エリーゼのために、私は世界を創造する。-青を歌う。
君との初めての出会いは、空が晴れ渡った青さを輝かせていた日だった。
他の子供たちに囲まれ、黒く長い髪を垂らし小さなヘアバンドをした君は、とても美しい人形のように見えた。
高く美しい声が澄んだ笑い声となって流れ、君と目が合い笑ったあの瞬間が、絵のように鮮明に脳裏に焼き付いて消えなかった。
もしかしたら私は知っていたのかもしれない。
君との出会いが、私にとって最大の奇跡になるということを。
*
幼い天才たちが集まる場所、英才園。
そこには、真の天才である子供と、親が子供の才能をさらに膨らませた子供たちが入り混じっていた。
天才の子供と、結局凡才から抜け出せない者たちが集まる英才院に、今日新たな天才が入ってきた。
「皆さん、挨拶しましょう。今日から皆さんと共に過ごすことになる梅原明莉さんです」
新たな天才、梅原明莉は、くせ毛の茶色い髪をざっくりと解いたまま、子供たちには分厚い眼鏡をかけていた。
他の子供たちより少し背は低いが、他の子供たちとは明らかに違う雰囲気。
まるで「私はあいつらとは種族が違う」と言わんばかりの、そんな異質さ。
その異質さは、もう一人の天才であり、この英才院に先に入っていた青井奏にとっては、ただただ珍しくて親しくなりたい存在に過ぎなかった。
友達は多ければ多いほど良い。特に英才院でできた友達なら尚更だ。
碧奏はそう考えていた。そしてそれが、英才院の管理人が子供たちが親しくなる時間を持たせるために席を外した隙に、一人残された梅原明莉に真っ先に近づいた理由だった。
「こんにちは?梅原!僕は碧奏だよ、奏って呼んでもいいよ!」
親しくなりたい気持ちから積極的に飛びかかる碧奏と、そんな奏に引っ張られるように動き、ついに心を開いて応じた梅原明莉は、瞬く間に親友になった。
「明莉、明莉!」
澄み渡る奏の声はいつも楽しげに響き、そんな奏の傍らでは明莉の声も、
「うん、奏、聞いてるよ」
穏やかに、しかし聞く者を自然と気持ち良くさせるほど柔らかく響いた。
10歳で英才院に入った奏と12歳で英才院に入った明莉。
二人はちょうど同い年で、英才院から続くエスカレーター方式でずっと同じ塾に通い、共に過ごす時間が長くなるにつれ、お互いの世界には二人しかいないかのような、そんな友達になった。
父一人を頼る一人っ子の奏と、上に一人兄がいていつも口喧嘩している明莉は、お互いにとって家族以上の存在だった。
お互いの家を行き来して愚痴も言い合い、良いことも共有し、同じ制服を着て、同じ授業を受けながら身近に存在する友達。
それに加えて二人とも天才ゆえに抱える、普通の人たちとは交わることのできない孤独感まで。
持っているからこそ失うしかない疎外感まで、その全てを二人は知っていたからこそ、明莉と奏は親友にならざるを得なかった。
時には家族にも言えない秘密を打ち明け、家族には理解されないことを理解されながら、二人はそうやって過ごしていた。
あの日が来るまでは。
*
奏の姓である「碧」に似せた青い空は、奏が好きな空だった。
そんな奏から移ったのか、明莉もまた、まぶしい太陽がそのまま映る青い空が好きだった。
しかし、あの日の空は青空ではなく、異様に暗い灰色がかった色をそのまま宿した豪雨が降り注ぐ日だった。
空の色とは関係なく、人間の予定はそのまま実行され、その日は奏が参加する青少年音楽会の演奏日だった。
「碧奏さん、リハーサルの準備をお願いします」
「あ、はい!」
幼い頃からピアノを弾いてきた奏とはいえ、舞台に立つことに全く緊張がないわけではなかったので、緊張をほぐすために明莉とのメッセージを中断し、席から立ち上がった。
メッセージの最後の言葉は、明莉からのメッセージに対する奏の返事だった。
[明莉- 今日のステージ絶対見に行くね]
[奏- うん!楽しみにしててね!]
たっぷりと込められた自尊心と同じくらい、奏は笑いながらリハーサルが真っ最中のステージ近くへと近づいていった。
自分の順番を待つために立った場所はスピーカーの近く。
大きな劇場の舞台を埋め尽くすスピーカーがすぐそばにあったため、奏は一瞬目を細めて大きな音をやり過ごした。
スピーカーから聞こえてくる大きな音が、この日特に耳障りに感じられたことを、奏は単に最近の練習が過酷で、耳が酷使されているせいだと考えた。
実際そうだったため、病院では奏に聴く行為を一時休むよう勧められ、奏は今回の演奏が終われば休むつもりだったので、大きな問題とは考えなかった。
もうすぐ休めるのだから、それまでに自分ができる限りの最善を尽くして演奏しよう。
それが奏の抱いていた思いだった。
しかし、世界は奏の願いを叶えるままにはしなかった。
キーーン、キーーン—と耳障りな音を立てるスピーカー。関係者たちもそろそろスピーカーを交換すべきかと悩んでいたその瞬間、スピーカーはまるで最後のあがきのように大きな音を立てた。
キーイーッ!キーイーッ!
