36 自覚
翌朝。
昨夜、絶対に寝不足になると覚悟していた。だけど、蓋を開けてみれば思いっきり熟睡。目覚めは驚くほどすっきりしている。
ふと、昨夜は枢機卿の事を一瞬も思い出さなかったことに気付く。昨夜の彼の行動は、私の思考を意図的に彼に向けさせるためのものだったのだろうか。そう考えながら昨夜の出来事が蘇る。
(いやいや、もしそうだとしても、乙女心を弄ぶなんて意地悪すぎる!!)
身支度を整えながらも、心の中でカイルさんを責めつつ悶々としていた。
その時、コンコンとノックの音が響いた。
「ユイ、いるか?」
カイルさんの声だ。
私は不満を隠しきれないまま扉を開ける。彼はいつもの団服ではなく、白地のシャツに濃紺のベストを羽織り、黒いトラウザーズという私服姿だ。首元のタイは緩められ、普段の堅苦しさがない。その姿がまた恐ろしく似合っていて、朝からそのギャップを見せつけられたことに、余計に憎たらしくなる。
(こっちは悶々としているのに、なんでこの人はこんなに朝から爽やかなの)
不満の表情を顔に出してしまっている私を見て、カイルさんは眉を下げて困ったように言った。
「なんだ、そんな顔をして。なんか俺、謝ったほうがいいやつかな。……すまない」
その困り顔を見て、ハッと我に返った。こんなに朝早くから来てくれて、お世話になっている人に、八つ当たりにも近い不満な顔を見せ、こんな表情をさせているのはあまりに不義理だ。彼を責める気持ちが、急激にしぼんでいく。
「あ、いえ、 寝起きが悪かっただけなので、気にしないでください。それより、もうすっかり元気になりましたし、そろそろ自宅に帰ろうと思うのですが」
気まずさを誤魔化すように切り出すと、カイルさんは予想通りだと言わんばかりに言った。
「そう言い出すと思った。話がある」
そうして、カイルさんと一緒に朝食を食べながら、彼の話を聞くことになった。
「ラザード公国、ですか」
「ああ。あの国は魔法を使える者が極端に少ない分、薬学の知識が独自に異常に発展した国だ。今回の件にも、偽聖女の件にもその国の薬が関わっていることが判明し、今調べが進んでいるところだ」
カイルさんは、北区の教会の偽聖女の件や、今回私に使用された薬がラザード公国のものであることを説明してくれた。
「それで、そのラザード公国との関係の裏付けが完全に終わるまで、ユイには一時的に転居してもらいたいと思っている」
自宅に帰って一人きり。確かにその話を聞いたあとだと、少し不安かもしれないと思ってしまう。
(でも、転居と言ってもどこに?)
そう考えていると、カイルさんはまっすぐ私を見て言った。
「今から一緒に見に行ければと思うんだが」
「え、でもカイルさんお仕事は?」
思わず尋ねるが、そこでカイルさんが私服だったことを思い出した。
「今日は非番だ」
◇
私たちは馬車に乗り込み、王城を出た。カイルさんと二人きりで走る馬車の中は、何だか静かで落ち着かない。
「あの、どこに行くんですか?」
戸惑いながら尋ねると、彼は少し困ったように微笑みながら、明確な答えを濁した。
「見てみてから、ユイが気に入ればそこにいればいいし、気に入らなければ他を探す」
彼の意図が掴めないまま、馬車は王都の中心部から、厳重な門構えの続くエリアへと進んでいく。そこは、華麗な建築と豊かな緑が調和する、王都の貴族街だった。
しばらく進んだ先に、馬車はぴたりと止まった。目の前には、貴族街の邸宅群の中でもひときわ大きな、堂々とした佇まいの邸宅。
(これはホテル……じゃないよね?)
馬車は巨大な鉄柵の門をくぐり抜け、手入れの行き届いた華やかな庭園を抜けていく。庭園には季節外れの花々が咲き誇り、建物の壁には繊細な装飾が施されていた。馬車は玄関の正面へと滑るようにつけられた。
「行こう」
カイルさんに促され、私は馬車を降りた。巨大な扉を前に思わず立ち止まる。
(え、勝手に入っていいの!?)
私が戸惑っていると、重厚な扉が内側から開いた。玄関ホールには、清潔な身なりの使用人たちが整然と一列に控えていた。
その中から、壮齢の男性が一歩前に出て、カイルさんに深々と頭を下げて迎えた。
「おかえりなさいませ、カイル様」
壮齢の男性は、カイルさんへの挨拶を終えると、優しげな瞳を私にも向け、丁寧な口調で挨拶する。
「お待ちしておりました、ユイ様」
(え? え?)
