46 深淵の贖罪(カイルside)
魔力の線は一本一本が重く、流すたびに魂を削られるような感覚の中、俺は全身の力を込めて魔法陣を練り上げていた。
だが、張り詰めた集中が一瞬にして砕けた。
礼拝堂の入り口側から、水色の光が視界の端を閃光のように駆け抜けたからだ。
その光がユイだと認識した瞬間、俺は己の目を疑った。
「ユイ! なんでここに来た!!」
絞り出すような声で叫んだ瞬間、彼女は俺の横を通り過ぎた。その顔に浮かんでいたのは笑顔だった。
それは、戦場にいる人間の顔ではない。あまりにも明るく、あまりにも悲痛な決意に満ちた笑顔だった。
「カイルさんのことが大好きです」
彼女の声は、魔力と轟音に満ちたこの空間で、妙なほどはっきりと俺の耳に届いた。
脳は思考を停止した。「大好き」という言葉の意味も、彼女の行動の意味も、一瞬、全く理解できなかった。
次の瞬間、ユイは古龍のいる穴へと迷いなくその身を投げた。
「やめろっ!」
その叫びは、届くはずもなかった。
穴に飛び込んだユイの身体から、今まで見たこともない、膨大で柔らかな魔力の光が溢れ出す。神域の魔法。それは、俺たちが束になっても届かない、概念そのものを揺るがす力。
ピンク色の閃光が、黒紫の古龍の魔力を抵抗なく飲み込み、世界をリセットするかのように古龍の存在ごと消し去った。
禍々しかった魔力が完全に消えた瞬間、俺たちの身体を圧迫していた重圧も消え、解放感が全身を駆け巡る。
「古龍が消えた……!」
団員たちの歓喜の声が、崩壊した大聖堂の残骸に響き渡る。だが、俺の視線はただ一点、穴の中の虚空に釘付けになっていた。
ユイが魔法を放った後、力尽きた水色のドレスの塊が、闇の底へゆらりと落ちていくのが見えた。
身体が勝手に動いた。俺は魔法陣の制御をイリアスに任せ、風魔法で穴の縁から飛び出す。
落下していく小さな身体を、腕の中に受け止める。衝撃はなかった。ただ、やわらかく途方もなく軽い。彼女の身体を抱きしめた瞬間、安堵と激しい後悔が稲妻のように全身を貫いた。
「ユイ……!」
声が震える。胸が苦しい。ユイは少しだけ瞳を開いたかと思えば、そのまま意識を手放した。薄い瞼は閉じられ、頬は冷たく呼吸は浅い。
俺は彼女を抱きかかえたまま、震える足で地上へ戻った。
「治癒師をよんでくれ」
団員たちが一斉に動き出した。イリアスが駆け寄ってくる。彼の顔も、驚愕と安堵で歪んでいた。
「団長、ユイさんは……」
「意識がない。魔力枯渇と、術式の反動。おそらく命を削るほどの過負荷だ」
俺は力の抜けた腕でユイを抱きしめ、その冷たい頬に触れる。彼女が飛び込んできたときの笑顔が、目に焼き付いて離れない。
間もなく、駆けつけた治癒師が治癒魔法を施し始めた。すぐにユイの治療に取り掛かるが、その深刻な症状に顔色を失っている。
「魔力の根幹がかなり深く疲弊しています……」
「カイル団長!」
その時、さらに緊迫した空気を纏って、ディオン治癒師長が、足早にユイの元へ到着した。
「ユイさんは私が診ます」と言って、ディオンは即座にユイの極限まで落ち込んだ魔力状態を診断し、治療を引き継ぐ。幾重にも治癒魔法が重ねられた。
「ご安心ください、団長。生命力そのものの消耗が激しいですが、適切な措置を講じれば問題はありません。ただ、これほどの魔力、生命力を燃やし尽くすほどの消耗です。数日は目を覚まされないかもしれませんが……」
その言葉を聞き、ユイ無事だと分かり、張り詰めていた心がわずかに緩んだ。
「王城に運びますね、団長。陛下にも報告をしますので」
(いや、俺が運ぶ)
反射的にそう心で叫んだが、我に返った。
古龍は消滅したが、王都の治安回復、魔道士団への指示、事後処理の責任。魔道士団の団長として果たさなければならない責任が山積している。
俺は苦しげに唇を噛み締め、ユイの温もりを引き剥がすようにディオンに託した。
「……ユイのことを、頼む」
「承知しました。ユイさんのことはお任せください」
ディオン治癒師長の力強い言葉に、俺はユイの小さな身体を名残惜しく見送り、後処理へと向き直った。
イリアスと共に、瓦礫が散乱する回廊を歩き始めた。古龍の魔力も瘴気も消え失せた大聖堂は、信じられないほどの静寂に包まれていた。
(結局、ユイに救われた……)
絶望的だった状況を打開したのは、ユイの命を懸けた魔法だった。この事実は、激しい安堵をもたらすと同時に、彼女の純粋な想いの強さを痛感させた。
だが、安堵の裏側で、別の感情が湧き上がってくる。
(なぜ、あんな無茶を……)
ユイの笑顔が脳裏に焼き付く。
(だが、それは俺がユイにしようとしたことと何が違う?)