ピアノの音を伝えていたスピーカーが、重い荷物を無理やり引っ張るような鋭く力強い音を立てた。
「うっ、これは何の音ですか?」
「どうやらスピーカーが完全に壊れたようです」
「はあ、リハーサル中だったからまだ良かった…」
今日の青少年音楽会を担当していた者たちが両手で耳を覆いながら話していたところだった。
誰かが両手で耳を塞ぎながら涙を流す奏、彼女の耳から赤い線が流れ落ちていた。
「あ、碧さん!」
「救急車、すぐに救急車を呼んでください!」
「今日のフィナーレの主役が…これは一体」
スピーカーのすぐ横、疲労で弱った耳が直撃を受けた瞬間、幼い天才・碧奏は突然の音に悲鳴を上げたが、その悲鳴さえスピーカーの音に飲み込まれ、倒れてしまった。
同い年の仲間、いや彼女の年齢の上下5歳を超える範囲でさえ、碧奏より優れた演奏者はいなかった。
10年に一度、いやそれ以上に稀な天才は、その日、音を失った。
救急車が駆けつけ奏を病院へ搬送し、音楽会関係者が碧奏の代役を探すために慌ただしく走り回る中。
音楽会が始まる時間となってしまった。
青少年音楽会。
卓越した音楽の英才から音楽の天才たちまでが集まったその場所には、碧奏の演奏を待ちわびて出席した者もいた。
明莉もそんな一人だった。
他の演奏も良かったが、奏の演奏をもっと待ち望んでいた明莉は、コンサートが終わるまで奏が現れなかったため、コンサート終了後、慌てて奏に連絡を取った。返ってきた答えは、碧奏が今日のリハーサル中に事故に遭い、聴力を失ったという知らせだった。碧奏が今日のリハーサル中に事故に遭い、聴力を失ったという知らせだった。
*
明莉は奏が入院した病室を訪ねたが、誰にも会いたがらない奏の意思により、病室へ行くことはできなかった。
その後も同様だった。
キラキラと光るように美しい微笑みと堂々とした態度で明るく輝いていた奏が、折れた花のようにうつむき、自分の部屋に閉じこもってしまったのは。
[明莉- 奏の話をしよう]
[明莉- 今すぐ外に出ろとは言わない。ただ…、私の顔だけでも一度見てもらえないか?]
[明莉- ……待ってるね]
返ってこない返信、ちゃんとメッセージは読んでいるのか、明莉は抑えきれない焦りを抱えながら奏の部屋がある場所を家の外から見つめた。
よく行き来していたのでお互いの部屋の位置がどこかはっきり分かっていたため、一度でもカーテンが引かれて目が合うことを願いながら、しばらく立っていた明莉は家族からの心配を込めたメッセージを受け取り家に戻った。
街の明かりで星さえ見えない夜になってようやく足を動かした明莉は、奏の部屋がある窓を未練たっぷりの目で眺めた。
同時に、明日はとりあえず押し込んでみようか?という気持ちと、奏が勇気を出せるまで待とうという気持ちが激しく衝突したが、今日は時間が遅すぎたため、選択は明日のものとなった。
*
家に戻った明莉の顔は暗かった。
幼い頃から共に過ごした最高の理解者であり親友を失った天才少女は沈み込み、彼女の茶色の髪はまるで雨に濡れた子犬の毛のようにだらりと垂れ下がった。
「明莉…奏は会ってくれないの?」
「まあ、彼女にも考える時間が必要だろう。病院を退院しただけで、完全に回復したわけじゃないんだから」
「大丈夫だよ、明莉。奏は強い子だもの」
家族が明莉のためにそれぞれかけてくれた慰めの言葉だったが、明莉の顔に浮かんだ奏への心配の影は消えなかった。
しかし、自分を心配してくれる家族がいるように、奏にも奏を心配する家族と自分と同じような友達がいることを思い出し、明莉は力なく笑った。
「うん、きっと方法があるはずだから」
「方法?」
明莉が言う方法が何なのかわからず不思議がる家族のように、明莉自身も今自分が言う方法が何なのかよくわからぬまま、よろよろと自分の部屋へ歩いていった。
奏を部屋から出させる方法なのか、それとも聞こえなくなった耳の代わりを見つける方法なのか、それとも死んでしまった天才のための復活の方法なのか。
明莉は自分が求める方法がどちらなのか、あるいは両方なのかをじっくり考え、まだ学生という立場である以上、翌週の月曜日には登校の準備をしなければならなかった。
*
白明女学院、そこは現在明莉と奏が通う学園であると同時に、幼い頃に明莉と奏が出会った英才院に属する付属学園でもあった。
つまり、明莉は奏と常に一緒に登校する生活を送っていたのだ。
二人で歩く登校路、あまりにも当然のこと、少なくとも卒業するまでは、いやもしかすると卒業した後もずっと一緒に歩くだろうと思っていた自分の隣の席がぽっかり空いているのを見た明莉の顔が、一層暗くなった。
「大会の時期でもないのに…。」
ぶつぶつと漏れる明莉の愚痴混じりのため息に似た言葉がこぼれ落ち、そんな明莉の姿を見た同級生の花房静葉が明莉の背中を叩いた。
「梅原!元気なさすぎじゃない?奏が見たらすごく悲しむよ?」
