30 閉ざされた部屋
意識は、深い霧の底からじわっと水面に浮かび上がるようにして戻ってきた。
頭の中は、重い鉛のようにぼんやりとしていて、五感の全てが微かに遅れて機能し始める。
目を開けると、過剰なまでの豪華さに違和感を覚えた。ここは、普段見慣れた自分の部屋ではない。
ゆっくりと身を起こす。
何故か今、自分は柔らかな天蓋付きのベッドの中にいた。ベッドの天蓋には、繊細なレースが張られ、カーテンは深い青のベルベットだ。
(ここ、何処……?)
見渡すと、部屋全体が豪奢な調度品で満たされている。壁には金糸のタペストリーがかけられ、磨き上げられた木製の家具は、どれも一級品の輝きを放っている。しかし、見覚えが全くない。
体を動かすと、カサッと擦れる服の音がした。自分の着ている服を見て、ハッと息を呑んだ。
いつもの動きやすい服ではない。着せられていたのは、白地に金糸の入った、細身のロングドレスだった。胸元から肩にかけては繊細なレースがあしらわれ、美しいドレスだが、それを自分が着ているという事実に強烈な違和感が募る。
(なんで、こんな服着てるの……?)
ドレスの裾は床をひきずるほど長い。それを慌てて持ち上げ、ベッドから降りた。床は、上質な絨毯だ。
現状を把握しようと、部屋の窓へと向かった。窓から外を覗くが、周囲はすでに暗闇に包まれている。建物が立ち並んでいるが、ここは王都だろうか。見えるのは高い建物の屋根ばかりで、三階くらいの高さにあることが窺えた。
(どうして私、ここにいるの?)
記憶を辿った。クロノス大聖堂で炊き出しをしていて、カレーが大好評で、そうだ、片付けのために資材置き場の裏手に行ったところまでは覚えている。その後、誰かに声をかけられたような気がして、目の前が暗転した。
不安が、潮が満ちるように心を満たし始めた。部屋の入り口のドアに手をかけた。力を入れてノブを回すが、内側からは開かない。
「鍵が、かかってる……」
ガタガタとドアを揺らすが、やはり開く気配はない。たまらず声を上げた。
「すみません! 誰かいませんか!?」
何度か声を張り上げていると、ガチャリと、扉の外側から鍵が開く音がした。驚き、一歩後ろに下がった。
静かに開いたドアから入ってきた人物を見て、さらに衝撃で息を詰まらせた。
そこに立っていたのは、イーグス・セイラン枢機卿だったからだ。
彼は、いつもの厳かな祭服ではなく、柔らかな白のシャツに、濃いグレーのスラックスという、極めてラフな私服姿だった。だが、その着こなしにも隙がなく、整然とした印象を与えた。その表情は柔らかく、穏やかな微笑みを浮かべている。
「目を覚ましましたか、ユイさん。ご気分はいかがですか?」
枢機卿は部屋に入ってくると、ユイに優しく声をかけた。
「急に立ち上がったら危ないですよ。さあ、そちらのソファにお座りください」
彼は、自然な動作でユイの肩に触れ、部屋の隅にある豪華なソファへと促した。その肩に触れた手の冷たさに、思わず肩がビクリと震えた。
「あ……ありがとうございます。あの、なんで私、ここにいるのでしょうか?」
その問いに、枢機卿は表情を変えずに答えた。
「大聖堂で、倒れていたんですよ。随分とお疲れだったのでしょう。そのまま放置するのは忍びなく、私の私邸にお連れしたのです」
「倒れて……」
そうなのか、と一瞬納得しかけたが、すぐに「それは大変ご迷惑をおかけしました」と恐縮した。
「すぐに帰りたいのですが、私の服は……」と言いかけたところで、枢機卿の目つきが、一瞬、鋭いものに変わったような気がした。
「このような夜に、女性が一人で出歩くのは大変危険です。今はここでゆっくりと過ごしてください。ユイさんのお洋服は、汚れがひどかったので、洗わせています。それまでこのお洋服で我慢してください」
彼は、そう言いながら、ちらりと全身を確認するような視線を向けた。その視線が、美しいドレスを纏ったユイの存在を、静かに品定めしているようで、なぜか少しだけ怖いと感じた。
「とてもお似合いですよ。もう少しで夜明けですので、ここでゆっくりと休んでくださいね」
そう言って、部屋を出ていこうとするイーグス枢機卿に、ハッとなって声をかけた。
「あの! 友人は……セレナはどこに?」
立ち止まった枢機卿は、再びにこやかな微笑みを浮かべた。
「セレナさんは、ユイさんを私に任せて、ご自宅へ帰られましたよ」
その言葉を最後に、枢機卿は静かに部屋を出ていった。
──ガチャリ
扉の向こうで鍵がかけられる音が、やけに大きく、冷たく、豪華な部屋の中に響き渡った。
「セレナが帰った?」
小さくその言葉を繰り返した。
(私が大聖堂で倒れたとして、セレナが私を置いて自分だけ帰る?)
