24 陶酔
カイルさんが、アンジェという女性に向かって笑顔を浮かべている。
「カイルさんのあんな顔、初めて見た……」
思わずそう呟いた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように苦しい。隣にいたゼルフィは、私の呟きには気づかず、警戒を解いていない様子で言った。
「ああ、団長はすごいよな。あの女に取り入るためだろうけど、演技がうますぎる」
「え、そうなの?」
私が問うと、ゼルフィは当然のように頷いた。
「団長は魅了なんかの魔法にはかかるわけないからな。あれは、調査のために親愛の情を装っているんだろう」
「そうなのね……」
ゼルフィの言葉で、カイルさんのあの笑顔が「演技」だと理解できた。
それなのに、胸の苦しさはすぐに消えてくれない。複雑な気持ちのまま、私たちは教会を出た。
人々の波に紛れながら、帰り道を歩く。頭の中には、あの女性に笑顔を向けるカイルさんの顔が、何度も何度も浮かんでは消える。
(何で、こんなにも胸が苦しいんだろう……)
ゼルフィは、教会の異様な熱気から離れ、少し安堵したようだ。
「これで団長も、本格的に動くだろうな。あの熱狂ぶりは異常だ」
話しながら歩いていると、ゼルフィが魔導具店の前で立ち止まった。
「どうしたの?何か買い物?」と私が聞くと、ゼルフィは申し訳なさそうな顔になった。
「いや、ユイ。実はな、この前の討伐の件だ。お前の保護魔法のついたネックレス。あれ、発動してしまって、今はただの飾りだろう?」
ゼルフィは頭を下げた。
「あの時、俺がもっとしっかり動いていれば、お前にネックレスの魔法を使わせることはなかったはずだ。だから、代わりのものを、俺が買わせてくれ」
「いや、あれはゼルフィのせいじゃないよ」
私が否定しても、彼は頑なだった。
「俺の気持ちだ。だから、頼む」
私は、彼の優しさが嬉しかったが、すぐに首を横に振った。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だよ」
私は、首から下げていた青い石のネックレスをゼルフィに見せた。
「このネックレス、保護魔法かけ直してもらったから。これがあるから、大丈夫」
そう告げると、ゼルフィの顔つきが一瞬で変わる。彼の視線は、私が触れているネックレスに釘付けになった。
「それ、誰かにもらったものなのか?」
彼の声は、少し固い。
「それに、そんな強力な保護魔法を簡単にかけ直せるやつは、王都でもそうそういないぞ……」
その言葉に、私はドキッとする。
(そうか。やっぱり、カイルさんがしてくれた魔法は、すごい魔法なんだ……)
私が言葉に詰まっていると、ゼルフィが、さらに核心を突いてきた。
「ユイ。そいつのことが好きなのか?」
「──っ!」
突然の質問に、私は一気に焦った。
「いや、そんなんじゃないよ! うん、全然違うし!」
両手を振って必死に否定した。まさかゼルフィに、そんなことを問われるなんて思いもしなかった。私の慌てように、ゼルフィは少し肩を落としたように見えた。
「じゃあ、そのネックレスの代わりを俺が渡したら、それをつけてくれるのか?」
その問いに私は困ってしまった。カイルさんのネックレスではない新しいもの。それを身につける自分を想像すると、なぜかカイルさんの顔が浮かんだ。そしてカイルさんがくれたこのネックレスと違うものを身につけるのは、ちょっと嫌な気がした。
ぐっと気持ちを落ち着かせ、正直に答えた。
「ごめん、ゼルフィ。これ、本当にそういうのじゃないんだけど」
私は、ネックレスを大事そうに握りしめた。
「私が尊敬してる人にもらったものだから、すごく大事にしてるんだ。だから、気持ちだけ受け取るね」
ゼルフィは、私の言葉を聞き、静かに納得したようだ。
「……そうか。ごめん、困らせて」
彼は、それ以上は何も言わず店から離れた。そして、私の家の近くまで送ってくれると、そのまま静かに別れた。
私は家に帰り着き、鍵を閉め、一人静かにソファに座り込んだ。
(尊敬……? 本当に、ただ尊敬だけ?)
ゼルフィに言われた『ネックレスをくれた人──カイルさんのことが好きなのか?』という質問が、頭の中で反響する。その問いは、私の心を塞いでいた。
ふと考える。自分はどうなのか。カイルさんを想うと、胸がドキドキしてしまう。他の女性に笑顔を向けていると、胸が締め付けられるように苦しくなる。
あの、アンジェという女性に向けられた甘い笑顔を思い出すたびに、胸の奥が鋭く痛む。
そして、彼がくれたこのネックレスを、他のものに代えたいと全く思えない。この青い石は、彼の冷たい指の感触と、彼がかけてくれた魔法の温かさを知っている。これは、私にとって守護の印であり、彼との繋がりそのものだ。
首から下げたネックレスをそっと握りしめる。掌の下で、自分の胸の鼓動が激しくなっているのを感じた。これは、たしかに特別な感情だ。
しかし、その感情に名を付けることには、強烈な抵抗感があった。
それは、私のような異世界から突然現れた、居場所も定まらない人間が、この国の最高峰の魔道士に向けて抱いていい、私的な感情ではないように思えた。
彼は、私の恩人であり、保護者であり、私の力を必要としてくれる人だ。その関係を、甘く、不安定で、いつか終わってしまうかもしれない名前のものに変えてしまうのが、ひどく怖かった。
彼と、今のまま、特別に親しい関係でいる方が、ずっと安全で、永続するように感じられた。目を閉じ、強くネックレスを握りしめた。
胸の鼓動は、カイルへの想いを告げている。
だけど、私にはまだ、その感情の名前を定義し、自ら認めてしまう勇気が、どうしても出なかった。