「あの奏のせいで死んだのに…。」
「でも!奏のことは…残念だけど事故だったんだ。親友の君が元気を出さなきゃ!」
いつも明るく前向きな友人、花房の言葉に明莉は花房に倣って笑おうとしたが、そうできず、下がりかけた口元を感じた。
「あらまあ…重症だったのね。」
いつも明莉の右側を歩いていた奏の席を空けた花房は、明莉の左側に立ち、明莉と歩調を合わせて歩いた。
「うーん…梅原はどうしたら元気になれるんだろう?」
にっこり笑って明莉の元気を出そうとする花房だったが、明莉は冷たく言った。
「奏が戻れば自然と元気になるだろう」
自分に言い聞かせるように言った明莉だったが、自分に向けた言葉にしては少し冷たくさえ聞こえる言葉だった。
「うーん…それは私の能力の及ばないところだけど…。うーん…!」
困った花房だったが、同級生の明莉も彼女の親友である奏も花房にとっては大切な存在だったため、必死に頭を絞った。
こうして見ても花房も幼い頃に英才院を経験した一人だった。
天才レベルではないにせよ、凡才ながら、平凡よりは才能豊かな凡才というところで終わり、英才園を辞めることになった花房だったが、そんな花房が持つ才能は想像力だった。
「奏は歌や演奏だけでなく絵も上手だった。絵で音を表現できるなら、奏の完璧な復活になるのに!」
「……絵で演奏を?」
「うん!僕としてはどんな形でそれができるかはよく分からないけど、もし絵に描かれた情報を読んで、それを音楽に変えられるなら、それも一つの演奏になるんじゃないかな?」
その瞬間、明莉の目に星が降り注ぐようだった。
「あ、あまりにも突飛な想像だったかな?」
立ち止まった明莉の姿に、花房は自分の想像があまりにも突飛だったかと一瞬気まずくなった。
しかし、すぐに真正面から向かってくる明莉の目に興奮と熱気が広がり、明るく笑う姿を見て、自分の判断が間違っていたと気づいた。
「あれ?」
何か天才少女のスイッチを完全に押してしまったような気がした花房が明莉を掴もうとした瞬間、天才少女・明莉が声を張り上げて叫んだ。
「花房!私、今日から欠席するって伝えて!」
すぐに振り返って走り去る明莉の姿。
「えらら…これでいいのか?」
そして一人残された天才少女、花房静葉はただ笑うことにした。
「まあ、陰気な梅原より、キラキラした梅原の方がいいんだから仕方ないわね」
静葉は自分のカバンを背負い、悠々と塾へ、そして自分たちの教室へと入っていった。
今日からしばらく、同じクラスの友達の一人が、期間のわからない無断欠席をするという衝撃的な知らせを受けて。
*
明莉は登校途中でまっすぐ家に帰ってきた。
「明莉?塾はどうしたの、家に帰ってきて…!」
「ごめん!今急いでて!」
家に帰ってきた明莉の姿に慌てる母親に、まともに説明もせず自分の部屋へ一直線に向かった明莉は、白紙のページがあるノートを適当に手に取って開いた。
「歌…音階を色で、楽器を筆で表現したら…。これとこれを、こうすると…。」
遅れて追いかけてきた明莉の母親は、娘の気迫に驚き、一歩下がるしかなかった。
明莉の母親は天才ではなかったが、今、夢中で没頭している明莉を止めちゃいけないということは一目見て分かった。だから母親は塾の先生に連絡して了解を得るために動いた。
どう見ても集中状態に入った娘の明莉がしばらくは塾に行けそうにないからだ。
「あ、はい、先生。お久しぶりです。実は…」
明莉の母親が明莉のために動く一方、明莉自身もまた熱心に燃え上がっていた。
親友である奏のためにという燃料を携え、燃え盛る明莉は、誰にも止められない存在だった。
「奏は音を重ねて積み上げるのが好きだったから、音が重なるように色を重ねる形式で構成し、ピアノ一つに縛られず様々な音を一緒に重ね上げられるよう、コーディングに問題が生じないよううまく調整しなければ……」
どの楽器とどの筆を繋ぐか、どの音階をどの色で表現するか、明莉は考え続けた。
音楽も美術も得意だった奏とは違い、明莉は美術にも音楽にも何の才能もなかったのだから。
それに加えて、興味も友達が好きなもの程度だった明莉にとって、奏のために音楽と美術を結びつけるプログラムは難しい挑戦だった。
知識がない分だけ必要な情報も多く、その知識と情報を蓄えるためにインターネットから本、英才院に所属する他の音楽家たちまで足を運んで助けを求め、集めた知識と情報で明莉のプログラムは徐々に形作られ始めた。
望む色から望む音がきちんと出るか、望む筆から望む楽器が出るか。
音楽を、正確には奏の音楽だけを愛する明莉は音階を、楽器を正しく区別できなかったため、より多くの試行錯誤を、より多くの障害に遭遇したが、それでも明莉は諦めなかった。
「奏、このプログラムが君を部屋の外へ連れ出してくれるなら…。」
