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軍人刻苦

作者: あ行
掲載日:2025/12/18

ー上ー

 一対の夫婦は、縁側にて一枚の絵をみていた。

「この日になると、胸が苦しくなりますわ。」

「そうだな。」

 桃の花が咲き乱れる、きれいな昼であった。夫はそれを見て、懺悔する。


  

ー中ー

 私は軍人であった。日々、国のために精進していた。

 ある日、外で行進をしていた。皆、私たちを見、尊敬していた。しかし、一人だけ興味を示さない女の人がいたのだ。後ろを向いて、あたかも私たちがいないように何処かを眺めている。

 それからちょうど私は、病院へ書類を持って行かなくてはならなかったので、ほかの軍人と共に赴いた。

 するとそこには、あの女の人がいた。

「どうした。」

 私が見つめていると、隣の人が声を掛けてきた。声をする方へと見上げる。

「なにもない。」

「そうか。」

 隣人は顔を正面に向け始めると、思い出したように声を上げた。

「あの女……もしかして行進の時分に僕たちを無視したやつか。」

 ひとりごとに答える間柄でもなかったので、私は黙って過ごした。

 それから、私たちは書類を提出し、寮へ帰った。

 目を閉じ、こんな事を思い出す。

「ねえ、わたしたち一緒になれるかしら。」

「分からない。」

 それは、私が軍に入る前の頃であった。

 彼女は私の婚約者であった。最近流行りの柄を着て、第一に私に自慢していた。

「わたし、貴方がいなくなったら寂しい。」

 彼女が泣きそうな顔になったとたん、急に罪悪が私を押し付ける。

「もし私が帰ってきたら、私と結婚いたしましょう。」

 私は咄嗟にこう告げた。

「ええ。必ずよ。嘘は()よ。」

 似ていた。行進をしている際に遠くを眺めていた女の人が、あの噓の告白の彼女に似ていたのだ。

 私は生きて帰ったのなら、彼女に会わず、生涯別人として生きていこうと誓った。



 今日は空が高く、雲がない丸であった。

「空は美しいのに、人は汚い。」

 隣の同僚が呟く。

「なあ、お前、大切な人はいるのか。」

「言ってどうする。」

「親交を深めあうのだ。」

 私は嘘をまた吐いた。彼女を愛していると言う。

 同僚は驚きながらも、私の話を聞いた。

「そうなのだな。お互い高め合って、生きて帰ろう。」

 後にこの男は死んだ。思い人を残して死んだ。私が死んだ方がましではないかと、毎晩悔やみに悔やんだ。

 そして私は、彼女の言葉を思い出す。

「貴方が生きて帰れないのなら、わたし、死んでもいいわ。」

「どうして。」

「貴方がいないのは退屈だもの。数年なんていくらでも待つから、生きてちょうだい。悲しいのは()。嫌よ。」

 そうだ、彼女の言葉は美しかった。私は浅はかにも再び言葉を聞きたいと思った。

 私は罪人だ。私は彼女を愛していないのに、周りは皆、愛している者がいて、待っていると花に言われ、羨ましかったのだ。それでも尚、彼女はうつくしく、又、綺麗であった。

 私は彼女のことを思いながら、日々を過ごした。折れそうな時も、お呪いのように輝いた。



 そして軍人は生きて帰った。

 腕や足にも包帯が巻かれ、手の感覚が麻痺していた。幸いにも四肢すべて付いている。

「おはようございます。」

 この看護婦は、私に好意を抱いているのは、密かに知っていた。常に私の部屋にいては、「大丈夫。」と眉をひそめて覗いてくるのだ。

「よかったですね。こんないいところに病室があって。軍人さんは運が良かったのですよ。」

 この病室には、私一人であった。

「そういえば、先日、何故女の方が見舞いに来られたのに、お引き取り願ったの。」

 軍人は窓の外を眺めていた。

「ね、どうして。女性よ。」

「噓を吐くのは罪人か。」

 看護婦の手が止まる。

「いいえ。優しい噓もありますもの。」

 また、看護婦は執拗に軍人へ問いかける。

「ね、けれどもどうして。どうして亡くなった迄噓を吐いたの。愛していないの。」



 私は体が自由に動けるようになった頃、幾度か病院を抜け出した。

 ちょうど私は橋の上にて、水の流れゆく行き先を眺めていた。

「日本は負けたのか。」

 新聞が川の上に浮かんでいたのである。

 こうやって何でも川に捨てていると、数年後には自然と言うものが無くなるだろう。

「軍人さん。また逃げ出したのね。まだ回復してないのに。」

 看護婦が私の隣に来る。

「川ね。川は危険よ。今の貴方にとっては危険なの。」

 私はその後、看護婦に連れて行かれた。


「軍人さん、またあの女性がご訪問なされていますよ。どうします。」

 この質問の時間が、私の生きている証拠であった。彼女は勘付くであろう。

「通さないでくれ。」

「わかりました。」

 理由も知らない看護婦は悲しい顔をし、私を悪者にした。

 看護婦が数分すると帰ってきた。気がつくと、私の部屋で編み物の続きをしている。

「あの女の人、貴方が生きている事を分かってらっしゃるわ。もう何故会うのが嫌なの?」

「私はもう軍人ではないのだ。」

 看護婦は私の顔を見た。

「そうね。もう終わったもの。」

 会話はこれ切りで終わった。しかし、看護婦はまだ話したりなさそうに私は二度三度、見つめてきた。

「貴方はどこの人。」

 看護婦に言う必要もなかった。

「貴方はこれからどうするの。」

 私でも分からない。と口の中で呟く。一度、両親が見舞いに来た時も、何も答えられなかった。

「僕が居なくなったら、貴方はどうするのだ。」

「分からない。」

 看護婦は少し頬を赤らめて、私を眺めた。

「貴方が居なくなったら、ねえ、わたし、どうすればいいか分からないわ。」

 彼女とはまた違った答えであった。人というものは同じ生物なのにこんなにも考えが違うのかと、内心おどろく。

「そうか。」

 少しの沈黙の後、看護婦が呼び出されたので、私一人、病室に取り残された。

 私は紙と鉛筆がないか他の看護婦に聞こうと、廊下へ出た。そしてその自由をもらい、帰路を辿っていると、看護婦二人がいた。誰かの陰口をいっているようであった。妙に盛り上がっている。私は音を立てないように、その場を離れた。ちょっと行った所に、あの例の看護婦がいた。

