えることもできるが、そうしないと、世間が衰えていく。
「誰かが男女を殺害して、川に沈めたって先輩が言っていたの。本当かしら。ね、貴方、どう思って。」
「小説の話の方が好い。」
看護婦が、私のとなりへ小走りで来た。見下げるという気力も起こらない。
「そうね。」
看護婦が小説に興味がないことは知っていた。知った上で投げかけたのだ。私は看護婦の先を歩く。二周も三周も大きい私の体は、看護婦を置いて行くことは、手で虫を潰すくらい、単簡なことである。
この池は、誰一人歩いていなかった。鳥のさえずりすら、木の葉の音すら聞こえなかったのだ。ただ、下駄の音が鳴っている。
看護婦は私を見失ったのか、ついて来なくなった。
「どうして。」
遠い、背後の方から声がした。
振り向くと、そこには彼女がいた。彼女は記憶と同じ身なりをしていた。けれども、私が贈った装飾品などは一向に見つからない。
「どうして拒んだの。ねえ、貴方。約束したじゃない。知ってる?一から病院を探し回って、貴方を探したのよ。」
不規則に一歩一歩、彼女は私に近付いた。
「どうして。ねえ、どうして。」
「貴方はもう結婚したのでしょう。」
烏がなく。
「それでも貴方を忘れなかったわ。」
「それでは、貴方と僕の約束は、亡くなったのでしょうか。僕は貴方のことをずっと思っていたのに。」
私は理性を忘れて、闇雲に怒鳴ってしまった。
「なぜ知ってるの。ご両親から聞いたの。」
彼女の指輪が光った。これも、流行りの贈り物なのであろう。
「もういい。貴方とは金輪際会わない。」
私は走った。病室へと早く帰りたかったのだ。誰もいないところで一人、生きたかったのだ。
去り際に彼女はこういった。
「にげた。」
病室に帰って布団にくるまりながら、泣いた。
なんて自分は惨めなのだろうと。私は彼女を愛していないのに、また噓をついてしまった。記憶が洗礼されていたのだ。辛い時分に、美しい過去を思い出すから、回数を増すごとに美化されていったのだ。
私は池で彼女に会う前に、とくにもう知らされていた。両親に告げられていた。「あの子はもう結婚した。」と。それを聞いて、私は或る一種の解放感を得た。真に愛していない彼女を、もう愛する必要がないのだと。そして私の悪な心を、晒さずに済むのだと。
それから、私は何故泣いたのか分からなかった。ただ只管人と関わりたくなかったのだ。もう疲れ切っていた。どこでもいいから、少しの時間だけ、一人で生きたかったのだ。
この日、看護婦は私の部屋へと来なかった。
翌日、看護婦が恐る恐る、私の部屋に入ってきて健康を確認した。
私の体はみるみる元気になっていき、もう退院間近であった。
「もうすぐ、近くの活動写真館で新作が公開されるらしいのよ。」
桃の花が三分咲きになっている。私が退院するころには、満開になっているであろう。
「ね、貴方。いつも窓の外をご覧になってどこを見ているの。貴方は人間より、よほど自然の方がすきなのね。」
看護婦の方へ見上げると、それはまた美しく、さっき眺めていた窓からの斜陽に当たり、少し眩しそうに顔をしかめても尚、笑っていた。自然を眺めるとはまた別の高揚感を得た。
「どうして貴方は僕にかまうのだ。そりゃあ看護婦だからかもしれないが、何故そのように接するのだ。」
「わたしは世渡りが上手いのよ。」
看護婦は「けど、ね、貴方は例外。」と聞こえもしない声で付け足した。
「例外と言うのは。」
「もう、今日はとっても喋るのね。ここで終い。今日はここでおよしよ。」
私はベッドの上で胡座をかいた。私は看護婦と同じように、腹に向かって呟いた。
「どうして。」
看護婦が何も言わないので、不思議になって顔を上げた。すると看護婦は、私の口に接吻をしかける。私がとっさに遮断したからそれは免れた。
「どうして。ね、どうして。」
看護婦は再び私と同じ言葉を繰り返す。下唇を突き上げ、今にも泣きそうな声で震えた。
「貴方はどうして。」
数日後、友人がやって来ていきなり泊まると言い張るのだ。この友人は幼馴染の、正義や根性がやたらと好きな男である。そのくせ、眼鏡をしていて豪酒であった。
そしてその友人は私に耳打ちをする。裕福な家庭だから友人からはいつも花の匂いがした。
「なあ、あの看護婦なぜお前の部屋にいつもいるのだ。」
「知らない。」
私は長い髪の毛をいじりながら、知らん振りをした。この時もまた、胡座をかいている。
「なあ、看護婦さん。なぜここに留まるのかい。」
「なぜって、わたしは看護婦ですもの。」
「理由になってないな。」
やれやれという顔で、私の方へ投げかける。
「しっかし、お前、知ってるだろうと思うけれども新しい映画が公開されている。俺はあの近くに行ったが、それまた盛況でな。俺たちも行こうよ。」
私は、友人となら行きたかったけれども今は看護婦がいるから、本音を言えずに口噤んでいた。看護婦はもうそろそろ終わりかけの編み物を、だまって編んでいる。
「いかない。」
「そうか。お前は雑誌も小説も読まないもんな。」
噓。私の噓が第三者によって暴かれた。しかも、第三者は悪意なく噓をついたことも知らずに。