ただ、親友である奏のために、明莉はコードを作り、思い通りにできたか比較し、間違ったコードを修正し、助けを得て確認し、誤ったコードを消し、また比較する――そんな繰り返し。
その繰り返しの過程は、なんと2年間も続いた。
明莉と奏が白明女学院を出てから、もう2年が経っていたのだ。
*
2年前の冬、青少年音楽会で起きた事故以来、奏は部屋から出たことがなかった。
人間である以上、お腹が空いたりトイレに行きたくなったりしないわけではなかったので、全く一度も出なかったとは言えないが、少なくとも他の人、奏と一緒に暮らす彼女の父親でさえ、この2年間娘の顔を見ていなかった。
急に食べる量を減らし、その分眠っているのか呼んでも返事のできない娘、奏への心配が募り、ついに勤めていた会社まで辞めてしまった奏の父。
奏がちゃんと食事を取っているのか、悪夢を見ていないのか、心配だけがむくむくと育っていたある冬。
奏が聴力を失ってからちょうど2年が経ったこの日、碧家にインターホンが鳴った。
奏が声を失い、奏の親友だった明莉を皮切りに他の友達も一人また一人と訪れなくなった碧家の家のインターホンは、実に久しぶりの音だった。
奏の父親は、もはや訪れる者もいなくなったこの家に誰が来たのかと思い、ドアを開けた途端、驚いた。
「君は…明莉か?」
「こんにちは、おじさん。久しぶりですね」
とても急いで来たのか、頭からは水がぽたぽたと滴り、服もきちんと着ておらず、靴は左右違う、見覚えのある少女。
娘の親友だった梅原明莉だった。
「おじさん、奏は今家にいる?」
「あ…奏は…。家にいるよ、奏に会いに来たのかい?」
「ええ。私がここ2年…あの、少し忙しかったもので、すごく久しぶりですね?あははは…」
今気づいたのか、照れくさそうに笑いながら両手で握った紙袋をぎゅっと握りしめる明莉は、昔見た姿そのものだった。
まるで声を失った日から時間が止まった人のように、立ち止まったままの自分の娘のように、この子も時間が止まったまま、過去に留まっているかのような姿に、奏の父親は明莉に「なぜ2年も来なかったのか」と、何も言えなかった。
ただ、静かにドアを開けて明莉を歓迎すること以外には。
「奏は今、自分の部屋にいるはずです。最近、部屋から出てくる姿を見たことがないので、おそらく今も部屋にいるでしょう」
「ああ、はい。では、私はすぐに奏の部屋へ行ってみます」
2年前、家に入るよう言われたにもかかわらず、明莉は奏が先に呼んでくれない限り入るのを嫌がるかもしれないと言い、家の中に入ることも、奏を先に訪ねることもできなかった。
だから家の外で奏の部屋の窓ばかり見つめていた明莉だったが、この2年の間にこの子の心情にどんな変化があったのか、どうしてこんなに慌てて駆けつけたのか、正直なところ奏の父親である自分にも気になった。
明莉の両親から聞いた話では、明莉も奏のように2年間塾に通っていなかったらしいが、これはまたどういうことなのか、まったく理解できなかった自分だった。むしろ、自分の娘である奏とその親友である明莉の時間が2年間止まっていたという方が、より現実的に感じられるほどだった。
しかし、今すぐに心配なのは、自分にもドアを開けてくれない娘だった。そんな奏が、果たして親友である明莉に閉ざされた扉を開けてくれるだろうか?という思いだった。
「奏、ドア開けてよ!」
ドンドン、軽く叩くのではなく強くドアを叩く明莉の姿を見て、まさかと思った。
「あの、明莉さん?今、奏が音を聞けないことをもしかして忘れてる?」
「あ…いえ?」
すぐに「いいえ」と言えず、一瞬視線が逸れたのが非常に気にかかるが、それより先に明莉が動き始めた。
「とりあえず、メッセージを送ってみましょう。奏がメッセージを見てくれるかどうかが問題だけど、まあ…見てもらえなければ、ドアをこじ開けて入りますよ」
「明莉さん?」
どうやら娘の親友が知らない間に、かなり過激になったらしい。
娘の親友が2年で過激になったのだから、もしかしたら娘も知らない2年の間に、あんなに過激になったのではと心配になり、ドアをこじ開けて入ろうという言葉には渋々同意した。
娘の友達にドアを開けさせるわけにはいかないので、ドアを開ける役目は自分がやらねばならないが。
その間、娘の友達はメッセージを送ると、ドアに耳を澄ませた。
10秒、20秒と耳を澄ませていた娘の友達がうなずきながら言った。
「メッセージを見たのか、動く音が聞こえたけど、何の返事もありませんね」
そう言いながら持ってきた紙袋を片隅に置いた娘の友達が、ドアの周囲を見回した。
「おじさん、このドアの蝶番。折りたたみ部分に付いてます?」
「え、まあそうだろうな?」
ドアの蝶番がどこに付いているのか、私自身も正確に知らない質問をした子供がうなずくと、今度は取っ手を見回した。
子供は取っ手付近にある小さな穴を見つめると、うなずいて振り返った。
「おじさん、箸を一本借りてもいいですか?」