混乱と動揺で、カイルさんの袖を思わず掴んだ。
「あ、あの、ここはいったいどこですか?」
小声で焦りながら尋ねると、カイルさんは少しだけ微笑みながら言った。
「ヴァレンティス侯爵家だ」
「ヴァレンティスコウシャクケ……」
(って、まさか……)
私が驚愕のあまり言葉を失っていると、カイルさんは秘密を打ち明ける子供のように、わずかに口元を緩めて言った。
「俺の家だ」
(えええええぇぇぇぇぇ!?)
心の中で、絶叫が響き渡った。混乱のあまりカイルさんの袖を掴んだまま離せないでいると、カイルさんは私の動揺を面白がるように口角を上げる。
「詳しい話はあとだ。ユイ、ひとまず部屋に案内する」
装飾が施された廊下を歩き、二階へと通された。案内された客室は、天井が高く採光窓からはたっぷりと陽光が注ぎ、磨き上げられた木材の床と重厚な家具が上品な華やかさを醸し出している。すべてが立派すぎて、ソファに座るだけでも緊張してしまいそうだった。
私が戸惑っていると、扉がノックされ、壮年の女性がにこやかな様子で部屋に入ってきた。
「ユイ様、ようこそおいでくださいました。わたくし、侍女頭のメリアと申します。カイル様からユイ様をお迎えすると伺って以来、この日を心待ちにしておりました」
侍女頭と紹介された女性は優雅に頭を下げた。その歓迎ぶりに、どう反応したものかと戸惑いつつも、慌てて私も頭を下げた。
「あ、あの……ユイと申します。こちらこそ、よろしくお願いします……」
思考が追いつかない私をよそに、カイルさんが声をかけた。
「メリア、席を外してくれるか。ユイと二人で話したいことがある」
「まあまあ、ユイ様が来られたことが嬉しくて、つい長居してしまいまして。気が利かず申し訳ございません」
メリアさんはそう言いながら、何かを悟り微笑ましいものを見るような、含みのある視線を私たちに残し、部屋を辞した。
(なんか、あれ……完全に勘違いされてる気がする)
恥ずかしさと焦りで、カイルさんに詰め寄った。
「な、なんでカイルさんのお家なんですか!? 」
「嫌だったか?」
「いや、そういうわけではないんですけど……」
言葉に詰まるっていると、カイルさんはいつもの冷徹な顔に戻り、淡々と説明を始めた。
「ここは王城と同じく、堅固な結界が幾重にも貼ってある。俺の目の届く場所でもある。ラザード公国の件が解決するまで、ユイは安全な場所にいてほしい。ユイが快適に過ごすためでもあるが、ここの使用人は護衛としての腕も立つ。警備としても最も合理的だ」
ここ以外の最適解はなかったことを告げられる。
「この部屋の装飾は気に入らないなら変えてもいいし、護衛を伴ってくれたら行動の制限もない。もしもここが嫌ならば他を探す。できれば、ここにいてくれると助かるんだが」
その言葉は、決定事項を告げているようでありながら、最後にユイに選択肢を与える形を取っていた。
カイルさんの話を聞く限り、ここ以外に最適な場所はないのだろうと理解した。だが、本当にここに住み込んで良いのかという戸惑いが残る。
「あ、あの、カイルさんのご両親は、このことをご存知なのですか!?」
「ああ。両親は領地へ下がっていて、統治と公務に専念している。この本邸にはめったに顔を出さないが、近いうちに来ると言っていたな。滞在の件については、事前に全て伝えて承諾を得ているから問題ない」
「そうなんですね……。あの、ここに私が住んだとして、その……カイルさんは何か不都合はないのですか?」
「何も困ることはないぞ」
カイルさんは事もなげに、淀みない口調でそう言い切った。そのあまりに迷いのない態度に、私は返す言葉を失う。
(本当にいいのだろうか……)
王城で聞いた、私とカイルさんに関する噂を思い出し、この同居が周囲にどう受け取られるかを考えると、私は再び不安に苛まれた。眉を寄せて悩んでいると、カイルさんはふいに立ち上がった。
「屋敷を見て回るか? 」
そう言って、カイルさんは優雅な動作で、私に手を差し出してきた。その姿は、物語に出てくる騎士のように完璧に様になっていた。
(これは、手を取るべきものなのだろうか……)
一般の女性はこうやってエスコートされるものなのかと、激しく戸惑う。かと言って、差し出された手を無碍に断るのも失礼だろう。
