7 魅了
目を開けると、見慣れた天井。
──自分の部屋。
(あ……私、また倒れたのか)
ぼんやりと昔を思い出す。ブラック企業で働いていた頃、徹夜続きで倒れた事があった。上司に「自己管理がなってない」と、ものすごく叱られたっけ。
「……また、怒られるのかな」
そんなことを思いながら、苦笑しながらベッドから体を起こす。ふと、サイドテーブルに置かれたティーポットとカップが目に入った。
「ユイ」
声に驚いて振り向けば、椅子に座るカイルがいた。深い蒼の髪が光を受けて柔らかく揺れ、青灰色の瞳が真っ直ぐ見つめていた。
「ようやく目を覚ましたか」
低く落ち着いた声。けれどその奥に、ほんの少しだけ、張りつめていたものが緩んだ気配があった。
「な、なんで? 団長さんがここに?」
「倒れたお前を俺が運んだ。召喚者である私の責任にもなるからな」
「なる……ほど、それはご迷惑をおかけしました」
彼の表情はいつも通り無愛想なのに、今は目の奥が少しだけ優しい気がする。
「ほら……」
カイルが手渡してきたカップには、ほんのり温かい紅茶が淹れられていた。魔法で保温してくれてたのかな? なんて思いながら、一口飲んだ。私はどれだけ寝てたんだろう。甘めに淹れられた紅茶が、身体にじんわりと沁みた。
「ありがとう……ございます。あの、ずっと居てくれたんですか?」
「気にするな、礼などいらん。倒れるまで魔力を使うなど、馬鹿なのか?」
う……冷たい。でも言葉は厳しいけど、やっぱり少しだけ目が優しい。
「心配かけてごめんなさい。でも、何もせずにはいられなくて」
「……あの浄化魔法が、感染源の水路と井戸を完全に清め、流行病の拡大は止まった。治療所は近いうちに閉鎖される見通しだ」
「ほんと……ですか」
カイルが小さく息をつく。
「間違いない。あの行動が、多くの命を繋いだ」
(そっか、良かった……)
安堵の笑みが浮かんでくる。流行り病が無事に落ち着いているようで嬉しい。それに、あの時の行動を素直に褒めてくれる彼の言葉が嬉しかった。
「だが、二度と無茶はするな」
その低い声は、命令というよりも祈りのように聞こえた。青灰の瞳がほんの少しだけ揺れている。
「お前が倒れる姿を……もう見たくない」
「──え」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。いつもの冷静な彼の口から、そんな言葉が出るなんて思ってもみなかった。
そんな言い方反則でしょ。心臓がうるさく跳ねる。頬のあたりが熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らした。きっと今、顔が真っ赤だ。
「了解です、団長様!」
照れてる事がバレないよう、騎士風に凛々しく返事した。すると、彼は少しだけ眉を寄せた。
「お前は俺の部下では無いだろう。俺の事は名前で呼べ。……カイルだ」
「え、あ……カ、カイル……さん?」
恐る恐る口にすると、彼の唇がかすかに弧を描いた。笑った、ほんのわずかに。
その一瞬が眩しくて、胸の奥がぎゅっと掴まれるようだった。
(ちょ、ちょ、待って。いつもクールさはどこに行ったの!? 心臓がもたないよ……)
「あっ──」
焦り過ぎたせいか、手から紅茶のカップが滑り落ちた。布団にも着ていた服にも紅茶が溢れて、茶色い染みになっていく。飲める温度だったから熱くはないけど、やらかしてしまったわ。
そんな姿を見て、いつものクールフェイスに戻ったカイルはスッと手を上げた。ボソッと何かを呟いたかと思うと、一瞬にして紅茶の染みが消えていく。あ、洗浄魔法だ。
「本当に、お前は手のかかる女だな」
そんなことを言うカイルの顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
◇
流行病の騒動からしばらく経った。街には少しずつだけど穏やかな空気が戻ってきている。
今日の空は雲一つない晴天。外出にはぴったりだ。お昼は外で美味しいランチでも食べよう。そう思って、お気に入りのカバンと若草色のシンプルなワンピースを着て街に繰り出した。
鍛冶屋のおかみさんが遠くから手を振ってくれている。花街区に息子さんが住んでいたらしく、私が治療して回った事を知って、泣きながら感謝を伝えてくれた。思わず貰い泣きしそうになったよ。
おかみさんに手を振り返していると、子供たちが笑いながら駆け寄ってきた。
「あ、お姉ちゃん! おかあさん、すっごく元気になったよ!」
「弟を助けてくれてありがとう!」
子どもたちに囲まていると、通りの人々に笑顔を向けられた。
──こんなふうに笑える日が来るなんて。
異世界に来たばかりの頃は、不安な時もあったのに。
ふと、カイルの鋭い青灰色の瞳の色を思い出した。
(あれから、あんまり会ってないな……)
きっと事後処理で忙しいんだろう。たまに来たとしても、最近妙にそっけない気もする。
──何か怒ってる? それとも、呆れられた?
