32 追跡者
「ユイさん、あなたはどこに行くつもりですか」
イーグスは私と外壁の間に立ち、庭園の闇を背負っている。彼を見ただけで、額からは冷たい汗が流れた。
「いけませんねぇ、お部屋を勝手に出てしまっては危ないですよ?」
そう言いながら、彼はゆっくりと確実に、私に向かってにじり寄ってくる。その足取りは優雅だが、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。
「あの結界を破壊するとは。やはりあなたの才能は素晴らしいですね」
口では賞賛の言葉を紡き、顔も穏やかに微笑んでいる。だが、その瞳の奥は氷のように冷たく、微塵も笑っていなかった。
(もう少しなのに……!)
外壁は、あとわずか。私は最後の望みをかけて、残された魔力で魔法を構えた。
「その程度の力で、私に勝てるとでもお思いですか?」
イーグスは、嘲笑するように言った。
「勝てるかどうかは分からないけど、勝たないといけないとは思っているわ」
震える声を無理やり押さえつけ、そう言い切った。そして、練り上げた風魔法を、彼の足元の芝生めがけて放った。
「こんな初歩魔法じゃ、私には効きませんよ」
イーグスは、鼻で笑うように魔法を無効化したが、これでいい。放った魔法は、芝生や庭園の草花を切り裂き、土と葉を風で舞い上がらせた。私は、舞い上がった土煙を盾にするように、彼と違う方向へ全力で走った。彼を足止めできればいい。どこか、他の場所から出れないかと、必死に走った。
その時、カクンッと、突然膝が抜けた。まるで、足の骨がなくなったかのように力が入らず、芝生の上に転がるように倒れ込んだ。
(なんで……?)
必死に立ち上がろうとするが、思うように立てない。泥のように重い身体を持て余しているうちに、イーグスに追いつかれてしまった。彼は、そんな私を満足げに見た。
「夕食の中に、お薬を混ぜておいて正解でしたね」
「……え?」
イーグスから出た言葉の衝撃で息を呑んだ。
「あなたがこうやって抜け出さないように、ですよ」
彼はそう言いながら、屈辱的な視線を投げかけた。怒りに震えながら、ゆっくりと立ち上がるが、足元が定まらず歩くことすらできない。イーグスは、そんな私を見て興味を帯びた目をした。
「……立てるんですね。お食事、あまり召し上がらなかったでしょう? 駄目ですよ、全部食べないと」
彼が私に近づいてきた。最後の気力を振り絞って、残された魔力で魔法を構える。
「攻撃魔法じゃ、私には勝てませんよ」
(そんなものは分かってる)
静かに魔力を練り上げる。結界を崩壊させた魔法で、すでにクタクタだ。だけど、ここで引けるわけがない。体内に残されたすべての魔力を集中させる。全身が軋むように痛む。
そして、練り上げた魔法を渾身の力で放出した。それは、闇を切り裂く、まばゆい光の柱だった。
ゴオオオッと地鳴りのような轟音と共に天へと立ち昇った光は、一瞬だが、闇に包まれた王都の空を白日のように照らした。
(誰か、気づいて)
そう最後の願いを託して放った魔法だった。魔力枯渇の反動で、力が抜けてへたり込む。
イーグスは驚き、その冷徹な表情に初めて焦りの色を浮かべた。
「こんなにまだ魔力が残っていましたか。貴女には驚かされてばかりだ」
彼は、一瞬の動揺の後、狂気的な高揚を伴った笑いを漏らした。
「ですが、もう終わりです。私から二度と逃げられないようにして差し上げます。部屋に帰りますよ」
そう言い、彼は私に手を伸ばした。彼の冷たい指先が私の肌に触れようとした、その寸前。
──ドンッ!!