「乙女が泣いているのに、貴方は何もしないのね。」

 私は何も言わなかった。そして看護婦に一種の羨望(せんぼう)した。しかし、それはすぐに泡のように消えて私は、自室へ戻ろうと足を運んだ。

「ね、ちょっと待って。わたし、貴方といる時間がうれしいの。ね、だからお願い。」

「泣いているのに。」

 看護婦は目を少し見開いた。その動作すら、しなやかである。そして、私にはまだ心があったようだ。看護婦にこう投げかけた。

「僕の部屋に来い。」

 部屋に戻ると、看護婦はけろっとして先刻までの涙は出さなかった。

「ね、貴方、ほんとは優しいのね。」

 いつもは部屋の隅で編み物ばかりするのに、今回は私の隣に座った。

「ね、わたし、綺麗な恋がすきなの。純愛っていうのかしら。学生にしか味わえないのよ。」

 看護婦は、ね、ね、とまた連呼する。興奮するとそういう癖があるらしい。

 私は外の木についている枯れ葉を眺めていた。

「すてき。ね、貴方は恋についてどうお考え?」

 平生、私は看護婦の問いを無視していた。一人になりたかったからである。けれどもそれは、無意識のうちにしていた。

 私は看護婦に聞いた。 

「貴方は恋をしていますか。」

 看護婦は頬を赤らめた。

「恋って……ねえ。貴方はどうなの。」

「していない。」

 私は事実を知っていた。

「そ。」

 看護婦は、再び顔を赤らめて俯いた。 



 私は再び、病院を抜け出した。橋の下でうずくまっていた。

 こんなにも、抜け出したら病院から退出願を出されるかもしれない。

「彼女はどうしているだろうか。」

 私は平生の癖で、彼女のことを思い出した。全ての記憶において、彼女は艶やかであった。

 すると自然と涙が溢れ出てくる。拭って拭ったけれども、うめき声だけが、無常に響いただけであった。

「大丈夫。」

 見上げると、看護婦がいた。長い間、散髪にも出かけていない髪は長くなってしまった。

「なにかあったのでしょう。大丈夫。」

 私はすぐさま、涙を引っ込めて、川の方へ視線をやる。自分でも強がりたいのか、将又(はたまた)、他人に惨めな姿を見られたくないからなのか分からなかった。

「ねえ。」

 看護婦は私の髪を耳にかけようと触った。私はそれを払い除けた。

「もう。女の子一人、満足させれないの。」

 横目で看護婦を睨みつけた。私はそうするしか、抵抗の仕方が見つからなかったのだ。

「貴方は無口ね。これじゃ、貴方を好きな人も離れちゃう。いいの。」

 この看護婦は心理学を知らない。

「貴方は私のどこがいいのだ。」

「そりゃあね……看護婦だもの。」

 私は看護婦に接吻をした。看護婦は真っ赤になって、硬直した。

「貴方はわたしがいいの?」



 病室に帰ってから、看護婦は固まって動かない。

「ね、あの女の人は貴方の何なの。どうして私にキスをしたの。」

 看護婦は俯いたまま、足のつま先をいじっていた。 

「貴方がどう思っているか、私には分からないが、彼女は私の婚約者だ。」

 すると看護婦の手が止まった。

「婚約者?だってあの女の人……」