モヤモヤとした心のまま、ふと見上げた空は、どこまでも青く澄んでいる。
街角に佇む可愛いカフェを見つけた。周りには黄色のマリーゴールドのような花が植えられていて、過ごしやすそうだ。
(今日のランチはここだな)
そう決めると、店員さんにおすすめされたテラス席に座り、ワッフルとベーコンのランチプレートを注文した。先に届いた紅茶には、薔薇の花びらが一枚浮かんでいて、その香りに癒やされる。
「しあわせ……」
紅茶を楽しみながら、小さな幸せを噛み締めている時だった。
「おや、一人かい? こんなに綺麗な子が一人なんて勿体無い。退屈してない?」
どこからともなく現れた男に驚いた。妙に髪を固めた、軽薄そうな男が、ニヤっと笑いながらテーブルに手をつく。
(うわぁ、困ったな……)
この優雅な時間を壊されたくない。穏やかにお帰り願いたい。
「いえ、別に退屈とかしてませんのでお構い無く」
「君、可愛いねぇ。そんなこと言わずにさ、俺と一緒にお茶でも飲もうよ」
断ろうとしても、男はさらに身を乗り出し、私の顔を覗き込もうとする。
「不愉快だ。その女性に近づくな」
低く冷たい声が、突然割り込んだ。次の瞬間、男の肩に無造作に置かれた手。男が驚いて振り向くと──そこに立っていたのは、私服姿のカイルだった。
その鋭い青灰色の瞳は、氷のように男を射抜いている。完璧な顔立ちとオーラに、周囲のテラス席にいた人たちも、一瞬静まり返ってこちらを見ていた。
「な、なんだよあんた……!」
「彼女は忙しい。失せろ」
たった一言。その圧倒的な威圧感に、男は顔を青ざめさせ、一目散に逃げていった。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「お前はどうして断らない」
「こ、断わりましたよ! でも、引き下がらなくて……」
カイルは何も答えず、ただじっと私を見た。その青灰色の瞳には、責めるような色はない。ただ、張り詰めたような緊張と、静かな焦りのようなものが混じっていた。
「……お前は、無防備すぎる」
たった一言。それだけ言って、私の目の前の席に腰を下ろした。
「今から、食事か」
「はい。今からいただきます」
「そうか」
彼は店員を呼び、紅茶を一つ注文した。
「私も、ここで少し休憩する」
彼はそう言って、私が食事を終える間、ずっと同席してくれた。私たちが並んで座っていると、周囲の席の女性たちがチラチラとこちらを見ているのがわかった。もちろん彼に向けられた視線だった。気持ちがすごく分かる。紅茶を飲んでるだけでも絵になるもんね。
彼は食事を邪魔することはなかったが、時折、鋭い視線が私に向けられるのを感じて、私は緊張しながらワッフルを口に運んだ。
食事を終えると、彼は当然のように家まで送ってくれた。でも、家の前に着いても帰る気配を見せなかった。そして無言のまま、部屋に入ってきた。
「え、ちょっ、なんで入って──」
「聞きたいことがある」
カイルは、まるで何かを決意したような表情で私を見据えた。その瞳には、熱と苦悩が入り混じっている。
「お前、俺に魅了魔法を使っているだろ?」
「みりょう……?」
一瞬、頭が真っ白になる。
「え、な、なにそれ!? そんなの知りませんよ! というか、そんなことできないし!」
カイルは顔をしかめ、手でこめかみを押さえた。
「なら、説明しろ。お前と会うと、胸がざわつく。鼓動が速くなる。魔力が乱れる。……触れたいという衝動が抑えられない」
低く、切なげな声。
普段あれほど冷静な男が、言葉を詰まらせる。
「俺は、精神干渉を受けない。通常の魅了なら、すべて跳ね返す。……だが、これはお前と会ってからだ。お前以外では起きない。これは何なんだ」
「ちょっ、ちょっと待って、待って!? そ、そんなの知らないし!」
「なら、どう説明すればいい。俺の感情を乱す存在など、他にいない。……お前しか」
──私しか。
言葉の意味を理解した瞬間、顔が一気に真っ赤になる。
(え、え、なにそれ!? まさか、私のこと……す、す、す、す、好き……? なわけない……よね)
頭の中で警報が鳴り響く。至近距離で見つめられるその目。
鋭く冷たいはずなのに、今はどこか熱を帯びていて──。
息が、苦しい。
「……っ、魅了なんてかけてません!!」
「なら、どうしてこんなに──」
「知りません!! 自分で王城の人にでも解いてもらってください!!」
耐えきれず、カイルを玄関から押し出した。扉がバタンと閉まる。
外でしばらく沈黙が続き──
「……解けるなら、とっくに解いている」
そんな小さな呟きが聞こえた。
壁にもたれ、膝を抱えたまま、顔を真っ赤にして悶絶する。
(むりむりむりむりむり! あれ、どういうこと!? 私、何か悪い魔力でも放出してるの!?)
カイルの、わけのわからない「不調」の発言に、私の心臓は止まりそうだった。