「え?箸一本でいいの?」
「はい、この穴ですよ。細い箸なら十分通りますから」
そう言った娘の友達は、言った通り、細い箸一本をそのまま取っ手に付いた穴に差し込むと、手慣れた様子でそのまま錠を外し、閉ざされた扉を開けてしまった。
カチャッ、少し情けなく思えるほど簡単に開いてしまった扉に、娘の友達は笑いながら、片隅に置いてあった紙袋を持って、娘の部屋に入ってしまった。
できれば私が先に入って娘の様子を見たかったが、ドアを開けた功績で娘の友達が先に入ることを認めた。
*
カチャリ、という音と共に奏の部屋のドアが開いた。
明莉は息を一度吸い込み、奏のために準備してきた機械と共に、明莉の部屋のドアを開けた。
丁寧に引かれたカーテン、消えた天井灯など、あちこちがめちゃくちゃになっている部屋の片隅。
楽器が転がり、音を鳴らす様々な方法を試したのか、一体何をしたのか分からない散らかりようの部屋だったが、明莉はなぜか親しみを感じた。
うっ…という声と共に、明莉は最近開発に夢中で片付けなかった自分の部屋を思い出し、散らかった部屋から必死に視線をそらしながら奏に近づいた。
まだドアが開いていて暗い部屋の中に光が差し込んでいたが、その光はまともに見ていなかったのか布団が丸く巻かれていた。
「ふふ、私たちの奏のために私も頑張ってみようかな?」
携帯電話のライトを点けた明莉は、布団の山に懐中電灯の光を当てた。
そしてわざと少しゆったりとした足取りで歩く。
普段の自分の部屋なら、今自分が被っている布団の方に光が入ることはなかったため、奏は一瞬の好奇心に耐えきれず布団の中から顔を覗かせた。
まるで亀が甲羅から首を出すように現れた奏の顔が、ゆっくりとまだ懐中電灯をつけたままの明莉と視線を合わせた。
二年ぶりにようやく顔を合わせた二人、明莉は急に痩せた奏と目を合わせると、ゆっくりと微笑みながら大きく口を開いて言った。
「やあ、奏。久しぶりだね」
声に頼らなくとも、その言葉に込められた感情は十分に伝わった。そう投げかけられた言葉に、奏の瞳が震えた。
口をぱくぱく、まるで二年もの間、話すことを忘れてしまった人のように、ぽかんと開けたまま閉じられてしまった奏は、別の光が差し込む場所――
開いた自分の部屋の扉を見つめた。
そこには、目尻を赤く染め、泣き声をこらえているような、自分の父親が立っていた。
奏は聞こえない声を追いかけ、
「あ…ゴホッ、ゴホッ!」
しばらく使っていなかった分だけ詰まる喉に水を求めようとするより先に、明莉が水を持って来た。
奏の手に直接渡される水が入ったカップ。
そのカップを静かに受け取った明莉が、しばらく喉を潤すと、奏を見つめた。
きちんと何と言葉にしないにもかかわらず、状況を正しく理解できていないことが顔にそのまま表れている様子に、明莉は笑いながら奏に自分が持ってきた紙袋を差し出した。
明莉が自分の家から持ってきた少しかさばる紙袋。
それは部屋の外にいる奏の父親も気になる物だった。
渡された紙袋の中に何が入っているのか気になるのは奏も同じだったため、奏は少し躊躇してから紙袋を開け、中身を外に出した。
紙袋の中から、ヘルメットに似た充電ポートが付いた機械は奏も知っているものだった。
主にゲーム用に多く作られる、一種のVRゲーム機。
そしてもう一つは、この機械に合う充電器ジャックだった。
突然ゲーム機をくれるのかと思い、奏と奏の父親が並んで首をかしげると、それを待っていたかのように明莉がヘルメットの一箇所を指さした。
「エリゼのために。」
ヘルメットの一部に、消えないよう何度も重ねて書いた痕跡が見える文字、エリゼのために。
最初からヘルメットに書かれていた文字ではないなら、明らかに明莉が書いた文字だというのに、奏はなぜ明莉がこんな文字を刻んだのか分からず、少し目を見開いて瞬きをした。
相変わらず斜めに傾いた顔と大きく見開いた瞬きする娘の姿に明莉は少し笑うと、口では奏の父親への説明を、手では奏への説明を始めた。
「昔、奏と決めたんです。私たちの英語名で、私はテレゼ、奏はエリザベート。ただ、私は愛称で呼びたかったので、エリゼ。って呼ぶって言ったんです。だから、エリゼのために…。」
スマートフォンで同じ内容を打っていた明莉の顔が、徐々に赤くなり始めた。
英語名、それも愛称を使って書いた内容を直訳すると、「奏のために」という恥ずかしい事実が露呈してしまうことに、今さら気づいた人のように明莉は赤くなった顔をぐっと伏せた。
「いや…それが…その、確かにそうなんですけど…」
スマートフォンで奏に話しかけていたのも止めて、赤くなった顔を両手で覆う明莉の姿に、碧と娘はウサギのような目をして明莉を見つめた。
「いや、だから…それが……その!」
ついに頭に血が上ったのか、ぱっと立ち上がった明莉が素早くスマートフォンに文字を打った。
[プレゼントだよ!]
