33 温もりへの帰還
一瞬の空間のねじれの後、私たちの視界は王城の一室へと切り替わった。
そこは、魔道士団の待機室だった。転移が完了すると、数人の団員、そしてディオンさんが勢いよく駆け寄ってきた。
「ユイさん。ああ、よかった、ご無事だったのですね!」
ディオンさんたちの顔には、安堵と心配が入り混じった表情が浮かんでいる。彼らの心からの安堵の声を聞き、私はようやく本当に解放されたのだと実感した。
カイルさんの腕に抱き上げられたまま、緊急時に使われる客室へと通された。ソファに降ろされ、ほっと息をつく。
少し落ち着いたところで、イーグス邸で起こった出来事をカイルさんとディオンさんに説明した。説明の中で、「魔道士大会でカイルさんが使った魔法を、部屋の結界を破るために使いました」と伝えると、カイルさんは複雑な顔をした。その表情は、誇らしいような戸惑っているような、判別のつかないものだった。
説明を聞き終えると、ディオンさんは顔色を青くし、「あのイーグス枢機卿が……」と言葉を失っていた。一方カイルさんは、既に知っていたかのように、静かに怒りを秘めた表情で沈黙を貫いていた。
「着替えを用意させますから、少し待っててさいね」
ディオンさんにそう言われた私は、手足に力が入らないことを伝えなければと思い出した。
「ディオンさん、夕食に何か薬を入れられていたみたいで、あまり身体が動かせないんです」
その言葉を聞き、ディオンさんの顔が一気に険しくなる。カイルさんの顔にも、明確な嫌悪感が浮かんだ。
「異国の薬の一種でしょうね。おそらく、抵抗力を削ぐためのもの……。すぐに解毒薬を用意させます」
症状を伝えると、ディオンさんが控えていた治癒師に素早く指示を出す。まもなく、小さな瓶に入った液体と水差しが運ばれてきた。
ディオンさんに、この薬を水で流し込むように言われ解毒薬の小瓶を受け取った。
「飲めるか?」
カイルさんにそう聞かれるが、昨日から散々な目に遭ったせいか、反射的に手が震えてなかなかその液体を口に運べない。
カイルさんは、ためらいを察したように、私から静かに薬瓶を取り上げ蓋を開けた。「口を開けろ」と有無を言わせない口調で言う。私が小さく口を開けると、薬は口の中へ流し入れられ、ごくりと飲み下した。
喉の渇きを感じた私は、テーブルに置かれた水差しに震える手を伸ばした。だが、水差しは私の手が届くより早く、カイルさんに取られてしまう。カイルさんは、その水を自分の口に含んだ。
そして、次の瞬間。彼の顔がぐっと、信じられないほど近くに寄せられた。
「……っ!」
鼓動が一瞬で跳ね上がり、全身の血液が頭へと駆け上る。彼の冷たい指が、私の顎を捕らえ、拒否できないように口を開かされる。
柔らかく、しかし強い感触と共に唇が押し付けられた。彼の口から、生温かい水が口の中へとゆっくりと流し込まれる。私は驚愕と羞恥に抵抗する間もなく、その水をごくりと飲み下す。
カイルさんは唇を離した後、私の動揺などお構いなしに、もう一度静かに口に水を含むと、再び顔を寄せてきた。
恥ずかしさのあまり、「待って」と小さく声を上げ顔をひねろうとした。しかし、顎を捕らえられているため、それは叶わない。彼の蒼い瞳が、逃げようとする私に静かな圧力をかけてくる。
再度、彼の口から水が流し込まれた。彼はゆっくりと口を離すと、私の濡れた口元を自分の指でそっと拭った。その指先の感触が、さっきの唇の余韻を鮮烈に残していく。
「……まだ飲むか?」
そう問いかける彼の眼差しと圧倒的な近さ、そして口づけの直後という状況に、顔が焼き付いたように熱い。その問いに慌てて首を横に振る。
混乱の中で、反射的にディオンさんに視線を送ると、ディオンさんは目を丸くしながら絶妙な距離を取って立っている。
「ぎりぎり、医療行為……ですかね」
ディオンさんの蚊の鳴くような呟きが、静まり返った部屋にかろうじて聞こえた。
動揺を隠せないまま、唇に残る感覚に頭が痺れていた。そんな私をよそに、ディオンさんは冷静な顔を取り戻し、テキパキと処置を進めてくれた。芝生の上で擦りむいた手足の傷は、ディオンさんの治癒魔法ですぐに治った。