セレナの性格は、よく知っている。もしセレナが倒れたならば、私は付き添うだろう。そしてセレナもそうしてくれるはずだ。イーグス枢機卿が言う「私に任せてご自宅へ帰られた」という言葉には、明確な嘘の冷たさを感じた。
ふと胸元を触った。いつもつけているネックレスがないことに気づく。カイルさんから貰ったネックレスだ。それが、胸の奥に広がっていた漠然とした不安をより大きくしていく。
もう一度ドアに駆け寄った。力を込めてノブを回すが、やはり鍵がかかっていて開かない。窓に手をかけるが、固定されており、どうやっても開かない。
「なんで? 何が起こってるの?」
豪華な部屋の中に閉じ込められたまま、どう考えても状況が理解できない。その混乱と不安を抱えたまま、窓の外を見つめ続けるしかなかった。
少しずつ、窓の外の闇の色が薄れていく。遠くから、鶏の鳴き声や、朝早くから動き出す馬車の微かな音が聞こえ始める。それは、外界が動き始めたことを示しているのに、この部屋だけが、時間の流れから切り離されたかのように静寂に閉ざされている。
そして、街に太陽の光が差し込み始めた。朝日が差し込むことで、部屋の豪華さが強調される。窓から見下ろすと、整然と手入れされた庭園で、すでに使用人たちが作業をしているのが見えた。早朝、皆が活動を始める時間になっている。見える景色からして、ここはやはり王都ではあるだろう。
コンコン、と、ノックの音がした。ビクッと身体震える。ドアが開き、女性の使用人が銀のトレイや食器が乗ったワゴンを引きながら入ってきた。
「おはようございます。紅茶とご朝食をお持ちしました」
女性は微笑みながらそう言った。
「ありがとうございます」と返事をし、その開いたドアから脱出を試みようと、女性の横をすり抜け、外に出ようと飛び出した。
「きゃっ!」
バチッと電気が走ったような衝撃に弾かれ、見えない壁に遮られて床に倒れこんだ。
何もない空間に阻まれ驚愕した。恐る恐る、もう一度その空間に手を伸ばすが、扉の位置に差し掛かると、再度バチッと弾かれた。
その時、イーグス枢機卿が部屋にやってきた。彼は、朝食のワゴンを運んだ女性に「下がっていい」と指示しながら部屋に入ってくる。ユイが阻まれた見えない壁など最初から何もなかったかのように、女性の使用人は何事もなく部屋から出ていった。
イーグス枢機卿は倒れて床に座り込んだユイの腕を掴み、引き上げて立たせた。
「大丈夫ですか?」
声をかけられるが、その優しげな表情の裏に、底知れない冷たさを感じた。
「さあ、朝食を食べましょうか」
枢機卿はワゴンが置かれた近くのソファに促そうとするが、それを拒絶した。
「もう明るくなりましたし、家に帰ろうと思います」
イーグス枢機卿はにこやかに笑い、「まずは朝食を食べて、ゆっくりといたしましょう」と言った。
「朝食は、卵料理とパンにフルーツを用意しましたがお口に合うでしょうか……」と、のんびりと話すイーグス枢機卿を止め、再度伝える。
「家に帰らせてください!」
「ユイさんは、なぜそんなに帰りたいのですか?」
そう聞かれ、精一杯の理由を伝えた。
「みんなが心配しているといけないので、早く帰りたいんです」
その言葉を聞いたイーグス枢機卿が、すっと近づいてきた。ユイの乱れた髪を優雅に手櫛で直し、その顔を覗き込む。
「先程も見たでしょう? ドアからは出れませんよ。もちろん窓も同じです。ユイさんが出れないように結界が貼ってありますからね」
枢機卿は、恍惚とした冷たい光を宿した瞳でユイを見つめながら、秘密を共有するかのように囁いた。その言葉に全身の血の気が引くのを感じ、息が詰まる。
「なぜ……帰ったら駄目なんですか」
震える声を無理やり抑え込み、強気に聞くと、イーグス枢機卿は陶酔したような表情で語りだした。