かろうじて打ち込んだ内容を奏に見せた明莉は、タコのような顔で、うわあああ!と叫びながら自分の家へ逃げ帰った。
「…奏、明莉は何て言った?」
一瞬、奏の耳が聞こえないことを忘れていた奏の父親だったが、奏は父親の問いを聞かなくても分かっていた。
今、聞くべきことは一つだけだったのだから。
明莉が奏に話しかけた時のように、奏も父親に向かってスマートフォンに書いた言葉を見せた。
[プレゼントだって]
片手で明莉からもらったプレゼント、‘エリゼのために’と書かれたヘルメットを大切に抱きしめた奏が、久しぶりに、本当に久しぶりに笑った。
その笑顔に奏の父親も、本当に久しぶりに心から笑うことができそうだった。
肝心の、その笑顔を与えた張本人は顔を真っ赤にして逃げ出したが、碧親子の間にはほっこりとした空気が漂い始めた。
到底、部屋に2年間も自らを閉じ込めていた娘を持つ親子の姿とは思えなかった。
*
明莉が碧家でタコになって逃げ出し、奏の父親が久しぶりにようやく顔を合わせられた奏の状態と健康をあれこれ確認した後。
席を譲ってくれた父のおかげで一人になった奏は、今日、明莉が自分のプレゼントだと言って置いていったゲーム用ヘルメットを見つめた。
何と言っても明莉がくれたヘルメットだから、普通のゲームが入ったヘルメットじゃないんじゃないか?と思いながら奏はヘルメットの充電状態を確認した。
どれだけぎっしり充電されているのか、しばらく時間が経っても1%も減らない100%の充電量に奏はヘルメットをあちこち眺めた後、頭に被った。
奏はVRゲームのようなものにはあまり興味がなかった。
奏の関心事は、何と言っても音楽、次に美術であって、ゲームではなかったのだから。
しかし、プログラムやゲーム、アプリなどに興味が多く、好きな親友がいたため、奏は難なくVR機器を起動し、機械に予め保存されていたアプリを開くことができた。
ヘルメットに書かれた文字のように、タイトルに「エリゼのために」という言葉が流れるアプリは、真っ白な画用紙を山ほど敷き詰めたような真っ白な部屋へと奏を招き入れた。
続いて明莉が奏に話しかけるような文字が続いた。
悪筆で書かれた明莉の文字、その文字たちが奏を導いた。
どの色がどの音階を持ち、どの筆がどの楽器を象徴するのか、重なり、重なり合って作られた絵がどう歌になるのか。
言いたいこと、説明したいことがたくさんあるのに、どう説明すればいいのかわからず、どうしたらいいかわからずにいる明莉に似た文字に導かれ、奏は一本の筆を手に取った。
先端が幾つかに分かれた、奏にとって最も馴染み深い楽器であるピアノを象徴する筆を握った奏は、頭の中で弾きたかったけれど、結局弾けなかった曲を。
2年前の事故で聴力を失った日、元々青少年音楽会で弾く予定だった曲を、描き始めた。
もし奏が今、言葉を話せたなら、こう言うだろう。
それはまるで、魅入られたような感覚だと。
自分のために、自分だけのために作られたアプリだからなのか、それとも別の理由があるのかははっきりわからないが、一本の筆が奏の意志に従って色を変え、奏が手で導くままに絵を描いていくその感覚は、決して忘れられない感覚だと。
まるで、奇跡を描き出すかのような、その不可解な感覚に奏は魅入られたように、ますます絵に没頭し始めた。
元々ピアノだけで弾く楽譜だったが、線が分かれた絵は未完成のように見え、奏はバイオリンを象徴する細い筆を取り出し、線と線の間の空白を埋め始めた。
色の調和が、歌、音階の調和が奏の頭の中で休む間もなく比較され、融合し、変化し、絶え間なく続く色の組み合わせに奏は時間の経過も忘れて絵に没頭した。
まるで待ちわびていたかのように、明莉が贈った『エリーゼのために』に没頭する奏の姿に、奏の父が新たな心配を抱くのは、もう少し後のことだった。
*
奏は結局、新たな色を加え続け、新たな線を描き加えながら、自分の心に響く絵を描き上げた。
しかし、望む絵に望む音楽が込められているかは分からなかった奏は、自分の父を皮切りに、英才院で知り合った音楽を専攻する者たちを訪ね歩いた。
そう、先に明莉に悩まされた彼らだった。
明莉に続き、今度は奏に悩まされることになった彼らが、明莉と奏を見ると逃げ出すようになるのは、もう少し後の話だ。
まだ、奏に本格的に悩まされたことがなく、逃げなければならないことを学んでいない彼らに、奏は自分が描いた絵であり、音楽を差し出した。
望む方向性、予想される音楽の形態、その他使用した楽器など細部に至るまで分析した数十枚の紙と絵、音楽が収められたUSBを受け取った者たちは、少々うんざりした表情で奏に時間をくれと頼んだ。
奏の望むことを全て叶えるには時間が必要だった。
決して、座ったまま即答できる量の質問ではなかった。
*
奏から音楽を聴き、分析する時間を得た者たちはため息をついた。
「さっき、音楽を少し聴いてみましたが?」
「ええ、本当に鳥肌が立ちました。あれが本当に耳が聞こえない少女が作り出した音楽なんですか?」
「私は自分の耳が正常な今でも、こんな細かい作業はできないと思います…」
数十枚の紙、その中に使用された楽器を列挙したリストを見ながらため息をついた人物は、どこか遥か遠くを見つめていた。
「楽器を非常に緻密に使っていましたね」
「ええ、絵だけ見れば分かりませんが、梅原さんが見せてくれた形態からすると、これは一本の線で完成された絵では絶対にありません」
奏が描いてきた絵は単純だった。
正方形の絵、ただその絵は隙間一つなくびっしりと埋め尽くされていた。
絵と共に届いた音楽も同様だった。
ピアノの音が少し止んだかと思うとすぐにバイオリンが、バイオリンが止まるとフルートが、一つの楽器ではなく、かといってオーケストラでもない、一瞬たりとも休まず隙間なくびっしりと埋め尽くされた音楽は、少しの疲労を与えることもあったが、それ以上に尊敬と畏敬の念をまず植え付けた。
どうして人間がそこまでできるのか?という根本的な疑問を抱かせる、絵だけで作られた音楽だからこそ可能な形態なのだろうか?