やがて、シンプルな紺のワンピースの着替えが届いた。薬の効果が薄れ、少しずつ身体が動かせるようになってきたので、カイルさんとディオンさんに着替えを促され、二人は部屋から出ていった。カイルさんは「何か食べられるものをもらってくる」と、いつになく優しい表情で言い残し、扉を閉めた。
一人になった部屋で、私はソファの背もたれにもたれかかると、唇に残る生温かい感覚に悶える。カイルさんは全く表情を変えなかった。きっと、カイルさん的には解毒を促すための、単なる行為。私があれほど動揺したのに、カイルさんにとっては犬に噛まれたようなものなんだろう。そう思うと、少しだけ悔しい気持ちが湧いた。
「落ち着け」と自分に言い聞かせ、持ってきてもらった柔らかなワンピースに着替える。
着替えていると、ふと胸元に手が伸びた。カイルさんからもらったネックレスが、そこにはない。寂しい気持ちが心の奥底に広がり、着替え終わると一気に疲労が押し寄せてきた。
「疲れたな……」と思いながら、ソファに座る。お風呂に入りたいが、疲労のせいか身体をまっすぐに保っていられない。そのままソファに横になった。
目を閉じると、意識がそのまま夢の世界に落ちていきそうだった。
目を閉じたまま、カイルさんが助けに来てくれたことを思い出す。自分で頑張って逃げなきゃとは思っていたけれど、あの時打ち上げた光の柱は、助けてほしいという心の叫びが乗せられていた。カイルさんなら気づいてくれるはずだと、心がそう思ってしまった。そして、本当に来てくれたことが嬉しかった。目を瞑りながら、その温かい気持ちに包まれようとしていた、その時。
黒い靄が、その温かさにまとわりつく。榛色がチラチラと浮かぶ。無数の手が、身体にまとわりついてくるような嫌な感覚に落ちる。呼吸が荒くなり、嫌な気持ちが胸に渦巻いているときに、誰かに名前を呼ばれた。何度も何度も、切迫した声で聞こえてくる。急に腕を捕まれ、「ユイ」と呼ばれた。その声の主の顔は、イーグスだった。
「いやっ!」
悲鳴を上げながら、ハッと目を開けた。実際、目の前にいたのはカイルさんだった。彼の手が、私の腕に添えられている。声の主はカイルさんだったのかと混乱した頭で思い至る。しかし、さっき見た悪夢に動揺して、呼吸が上手くできずに息が上がる。カイルさんの目に、困惑の色が浮かぶ。
身体を起こすと、ソファの前のテーブルにはスープとパンの軽食が置かれていた。彼が持ってきてくれたのだろう。
「ご、ごめんなさい。寝てしまって、夢を見てたみたいで……」
彼に謝ったが、せっかく治まっていた手の震えがなかなか止まらない。その震える手に、カイルさんの大きく、冷たい手がそっと添えられた。そして、彼は悲痛な表情で言った。
「……助けに行くのが遅くなって、すまない」
彼の心からの後悔の念が、痛いほど伝わってきた。
「いえ。きてくれて、すごく嬉しかったんです。すみません……」
私も謝ってしまう。
「ユイは何も悪くない。謝らなくていいから」
カイルさんは、そう言って私の頭を優しくなでた。彼がいつも以上に優しすぎる。それがとても嬉しくて笑いたいのに、顔の筋肉が強張って上手く笑えない。
次の瞬間、カイルさんは私の身体をゆっくりと引き寄せた。強く、優しく抱きしめられ、彼の胸元に埋まる形となる。彼の体温を感じ、ドキリと胸が鳴った。だけど、それは恐怖ではなく圧倒的な安堵からくるものだった。
「頑張ったな」
頭の上から低い声がかけられ、背中を優しくポンポンと子供をあやすように叩かれる。その規則的な振動が心地良かった。カイルさんの温もりもあって、強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜けるのを感じた。
それと同時に、涙腺も崩壊した。ポロポロと、泣きたいわけじゃないのに涙が勝手に溢れてくる。彼の胸にすがりついて止めどなく泣いてしまった。カイルさんは、優しく抱きしめながら、黙って私をあやし続けてくれた。
(私、かなり頑張っていたんだな……)
彼の温かい腕に包まれながら、全身の緊張が解け、心の底から安堵する。
この温かい場所に、カイルさんのところに帰ってこれて本当によかったと、心の底から思えた。




