48 二人の距離と赤い花
謁見の間から退出し、王宮の治癒師たちにお礼を告げた後、カイルさんとマリアベル様とともに侯爵邸へ向かう馬車の中にいた。
「ユイさん、大丈夫?」
「ありがとうございます、マリアベル様。でも、ちょっと緊張しすぎて、まだ落ち着きません」
正面に座るマリアベル様に、心配そうに声をかけられると、隣に座るカイルさんがわずかに首を傾げた。
「そうか? 落ち着いていたように見えたが」
「あれは、カイルさんが隣にいてくれたので、どうにかなっただけです」
そう口にすると、カイルさんは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。自分の発言が持つ意味に気付き、顔に熱が集まる。マリアベル様が私たち二人を微笑ましそうに眺めているのが視界の端で分かった。
カイルさんは、静かに言葉を続けた。
「これからユイは、聖女としての任命式やお披露目と、公的な行事で忙しくなるだろうな」
そう言われると、改めて「大丈夫だろうか」と不安がよぎる。
「ユイは、大聖堂の復興の象徴になるんだろうな。だが、それは王都の人々にとって救いになる」
その言葉は、栄誉であると同時に重い責任だった。より一層緊張している私を見て、カイルさんは私の手をそっと握り、力強い視線を向けた。
「大丈夫だ。俺が、ユイのすぐ近くにいる」
そのまっすぐな言葉と優しさが滲む笑顔に、心臓がドクリと大きく跳ねた。
侯爵邸に到着すると、侍女頭であるメリアさんや、家令のアルバートさんが出迎えてくれた。
メリアさんの顔に安堵と憔悴の色が浮かぶ表情を見て、どれだけ心配をかけてしまったのかを思い知る。
「カイルもユイさんも、今日は本当に疲れたでしょう。温室でゆっくりお茶でもしましょうか」
マリアベル様がそう言い出し、私たちは邸内にある温室へと案内された。
そこは花々の甘い香りと、午後の穏やかな光に満ちていた。温室のティーテーブルにはすでにティーセットが用意されている。
マリアベル様は温室へ入った瞬間、「あら、いけないわ」と言い、手を口元に当てた。
「わたくし、確認しなければならない書類があるんだったわ。ユイさん、ごめんなさいね」
ん?と軽く首を傾げると、マリアベル様はにっこりと微笑んだ。
「わたくしは仕事に行くわね。メリアが用意してくれたお菓子も、ゆっくり二人で召し上がって」
そして、カイルさんに向き直り、含みを持たせた眼差しで言った。
「カイルは、ここでゆっくりとユイさんのお相手をしてちょうだい」
そう言い残すと、マリアベル様は優雅な足取りで温室を後にした。
温室には、カイルさんと私だけが残された。
わざと二人きりにされたのだと理解し、心臓は激しくドキリと鳴った。カイルさんも、少し気まずそうに笑っている。
彼は用意されたティーテーブルには向かわず、温室の豊かな花々を見渡した。そして、その中から一輪、鮮やかな赤い花に視線を定めると、そっと茎を折った。それは、幾重にも花弁を重ねた赤いラナンキュラスだった。
カイルさんはその花を持ったまま、温室を見渡せる位置に置かれた長椅子に腰掛けた。
「ユイ、おいで」
軽く手招きをしながら、目線だけで「近くに来て」と告げているようだった。戸惑いながらも、そっと歩み寄る。
カイルさんは、長椅子の前に立った私を見上げ、赤いラナンキュラスを差し出した。
その花を渡そうとしてくれたのだと気付く。そっと花に手を伸ばした瞬間、彼は小さく息を漏らし、私の手首を取った。
引かれたのはほんの少しの力。でも抗う隙などないほど自然で、優しい動きだった。
そのまま彼の胸元へと導かれ、気づけばカイルさんの膝の上に横向きに座らされていた。
彼の温かさがすぐそばにある。私の顔は自然と彼の首元へ寄せられ、吐息が肌に触れそうな距離だった。
近すぎる距離に、呼吸の仕方さえ分からなくなる。白と黒の衣擦れの音が、静かな温室の空気に溶けた。
彼は何事もないように、私の腰を軽く抱き寄せ座り心地を整える。
その動作ひとつひとつがあまりにも自然で、私がその膝の上にいることが、当然のように思えてしまうほどだった。
カイルさんは私の髪を優しく髪を掻き上げ、赤いラナンキュラスを挿した。耳元で赤い花弁が揺れるのを感じる。
私は、戸惑いながらもなんとか声を絞り出した。
「ちょ、ちょっとこれは……恥ずかしいです」
カイルさんは、私を抱きしめたまま満足そうに微笑む。
「いや、とても似合っている。白いドレスとユイの美しい黒髪に、赤い花が映えていて綺麗だ」
「えっと、そっちではなくてですね……」
(……この状況が、恥ずかしいんです)
抱きしめられる力強さと、膝の上という逃げ場のない体勢に、体の奥から熱がせり上がる。
「ユイ……君が無事で、本当に良かった」
カイルさんが私の髪に顔を埋めるように静かに呟く。その声は切なさを含んでいた。
「この暖かさが、失われなくてよかった」
その言葉に、胸が締め付けられる。彼はそのまま、長椅子に深く体を預け、ゆっくりと話し始めた。
「ユイがこの国に来た時のことだ。家族も友人もいない地に、一方的に呼び出してしまった。それなのにユイは文句一つ言わず、真摯に勉強や魔法に取り組む姿を見て、最初は驚いた」
カイルさんの規則正しい鼓動が、耳元に響いてくる。
「ひとり王都で暮らすことになったときも、君は穏やかに楽しそうにしていた。その屈託なく笑う笑顔に、俺はなぜか惹き付けられた」
(そんなふうにカイルさんに思われてたんだ……)
そう思うと、この状況も相まって私の動悸は止まらなくなる。
「女性から向けられる視線も好意も、俺にとっては煩わしいものばかりだった。だが、ユイと過ごす時間だけは、なぜか心地よく感じた」
カイルさんの声は、自分の心を探るように静かだった。
「いつからだろうな。ずっとユイの笑顔を見ていたいと思うようになっていた。そして、用事もないのになぜか会いに行ってしまう自分に、俺自身が驚いた」
彼は、私の背中を優しく撫でる。
「こうやって触れたいと思う衝動を抱いたときは、本気で魅了魔法を疑った」
そう言いながら笑う彼の正直な告白と発言の恥ずかしさに、顔を上げることができない。
カイルさんは、深く息を吸い込んだ。
「本当は、かなり前に自分の気持ちに気づいていた。ユイに会うと鼓動が早くなるのも、触れたいと思う気持ちも、守りたいと思う気持ちも──答えは出ていた」
彼は、私の髪を優しく慈しむように撫でる。その動作に、私の胸はぎゅっと詰まった。
「ユイ、顔が見たい」
「……や、今は……無理、です」
恥ずかしすぎて頭を振る。カイルさんは抱きしめる力を緩めなかった。
一瞬の沈黙。カイルさんがゆっくりと、深いひと呼吸をつくのが分かった。
次の瞬間。
ちゅ、という極めて静かな音が耳に届いた。カイルさんの唇が、私の前髪にそっと触れた。
突然の感触に驚き、勢いよく顔を跳ね上げた。その視線の先。カイルさんの青灰の瞳が、至近距離で私の目と合う。
「やっと、目が合った」
すぐ目の前で、低い声でそう言われ、顔全体が真っ赤になるのを感じた。
カイルさんは、私を逃がさないというかのように静かに抱きしめ直した。
彼の瞳には、切なげな愛惜の光が満ちていた。