(今度、セレナにこの辺りの作法を詳しく聞いてみなければ……)
そう心の中で誓いながら、そっと自分の手を添えた。
カイルさんに手を取られ、広大な屋敷内を見て回ることになった。
広々とした客間、格式ある応接室、そして豪華なダイニングホール。訪れる先々で、使用人たちが深々と頭を下げ、「ユイ様、ようこそ」と温かい歓迎の言葉をかけてくれる。
(本当に、滞在させてもらっても良いのかな)
その圧倒的な規模と、カイルさんが事前に手配したことがわかる温かい歓迎に戸惑ってしまう。
そして、カイルさんに案内されてたどり着いたのは、屋敷の北棟に位置する一室だった。
「ここは書庫だ」
扉を開くと、そこには壁一面、天井まで届くほどの巨大な書架が広がっていた。単なる書庫ではなく、小さな図書館と言える規模だ。
歴史書や哲学書といった一般的な書物はもちろんのこと、錬金術や古代魔法に関する専門書、多くの魔道書までもが系統立てて整然と並べられていた。
「すごい……」
私は目を輝かせ、思わず声を上げる。
「ああ。ここも好きに使っていいぞ。魔道書も含め、ここに置かれているものは全て閲覧可能だ」
「カイルさんは、これ全部読んだんですか?」
私が驚き半分で尋ねると、カイルさんは当然のように答えた。
「ここにある本は読んでいるな」
「はぁ……」
「父が幼い頃から熱心に指導してくれたからな」
その言葉に、ただ感心するしかなかった。彼の圧倒的な実力と知識の深さは、生まれ持った才能だけでなく、積み重ねてきた努力の賜物なのだと改めて知った気がした。膨大な知識の土台は、彼自身が築いたものなのだろう。
そんな彼が差し伸べてくれる物理的、精神的な庇護を感じながら、改めて強く決意した。
(もう、誰かの助けを待つだけではいけない)
私は今回の事件を通じて「自分自身の力」の必要性を痛感していた。意を決して、彼に告げる。
「カイルさん。お時間がある時でいいので、私にもう一度魔法を教えてもらえませんか?」
カイルさんは一瞬、驚いたような表情をみせた。その蒼い瞳が、真意を探るように見つめてくる。しかし、彼は何も尋ねなかった。
「ああ、いつでもいいぞ」
その言葉は、私の胸の中に熱い光を灯した。
(ただ守られるのではなく、ちゃんと自分で自分を守れるように。何かあったときに、みんなを守れるように力を身に着けよう)
侯爵家の書庫の静謐な空気の中で、未来を見据えた決意を深く心に刻み込んだ。
そして、改めてカイルさんに向き合った。
「カイルさん。私、ここでしばらくお世話になってもいいでしょうか」
真剣な問いに、カイルさんはふわりとした心からの笑みを浮かべた。それは、私の存在を丸ごと受け入れてくれるような温かい笑顔だった。
「ああ、もちろんだ、ユイ。遠慮はいらない」
その一切の迷いがない圧倒的な笑顔を見た瞬間、胸の奥に眠っていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。心臓が、まるで身体の奥底から激しく突き上げてくるように跳ねる。この胸の高鳴りは友愛や感謝で片付けられるはずがない。
心臓が激しく脈打ち、その高鳴りが、唯一の真実を叫んでいる。
(ああ、私はカイルさんに惹かれている。この人を好きになってしまっている)
そうはっきりと自覚した瞬間、世界の色が変わった。彼の優しさが、急に特別でかけがえのないものに見える。以前よりも増して柔らかく感じるカイルさんの眼差しは、私の心を焼き尽くすほど眩しくて、どうしようもなく愛おしい。
「さあ、他も見て回るか。庭には温室もあるぞ」
カイルさんは、私の動揺に気づかない様子で、再び手招きするように手を差し出してきた。
自分の気持ちをはっきりと悟った今、この差し出された手を取ったら、きっと手が震えてしまうだろう。意を決して、そっと手を添える。
温かい彼の体温が手の平から伝わると、胸が切なく締め付けられた。胸が苦しいのに、この手だけは離したくないと思ってしまう。
理屈では説明できないほどの熱と切なさは、いったいどこから来るのだろう。
私の方が“彼の魅了”にかけられている。そう思わずにはいられなかった。