訂正しようと思ったら、看護婦が他の看護婦に呼ばれてどこかへ行ってしまった。この噓はもう弁明できない。また他の場所で、もう一度その話題を看護婦の前でしても、言い訳にしか聞こえないからである。
私は人として、大きな過ちを犯した。
「あの女はどうなったんだ。」
「彼女か。あの子と金輪際会わない。」
「そうか。」
友人は私の表情を察したのか、これ以上何も言わなかった。
「いつか話す。」
「殺そうとは思わなかったのか。」
どこかで生活の音がした。
「思わない。僕以上に仕合わせでもいいから、僕の目の前に現れてほしく無いんだ。」
「俺は殺す。」
「そうか。」
私は苦笑しながら、友人の豪快さに感服した。
「常日頃、そう言って現実になると怖くないか。僕のせいでその人は命を絶ったかもしれないと。」
「思わない。」
私はまた苦笑した。そして、友人も続けて笑った。
「あの看護婦、お前に恋をしているな。」
「そうかな。」
「俺が言うからにはそうだ。あれは恋さ。」
夜になってからでも、こういうくだらない会話で持ち越した。いつもより三時間ほど遅く眠った。
翌日、寝ぼけ眼で私はまた窓の外を眺めていると、ドアの向こうから看護婦と友人が話していた。
「ね、ご友人さん。あの人の彼女ってどう言う人なの。」
「知らない。」
「噓よ。ね、正直に言ってちょうだい。」
「どうしてそんなに知りたがる。本人に聞きゃいいではないか。」
「本人には聞きにくいわ。」
「俺は知らない。」
「ね、ほんと。ね。」
「知らねえ!」
気がつくと友人は半分、部屋の中へ入っていた。
「違うのよ。だって女の人が嘘の人って言ってたもの。ほんとよ。」
見切れている看護婦と目が合う。
「知らねえ!」
友人は勢いよくドアを閉めて、なんだあいつとか小言を言いながら、床をどんどん鳴らして私のベットへ座った。私はその反動で揺れる。
「なにがあったのだ。」
「あの女が執念にお前のことを聞いてくるのだ。ああ、馬鹿馬鹿しい。」
友人は荒く新聞を取り、しかめっ面でそれを読む。ぶつぶつとまた愚痴をこぼした。
「噓ってなんだ。嘘なんか。」
私は内心、とても焦っていた。女には直ぐにばれ、男には直ぐにばれない。あわよくば、自分をよく見えるように話すように考えていたのに、その計画が崩れた。墓場まで持っていく予定であったのに。
「なあ、あの女はやめとけ。」
私はただ笑っていた。
「なにへらへらしてやがる。お前も女と一所なのか。反吐が出るね。」
「一所ではない。」
「お前、あの女を好いているのか。」
「いいや、好いてはいない。」
「なんだお前、さっきから曖昧な返事ばかりしやがって。」
私はにまにま笑っていた。すると友人もつられてにまにま笑った。
「なに。何がそんなにおかしい。」
「あら、ご友人さんはどこへ。」
「もう帰った。」
「けどここに鞄が。まあ、忘れ物だわ。大変。」
「おい、紙屑がねえぞ。厠に紙屑もねえのか。」
友人は本当はいた。私は偽って噓の人と成ることにした。
「あら、まあ、ね。貴方、噓をついたのね。噓。」
「なに笑ってるのだ。なんの話をしていた。教えてくれ。」
「他愛のない話だよ。」
「それがあね。噓をつかれたのよ。貴方、もしかして化け狸かしら。いやあね。」
「噓は駄目だ。男たるもの、噓なぞついちゃいかん。分かったか。」
「うん。」
「いやあ、しかし。」と友人はソフアにもたれかかる。
「今は恋の話が盛んであるな。」
「どうして。」
看護婦が問う。
「この時期は皆、人肌が恋しいんだ。俺も恋がしたい。ああ、したいね。な、深いだろう。」
「いやあだ、なにそれ。全然。」
「看護婦は嫁に貰わないのか。」
「もらうの、もらわないのって、わたし、なにも御座いませんわ。」
「じゃあ、俺の元にくるか。」
私は二人の間を眺めた。先刻まで、看護婦のことは信じられないと嘆いていたのに。人と言うものは、自分の利益のみを考えるものなのか。
「いいえ。」
看護婦は頬を赤らめる。
「わたしには好きな人がいますもの。ね、貴方はいないの。」
「駄目だ。こいつは何にも話さん。」
友人はまた、駄目だ駄目だと繰り返す。仲が良くなった二人は輝かしく見える。
私は眠くなったので、話声を聞きながら、そのまま眠ってしまった。
起きると、夕方ごろであった。教室の休み机のような儚さを感じた。
友人と目が合う。
「お、起きたのだな。あの娘は意外と好いな。いやあ、活動写真館に行く約束もしちまった。お前、行かないだろう。」
「うん。」
私は本当はいきたかった。気紛れに窓の外を眺めた。桃の花の蕾が美しく彩っている。あの小さな一粒一粒にはたくさんの花弁が詰まっているだろう。
「なあ、もし悪口を吐いたやつは、当事者が死んだら、どうするのだろう。」
「怒っているのか。」
「いいや。単純な疑問だ。」
「懺悔するさ。」
「当事者がほら吹きだったとしてもか。」
「ああ。人だからな。」
桃の花はいつ咲くだろうか。
「そうか。」
ー下ー
もう日が暮れる頃、妻は桃の花を眺めている夫に問いた。
「ねえ、何故あの人は亡くなったのかしら。」
「俺がそうさせてしまったのだ。」
「そんなことはないわ。」
「噓はついてないさ。」
「ただ、」と夫が言う。
「友として、いや、人としてあいつは可哀想だ。」