彼女を守るためと称して、自分の覚悟を伝えなかった。彼女に危険を知らせず、王城に残そうとした。その結果、俺は彼女に背を向け、この場所へ赴こうとしていた。
残された者は、こんなにも辛い気持ちになるのか。二度と会えなくなるかもしれないという焦燥と恐怖。
(俺は、君にこんな思いをさせるところだった)
俺は感情を押し殺し、魔道士団の団長としての顔を取り戻した。
「イリアス。騎士団と連携し市街の治安回復と、共犯者の洗い出しを急ぐぞ」
「はっ!」
俺は、ユイの命懸けの行動を胸に刻み、贖罪のため、事態の収拾へと向かった。
◇
劫炎獄龍を巡る騒動から三夜が明けた。王都を覆った混乱の波は、静かに引き始めている。
今日も俺は、王宮の治癒棟にある特別な介護室の扉の前で、王宮治癒師のルシア嬢に睨まれていた。
「ですから! たとえ団長様とはいえ、毎日来られても、ここをお通しすることはできません」
ルシア嬢は、そう言いながら一歩も引かず俺を睨みつけてくる。その表情に眉を落とす。
ユイはあの日以来、この王宮の一室で治療を受けている。俺は一目だけでも彼女の顔を見ようと毎日ここに来ているが、ルシア嬢の主張は一貫していた。
現在ユイの看護は、ルシア嬢を含む複数人の王宮治癒師と、母上が交代で付き添っている。
彼女たちの主張は、「未婚の女性が寝ている部屋に、婚約者でもない成人男性が入るべきではない」という、この国の社交界の厳格な常識に基づくものだった。
その時、扉が少しだけ開き、母上が顔を出した。
「そうよ、カイル。わたくしたちがユイさんにしっかりとついているから、あなたは職務を全うしてらっしゃい」
母の顔を見て、これ以上粘るのは無駄だと悟り、見舞いを諦めた。この三日間、同じやり取りを繰り返している。
扉が閉まる間際、母上の小言が聞こえた。
「あなたが早くケジメをつけていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」
その言葉に反論の余地がなかった。
重い足取りで廊下を歩いていると、宰相閣下に声をかけられる。
宰相閣下の執務室にて、俺とイリアス、そして宰相閣下の三人で、事後処理に関する会議が始まった。
「カイル団長、イリアス副団長、今回はご苦労様でした」
宰相閣下は、やつれた表情ながらも、安堵の息を漏らした。
「さて、ヴィオラ殿下はどうなっていますか」
宰相閣下が硬い表情尋ねる。俺は淡々と報告した。
「殿下は拘束後も尋問には何も答えず、『世界を有るべき姿に戻しただけだ』と、それだけを主張し続けていましたが、側近の一人が口を割りました」
「よく口を割りましたね」と宰相閣下が低い声で唸る。イリアスが苦笑しながら続けた。
「まあ、色々な手をつかいましたからね……その者によると、前々から我が国の龍の封印をラザード公国の一部でよく思わない派閥があったこと。その筆頭がヴィオラ殿下であったこと。そして、イーグス枢機卿に接触し、禁制薬の横流しや、その接触の際に少しずつ呪術式をかけていたことを吐きました。これより、術式の詳細な調査と、ラザード公国の直接的な関与についての調べが続きます」
宰相閣下は重々しく続けた。
「ラザード公国が我が国に与えた損害について、外交的な責任追求をこれから本格的に進めていくことになりますね。極めて繊細かつ重大な問題ですが、迅速に対応しなければいけませんな」
そして、宰相閣下は表情を和らげ、改めて切り出した。
「ユイさんのことですが。国王陛下が、これまでの多大な功績を鑑み、ユイさんに聖女の称号を授与したいとの意向を示されております」
「当然の流れですね」とイリアスは迷いなく頷いた。
「……そうですか」とだけ俺は答えたが、ユイの遠慮がちな性格を思うと、辞退すると言い出す姿が目に浮かぶ。
「すでに三日経っていますが、ユイさんはまだ目覚めないのですか?」と宰相閣下に聞かれ、一瞬言葉に詰まる。
「……ディオン治癒師長によると、あと二、三日もあれば目覚めるだろうとのことです」
「そうでしたか。早く目覚めるといいのですが」
宰相閣下は心から案じるように言った。
俺たちは他にもいくつか解決すべき課題を確認し、その日の会議を終えた。
宰相閣下と別れ、イリアスと王宮の廊下を歩いていると、背後から聞き慣れた声が響いた。
「団長、ちょっとよろしいですか」
呼び止めたのはゼルフィだった。イリアスはすぐに状況を察し、「先に魔道士団に戻ります」と言い残し、二人きりになるようその場を離れた。
「ゼルフィ。今回は色々と骨を折ってくれた事に感謝する」
俺が労いの言葉をかけると、ゼルフィは不満と心配を混ぜたような不服そうな表情を隠さなかった。彼の視線は、真っ直ぐで力強い。
「ユイは大丈夫なんですか?」
俺が「ああ、大丈夫だ」と答えると、ゼルフィの瞳は俺の心の内を見透かすように、まっすぐ俺を見据えたまま、さらに問い詰めてきた。
「じゃあ。なんで団長はそんなに不安そうなんですか」
その言葉に、俺はハッとした。隠しているつもりだった俺の焦燥が、彼には見えているようだ。
「団長がそんなんだったら、俺がユイのこと貰いますからね」
ゼルフィは挑発的でありながら、同時に切実な警告を言い放つと、迷いなく立ち去ろうとした。
その背中に、俺は抑えきれない決意を込めて声をかける。
「ありがとう。……だが、ユイは必ず俺が守る」
ゼルフィは一瞬立ち止まったが、振り返ることはせず、そのまま立ち去った。
母上にも、そしてゼルフィにも、俺の優柔不断な態度を見抜かれていた。とうの昔にユイへの気持ちを自覚していたのに、その想いを明確な形にして示していなかった。自分の煮え切らなさを、改めて痛感する。
今はまだ、ユイが意識を取り戻すまで、彼女が無事に目覚めることを祈る事しかできなかった。