「なぜ? あなたは異世界から召喚された聖女様だ。その奇跡の存在を、あの無粋な魔道士団長が独占するなんて、あってはならないことです。あなたの美しく、人々を癒やす魔法は、私によって保護され、永遠に輝かなければならない。私は、あなたの優しさと、その隠された気高さに、初めて会ったときから心を奪われているんですよ」
その狂気に満ちた告白に驚愕した。イーグス枢機卿は、ユイの反応などお構いなしに続ける。
「あなたのことは召喚された直後から知っていましたよ。西区の火災のときの活躍も、当然聞いています。花街区の流行病のときは、あなたの浄化の力の話を聞き、その場にあなたの近くに居れなかったことを、どれほど残念に思ったか」
彼の瞳に、激しい焦燥の色が浮かんだ。
「私は、あなたへの謁見を何度も国に願い出ましたが、すべて却下された。なぜか? あの男が、カイル・ヴァレンティスがあなたを離さなかったからだ」
彼はそう言いながら、ユイの両腕を掴んでくる。その力は、想像以上に強かった。痛みに耐えながら、弱々しく、しかし事実を伝えようとした。
「それは……私が、過度な表彰などを拒否していたから、そうなったんだと思います……」
「あなたはそうやって彼を守るんですね」と、枢機卿は冷ややかな視線をユイに送った。
「でも、立場上なかなか逢いにいけない私のために、あなたの方から私のもとに現れた。北区の教会に来てくださったときは、私は嬉しさで打ち震えましたよ」
彼の表情は、とても信仰者のようには見えない。
「あの時、あなたと一緒に来ていた男は誰ですか?」
枢機卿の質問に、ゾワッと悪寒が走った。ゼルフィのことだ。
「あなたに侍る男は、私だけで良い」
枢機卿の言葉の独占欲の強さに、思わず震えが止まらなくなった。
「もしかして……あの、偽聖女って……」
恐る恐る核心に触れると、枢機卿は楽しげに満足そうに頷いた。
「そうですよ? 私が仕掛けました。あなたが、カイルの手を離れて私に会いに来て、庇護下に来てくださると思ってね」
枢機卿の視線が、変わる。大聖堂でも感じた縫いとめられるような、底知れない視線に。
「ふむ……」
枢機卿はユイをじっと見つめた後、自分の顎に手を当てて言った。
「やはり、あなたにはこの魔法は効きませんね」
「えっ?」
彼の言葉の意味が分からず、呆然とする。
「魅了ですよ。アンジェにも私の力の一部を分け与えて使わせましたが、下手くそな女でしたね。上手くカイルを処理してくれたら良かったものの……」
聖職者の頂点に立つ彼が、平然と、淡々とそんな言葉を口にしたことに、決定的な恐怖を感じた。イーグス枢機卿という人物が内包する狂気が怖くなった。自分の目的のためなら、倫理や人命をゴミのように扱いそうな、その冷酷な真実に触れ、完全に凍りついた。
その時、コンコン、と控えめながらも明確なノックの音が、部屋の扉の外から響いた。
「枢機卿様。恐れ入ります。急ぎのお客様が来られております」
イーグス枢機卿の側近の声だ。
「お客様が来られているそうです。仕方がないですね」
枢機卿は、不満げに一つため息をついた。その視線は、一瞬で側近の声からユイへと戻る。彼は、掴んでいた手を緩め、その指先でユイの頬を名残惜しそうにゆっくりと撫でた。
「申し訳ありません、ユイさん。せっかく二人きりで過ごせる貴重な朝だったというのに。全く、邪魔が入るものですね」
その言葉には、聖職者としての公務を強いられることへの苛立ちと、独占する時間を中断されることへの憤りが滲んでいた。
枢機卿は、静かに扉へと向かった。扉を開ける際、最後に振り返り、慈愛と執着の混ざった複雑な眼差しで見つめた。
「行ってきますね。ちゃんとご飯食べてくださいね」
そう言い残し、イーグス枢機卿は部屋を出ていった。扉が閉まると同時に、冷たい鍵の音が再び響く。
私は、その場で動くことも、呼吸をすることさえ忘れたかのように、ただ立ち尽くしていた。