 そしてもう一度、その言葉を繰り返した。思い出すごとに、その記憶は美しく、儚く、幽かになってゆく。

「彼女は私の婚約者だ。」



 翌日。病院のすぐ近くに池があるので、看護婦となら良いと病院から許可がおりた。しずかに二人で歩く。

「ねえ、知ってる? あのね、川で男女(なんにょ)が心中したらしいわよ。新聞にでかでかと載られていたもの。それがね、他殺だと言うんですよ。」

 看護婦は誰かとは言わなかった。ただ、どうでも良い事を話していた。たった二人亡くなっても、数週間後、世間はまた動くのだ。それは冷淡と捉えることもできるが、そうしないと、世間が衰えていく。

「誰かが男女を殺害して、川に沈めたって先輩が言っていたの。本当かしら。ね、貴方、どう思って。」

「小説の話の方が()い。」

 看護婦が、私のとなりへ小走りで来た。見下げるという気力も起こらない。

「そうね。」

 看護婦が小説に興味がないことは知っていた。知った上で投げかけたのだ。私は看護婦の先を歩く。二周も三周も大きい私の体は、看護婦を置いて行くことは、手で虫を潰すくらい、単簡なことである。

 この池は、誰一人歩いていなかった。鳥のさえずりすら、木の葉の音すら聞こえなかったのだ。ただ、下駄の音が鳴っている。

 看護婦は私を見失ったのか、ついて来なくなった。

「どうして。」

 遠い、背後の方から声がした。

 振り向くと、そこには彼女がいた。彼女は記憶と同じ身なりをしていた。けれども、私が贈った装飾品などは一向に見つからない。

「どうして拒んだの。ねえ、貴方。約束したじゃない。知ってる?一から病院を探し回って、貴方を探したのよ。」

 不規則に一歩一歩、彼女は私に近付いた。

「どうして。ねえ、どうして。」

「貴方はもう結婚したのでしょう。」

 烏がなく。

「それでも貴方を忘れなかったわ。」

「それでは、貴方と僕の約束は、亡くなったのでしょうか。僕は貴方のことをずっと思っていたのに。」

 私は理性を忘れて、闇雲に怒鳴ってしまった。

「なぜ知ってるの。ご両親から聞いたの。」

 彼女の指輪が光った。これも、流行りの贈り物なのであろう。

「もういい。貴方とは金輪際会わない。」

 私は走った。病室へと早く帰りたかったのだ。誰もいないところで一人、生きたかったのだ。

 去り際に彼女はこういった。

「にげた。」



 病室に帰って布団にくるまりながら、泣いた。

 なんて自分は惨めなのだろうと。私は彼女を愛していないのに、また噓をついてしまった。記憶が洗礼されていたのだ。辛い時分に、美しい過去を思い出すから、回数を増すごとに美化されていったのだ。

 私は池で彼女に会う前に、とくにもう知らされていた。両親に告げられていた。「あの子はもう結婚した。」と。それを聞いて、私は或る一種の解放感を得た。真に愛していない彼女を、もう愛する必要がないのだと。そして私の悪な心を、晒さずに済むのだと。

 それから、私は何故泣いたのか分からなかった。ただ只管(ひたすら)人と関わりたくなかったのだ。もう疲れ切っていた。どこでもいいから、少しの時間だけ、一人で生きたかったのだ。