それとも、最初から奏の才能が単一の楽器を扱う形態ではなく、様々な楽器を同時に扱う、そんな指揮者に近い才能だったからこそ可能だったのだろうか?
多くの思索を促し、音があまりにも密で耳が疲れるという考えを抱かせてきた音楽が、聴いているうちにいつの間にか耳の疲れさえ忘れさせるほど、次々と新たな楽器の音が飛び出してくる。
チェロの音かと思っていたら、奏が持参した整理表と照らし合わせるとコントラバスであり、オーボエかと思っていた音がクラリネットだった時、彼らは真剣に考えた。
音楽専門家という肩書きを捨てなければならないのではないか、と。
音楽専門家たちに大きな試練をもたらした奏の絵であり音楽は、その後も幾度となくフィードバックが交わされ、楽器の音も調節できるようになり、聴き疲れさせる部分は削り取りながら、次第に絵を完成させていった。
到底音を聴くことのできない人間が成し遂げたとは信じがたいクオリティの音楽が完成しつつあった。
*
絵で描かれた音楽。
世にない概念で描かれた音の存在。
天才が天才を救うために生み出した新たな概念。
2年間の潜伏を必要としたそれは、さらに半年ほどの時を経て、世に知られることとなった。
交響曲第5番ハ短調作品67(Symphony No. 5 in C minor, Op. 67)。別名「運命交響曲」。
カナデ(奏)、いやエリザベートという名だけをぽんと掲げたある画家であり音楽家の絵がインターネットに上がった。
その絵をクリックすると、自然と一つの曲が再生されたが、確かに再生される曲は運命交響曲だった。
それもピアノ一つだけではなく、ヴァイオリン、フルートを起点に緻密に絡み合った数えきれないほどの多様な音たちが一つに編み込まれ、音楽が、音が、エリザベートという名前以外は何も知れない人物を世に知らしめた。
ベートーヴェンの運命交響曲、有名なクラシック曲を用いたたった一つの曲であり絵は、人々を混乱させた。
いったいこんな天才が、いや怪物はどこから現れたのか。
この、絵と音楽が同時に存在するとはまた何なのか。
プログラムに詳しいという人物が立ち上がり、絵を解析してみると、音楽関連のコードが出てくるという不可解な状況に、運命交響曲一つをぽんと投げつけたエリザベートが再び現れ、一つの文を差し出した。
[私が再び音楽を奏でられるようにしてくれた、テレゼに感謝を。]
エリザベートが誰なのか、テレゼが誰を指すのか、全てが不明な状況で明確に分かることはほとんどなかった。
鳥肌が立つほど精巧な絵画であり音楽を生み出したのがエリザベートであり、これを実現可能にしたのがテレゼという人物であるということ。
そして、その二人とも普通の人間なら到底理解できないレベルの天才だという点。
人々に与えられた情報は、まさにここまでだった。
天才画家であり、音楽家が存在する。
天才プログラマーが存在する。
それ以外は何も知ることができない状況で、エリザベスの人気と地位は恐ろしいほどの速さで上昇していった。
一人の画家として天才であり、一人の音楽家として天才であるエリザベート。
世界が熱狂したその天才は、時折新しい絵を、新しい音楽を世に届けた。
一度二度、まばらに出ていた絵や曲は、ある瞬間、プログラムに慣れた人のように恐ろしいほど多くの絵や曲を吐き出し始めた。
まるで、今までできなかった分だけ鬱憤を晴らすかのように溢れ出る曲や絵の中、エリザベートは相変わらず自らの姿を現さなかった。
エリザベートの曲を正式に、より良い画質で聴きたいと思う者も、エリザベートの絵をきちんと飾ったり所有したいと思う者もいた。
それだけの価値が彼女にはあったのだから。
人を驚愕させるほど緻密で細やかな楽曲と絵画は、確かに人を魅了するのに満ちており、魅了された者も多かったが、エリザベート。彼女と推定される人物は自らを現さなかった。
世の人々が彼女を呼びながら叫んでも、それなりに有能なハッカーを雇ってプログラムを作った人物が誰なのかを知ろうとする者たちにも。
エリザベートも、テレジアも世の中に出てこなかった。
まるで、実際に存在しない人のように。
ただ音楽を、絵を描くことのできる空間さえあれば十分だという二人の姿に人々はますます哀れんだが、二人の天才は気にしなかった。
二人の天才、エリザベートは自らの正体を明かす時間にもっと一枚の絵に、曲に集中し、テレジアはエリザベートの感謝の言葉以外には表に出ないため、世間は彼女たちを知ることはできなかった。
そうして、エリザベートと彼女が使うプログラムを作った人物と推定されるテレジアが世に知られるようになった。
*
15歳の冬に閉じ込められていたカナデ(奏)が17歳の冬になり部屋の外に出始め、18歳の夏に再び世間に自らを知らせた。
そのおかげで12歳のあの夏の日に出会った私たちは、18歳の夏を共に迎えることができた。
[奏]
[何で呼んだの?]