夜の庭園に、乾いた衝撃音が響き渡った。
目の前にいたイーグス枢機卿の体が、一瞬で吹き飛ぶ。彼は、地面に着地する際かろうじて受け身を取ったが、急な攻撃に動揺と焦りが隠せない。イーグスの凍り付いたような視線は、私ではなく、私の背後の闇に向けられていた。
何が起こったのか理解できないまま、恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、漆黒の魔道士団の制服を纏った、カイルさんだった。
彼の蒼い瞳は、夜の闇を切り裂くような鋭さで怒りの炎を宿していた。その手からは今放たれたばかりの魔力の残滓が、夜霧のように立ち昇る。カイルさんは、倒れたままの私を一瞥した後、吹き飛んだイーグスを睨みつけ冷たい声を放った。
「その汚い手で、ユイに触れるな」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カイルさんは一瞬で私とイーグスの間に割って入り、攻撃魔法を繰り出した。
漆黒の夜を切り裂く、青白い雷光の矢が連続して放たれる。それは、一瞬で数発、イーグスめがけて正確無比に飛翔した。カイルさんの魔法は、速度、威力、密度の全てが次元を超えていた。
イーグスは、急襲に備えてかろうじて防御の構えを取ろうとするが、カイルさんの魔法の速度に全く対応できていない。雷光は防御結界に激しい衝撃を与え、バチバチと火花を散らす。イーグスは、防御が間に合わず、再び地面を転がるように弾き飛ばされた。
カイルさんは、微動だにせず、私の前に立っている。顔は見えないが、その鋼のような背中からは、激しい怒りが波動となって伝わってきた。
次の瞬間、夜空の外壁を乗り越え、次々と魔道士団員が庭園に飛び込んできた。その中に、イリアス副団長やゼルフィの姿もある。団員たちは、瞬時にイーグスを取り囲み、状況は完全に魔道士団の支配下となった。
イリアス副団長が、慌てた様子でカイルさんの肩に触れた。
「団長! 殺さないでくださいよ、話を色々と聞き出さなきゃいけないんですからね!」
イリアスの言葉で、カイルさんの激しい攻撃の手が、わずかに止まる。
ふと目を向けると、弾き飛ばされたイーグスは、もうすでに気を失っているように見えた。思わず目が離せずにいると、ざりっと、カイルさんが地面を踏みしめながら近づいてきた。彼は、団服のジャケットを脱ぐと、私の頭からふわりと掛けた。
「見なくていい」
声色は冷たいが優しさが滲む一言。服に残る暖かさが、冷え切っていた私の胸にじんわりと染みる。
イリアス副団長が、迅速に屋敷を制圧していく。
「団長。ディオンが王城に待機しているので、ユイさんを連れて先に王城へお戻りください。ここでの後処理は、私と団員でやりますから」
カイルさんが頷いた、その時。ゼルフィが、安堵と心配に顔を歪ませながら、駆け寄ってきた。
「ユイ、大丈夫か!? あっ、ユイは俺が連れていきますので」
ゼルフィはそう言って私に手を差し伸べようとしたが、彼の言葉をカイルさんが一瞬で遮った。
「いや、いい」
カイルさんは、地面に座り込んだまま動けない私の背中に、自分の冷たい手を差し入れた。
「俺が連れて行く」
そう言うと、彼は私を軽々と抱き上げた。突然の浮遊感と、彼の逞しい腕に包まれた状況に、呼吸が乱れた。
「えっ! あ、あの……」
「ん?」
焦って声を出すと、カイルさんは先程まで浮かべていた表情とは全然違う、穏やかな表情を私に向けた。その温度差に、さらに動揺する。
「あ、あのっ、わ、私、服が汚れてるし、それに重いと思うので……」
カイルさんは黙って私の言葉を受け止め、優しく問いかけた。
「歩けるのか?」
その静かな一言に、現実を思い知る。
「あ……歩けないです」
「行くぞ」
一言だけそう言うと、彼は私をしっかりと抱きとめ直し、光を練り上げ呪文を唱える。一瞬、夜の庭園に魔力の光が溢れ、カイルさんは、そのまま私を抱えた状態で転移魔法を発動した。
庭園の景色が、一瞬でねじ曲がり、消滅した。
シリアス回続きましたが、
次話からしばらく糖度高めで続きます。
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