 この日、看護婦は私の部屋へと来なかった。

 


 翌日、看護婦が恐る恐る、私の部屋に入ってきて健康を確認した。

 私の体はみるみる元気になっていき、もう退院間近であった。

「もうすぐ、近くの活動写真館(映画館)で新作が公開されるらしいのよ。」

 桃の花が三分咲きになっている。私が退院するころには、満開になっているであろう。

「ね、貴方。いつも窓の外をご覧になってどこを見ているの。貴方は人間より、よほど自然の方がすきなのね。」

 看護婦の方へ見上げると、それはまた美しく、さっき眺めていた窓からの斜陽に当たり、少し眩しそうに顔をしかめても尚、笑っていた。自然を眺めるとはまた別の高揚感を得た。

「どうして貴方は僕にかまうのだ。そりゃあ看護婦だからかもしれないが、何故そのように接するのだ。」

「わたしは世渡りが上手いのよ。」

 看護婦は「けど、ね、貴方は例外。」と聞こえもしない声で付け足した。

「例外と言うのは。」

「もう、今日はとっても喋るのね。ここで終い。今日はここでおよしよ。」

 私はベッドの上で胡座をかいた。私は看護婦と同じように、腹に向かって呟いた。

「どうして。」

 看護婦が何も言わないので、不思議になって顔を上げた。すると看護婦は、私の口に接吻をしかける。私がとっさに遮断したからそれは免れた。

「どうして。ね、どうして。」

 看護婦は再び私と同じ言葉を繰り返す。下唇を突き上げ、今にも泣きそうな声で震えた。

「貴方はどうして。」



 数日後、友人がやって来ていきなり泊まると言い張るのだ。この友人は幼馴染の、正義や根性がやたらと好きな男である。そのくせ、眼鏡をしていて豪酒であった。

 そしてその友人は私に耳打ちをする。裕福な家庭だから友人からはいつも花の匂いがした。

「なあ、あの看護婦なぜお前の部屋にいつもいるのだ。」

「知らない。」

 私は長い髪の毛をいじりながら、知らん振りをした。この時もまた、胡座をかいている。

「なあ、看護婦さん。なぜここに(とど)まるのかい。」

「なぜって、わたしは看護婦ですもの。」

「理由になってないな。」

 やれやれという顔で、私の方へ投げかける。

「しっかし、お前、知ってるだろうと思うけれども新しい映画が公開されている。俺はあの近くに行ったが、それまた盛況でな。俺たちも行こうよ。」

 私は、友人となら行きたかったけれども今は看護婦がいるから、本音を言えずに口(つぐ)んでいた。看護婦はもうそろそろ終わりかけの編み物を、だまって編んでいる。

「いかない。」

「そうか。お前は雑誌も小説も読まないもんな。」

 噓。私の噓が第三者によって暴かれた。しかも、第三者は悪意なく噓をついたことも知らずに。

 訂正しようと思ったら、看護婦が他の看護婦に呼ばれてどこかへ行ってしまった。この噓はもう弁明できない。また他の場所で、もう一度その話題を看護婦の前でしても、言い訳にしか聞こえないからである。