[ただ、こうしてでも君と再び話せるようになって嬉しいから]
奏は2年間忘れていた、話す方法を再び学んでいた。
元々話せた人間だからこそ、ただ自分の声を正しく聞き取れず話すことに不安を感じるだけなら、その不安が消えるよう適切な治療を受けることにした。
玉が転がるように高く美しく響いていた声を聞けないことが悲しかったが、いずれまた聞けるだろうと思いながら、私たちは文字を書きながら会話を続けた。
[奏、僕は今年、高卒認定試験を受けるつもりだ。君はどうする?]
今年の前期試験は既に終わってしまったが、まだ後期試験が残っているため、両親と相談した結果、今年の後期試験を受けることに決めた。
2年間、僕を信じて塾にも行かせず、何も言わなかった家族には感謝の気持ちでいっぱいだ。
[うーん…私はしばらく心理療法とリハビリに集中することにしたから、後半まで間に合うかはわからないけど…]
奏はそうした治療だけでなく、今も描き続けている音楽の絵もあるから、なおさら今年中に時間を作れないようだ。
[それなら仕方ないね。私が先に試験を受けて、どうだったか教えてあげるよ]
[うん、じゃあ私の来年の高卒認定試験は君が手伝ってくれるんだね。]
[おほー、覚悟は固くしなきゃな? なんとあの青井奏の先生になるんだからな]
こんな私の言葉に嬉しそうに笑う奏だったが、私は真剣だった。
他の誰でもない、試験さえ受ければ全校10位以内をキープしていた優等生が碧奏だった。
音楽の英才として英才院に入学しながら、勉強に絵まで得意なまさに万能の天才。
それに対して、明莉は典型的な理系派だった。
文科では成績が底を打ち、理科分野だけ成績が天を飛ぶほどで、その両極端があまりにも鮮明すぎて困っていた人間だったため、明莉は一瞬文科系の問題集を思い浮かべたが、視線をそらした。
高卒認定試験を受けることにしたものの、それでも明莉にとって文科系は難しかったのだ。
果たして自分が奏をよく教えられるだろうか、そんな心配が明莉の頭の中を彷徨う頃、奏の携帯電話にメッセージが届いた。
[明莉。僕、パパが迎えに来たって。]
[ああ、もう帰る時間か?]
耳が聞こえない娘を心配する奏の父親は、奏が遊びに行った先が明莉の家であっても、いつも奏を迎えに来ていた。
[うん。今日も本当に楽しかったよ。]
[私も]
奏が以前のように泊まって行ってくれたらいいのに、と書こうとして消した明莉が奏に笑顔を見せた。
耳が聞こえないという事実に密かな不安を抱えていた奏は、明莉の笑顔に安心し、席を立った。
明莉はそんな奏を支えるように助け、一緒に家を出て奏を見送った。
まだ完全に日が沈んでいない、日が急に長くなった夏の夜。
奏を見送って戻ってきた明莉は自分の部屋に戻った。
奏が来ていたことを知らせるかのように、バラの香りが部屋に漂っていた。
音を聞き取れず、話すことさえ忘れてしまった少女――いや、今は大人の女性は、残された感覚にすがるように香りにすがり、そうして残ったバラの香りが彼女の存在を告げた。
自分がここにいたことを強く訴えるかのような香りに、明莉は微笑みながら部屋を片付けた。
すると奏が座っていた場所を整理している最中、奏が座っていた場所に代わりに置かれたかのようなUSBを一つ見つけた。
USBには『私の最高の友達へ、奇跡を込めて。— エリゼより』と書かれていた。
エリザベトを明莉が愛称で呼んだ名前、エリゼ。
主人は去ったが、残された薔薇の香りのように残っているUSBに明莉は不思議に思いながらも、すぐにパソコンに接続しUSBに収められたファイルを開いた。
そのファイルの中には、馴染み深いプログラムで構成されたたった一枚の絵だけが描かれていた。
不可能の克服という花言葉を持つ青い薔薇で構成された薔薇の庭園。
青い薔薇の庭園が歌い始めた。
奏特有の隙間なくびっしりと埋め尽くされた豊かな楽器の音色も、美しく描かれた薔薇の庭園の絵にも、明莉は視線を向けられなかった。
絵に描かれた音楽、その中にあってはならない音が一つ重ねられ、明莉の視線を独占していたから。
—ありがとう、明莉。
たった六文字が不安げに響くその声は……奏の声だった。
話す方法を忘れてしまい、自分が正しい音を出せているか確信が持てないと言って口を閉ざしていた奏の声は、絵の中に込められていた。
まるで奇跡を象徴する青いバラが明莉に奇跡をもたらしたかのような、そんな奇跡のような状況に、明莉は自分がプログラムに没頭した2年が全く惜しくなかった。
自分は2年の時間よりも価値ある素晴らしい友達を得たのだから。
奇跡を贈れば、奇跡で応えてくれる、そんな素晴らしい友達を得たのだから。
おそらく、これから明莉は奏が自分に見せてくれた奇跡を忘れられないだろう。
奏は明莉に、人が人のためにどれほど強い奇跡を起こせるかを教えてくれた人であり、
自分が与えた奇跡にどんな奇跡のような答えを返せるかを教えてくれた人だから。
明莉にとって奏の存在そのものが奇跡であり、友達になれたこと、そして友情を築けたことが何よりも大きな奇跡なのだ。
だから、だから… 何よりも大切な友情(奇跡)なのだ。
初めて書く文章です、どうか奏と明莉をたくさん愛してください。