 私は人として、大きな過ちを犯した。

「あの女はどうなったんだ。」

「彼女か。あの子と金輪際会わない。」

「そうか。」

 友人は私の表情を察したのか、これ以上何も言わなかった。

「いつか話す。」

「殺そうとは思わなかったのか。」

 どこかで生活の音がした。

「思わない。僕以上に仕合わせでもいいから、僕の目の前に現れてほしく無いんだ。」

「俺は殺す。」

「そうか。」

 私は苦笑しながら、友人の豪快さに感服した。

「常日頃、そう言って現実になると怖くないか。僕のせいでその人は命を絶ったかもしれないと。」

「思わない。」

 私はまた苦笑した。そして、友人も続けて笑った。

「あの看護婦、お前に恋をしているな。」

「そうかな。」

「俺が言うからにはそうだ。あれは恋さ。」

 夜になってからでも、こういうくだらない会話で持ち越した。いつもより三時間ほど遅く眠った。

 翌日、寝ぼけ眼で私はまた窓の外を眺めていると、ドアの向こうから看護婦と友人が話していた。

「ね、ご友人さん。あの人の彼女ってどう言う人なの。」

「知らない。」

「噓よ。ね、正直に言ってちょうだい。」

「どうしてそんなに知りたがる。本人に聞きゃいいではないか。」

「本人には聞きにくいわ。」

「俺は知らない。」

「ね、ほんと。ね。」

「知らねえ!」

 気がつくと友人は半分、部屋の中へ入っていた。

「違うのよ。だって女の人が嘘の人って言ってたもの。ほんとよ。」

 見切れている看護婦と目が合う。

「知らねえ!」

 友人は勢いよくドアを閉めて、なんだあいつとか小言を言いながら、床をどんどん鳴らして私のベットへ座った。私はその反動で揺れる。

「なにがあったのだ。」

「あの女が執念にお前のことを聞いてくるのだ。ああ、馬鹿馬鹿しい。」

 友人は荒く新聞を取り、しかめっ面でそれを読む。ぶつぶつとまた愚痴をこぼした。

「噓ってなんだ。嘘なんか。」

 私は内心、とても焦っていた。女には直ぐにばれ、男には直ぐにばれない。あわよくば、自分をよく見えるように話すように考えていたのに、その計画が崩れた。墓場まで持っていく予定であったのに。

「なあ、あの女はやめとけ。」

 私はただ笑っていた。

「なにへらへらしてやがる。お前も女と一所なのか。反吐が出るね。」

「一所ではない。」

「お前、あの女を好いているのか。」

「いいや、好いてはいない。」

「なんだお前、さっきから曖昧な返事ばかりしやがって。」

 私はにまにま笑っていた。すると友人もつられてにまにま笑った。

「なに。何がそんなにおかしい。」



「あら、ご友人さんはどこへ。」

「もう帰った。」

「けどここに鞄が。まあ、忘れ物だわ。大変。」

「おい、紙屑がねえぞ。厠に紙屑もねえのか。」

 友人は本当はいた。私は偽って噓の人と成ることにした。

「あら、まあ、ね。貴方、噓をついたのね。噓。」

「なに笑ってるのだ。なんの話をしていた。教えてくれ。」

「他愛のない話だよ。」

「それがあね。噓をつかれたのよ。貴方、もしかして化け狸かしら。いやあね。」

「噓は駄目だ。男たるもの、噓なぞついちゃいかん。分かったか。」

「うん。」

「いやあ、しかし。」と友人はソフアにもたれかかる。

「今は恋の話が盛んであるな。」

「どうして。」

 看護婦が問う。

「この時期は皆、人肌が恋しいんだ。俺も恋がしたい。ああ、したいね。な、深いだろう。」

「いやあだ、なにそれ。全然。」

「看護婦は嫁に貰わないのか。」

「もらうの、もらわないのって、わたし、なにも御座いませんわ。」

「じゃあ、俺の元にくるか。」

 私は二人の間を眺めた。先刻まで、看護婦のことは信じられないと嘆いていたのに。人と言うものは、自分の利益のみを考えるものなのか。

「いいえ。」

 看護婦は頬を赤らめる。

「わたしには好きな人がいますもの。ね、貴方はいないの。」

「駄目だ。こいつは何にも話さん。」

 友人はまた、駄目だ駄目だと繰り返す。仲が良くなった二人は輝かしく見える。

 私は眠くなったので、話声を聞きながら、そのまま眠ってしまった。

 起きると、夕方ごろであった。教室の休み机のような儚さを感じた。

 友人と目が合う。

「お、起きたのだな。あの娘は意外と好いな。いやあ、活動写真館に行く約束もしちまった。お前、行かないだろう。」

「うん。」

 私は本当はいきたかった。気紛れに窓の外を眺めた。桃の花の蕾が美しく彩っている。あの小さな一粒一粒にはたくさんの花弁(はなびら)が詰まっているだろう。

「なあ、もし悪口を吐いたやつは、当事者が死んだら、どうするのだろう。」

「怒っているのか。」

「いいや。単純な疑問だ。」

「懺悔するさ。」

「当事者がほら吹きだったとしてもか。」

「ああ。人だからな。」

 桃の花はいつ咲くだろうか。

「そうか。」



ー下ー

 もう日が暮れる頃、妻は桃の花を眺めている夫に問いた。

「ねえ、何故あの人は亡くなったのかしら。」

「俺がそうさせてしまったのだ。」

「そんなことはないわ。」

「噓はついてないさ。」

「ただ、」と夫が言う。

「友として、いや、人としてあいつは可哀想だ。」

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