21 帰還
龍が去った後、森に巣食っていた魔物たちは急速に沈静化していった。魔道士団の支援と、残った騎士団の迅速な対応により、残党の討伐はすぐに完了した。
『嘆きの森』への遠征は、三週間の激戦を経て元の静かで穏やかな森へと戻っていった。そして、私たちは王都へと帰還することになった。
転移魔法で王城の裏門へと到着した討伐隊は、疲労の色は濃いものの、達成感に満ちていた。
私も、この過酷な遠征が終わったことに、心底安堵した。
(生きて帰ってこられた……)
それは何よりも、カイルさんがくれたネックレスのおかげだ。改めて、彼にきちんとお礼を言わなければ、という思いが募る。
王城の広い中庭で、騎士団と魔道士団、治癒師団が無事解散となる。
「ユイさん、お疲れ様でした!」
ルシアさんが満面の笑みで抱きついてきた。
「ルシアさんこそ、お疲れ様でした」
治癒師団の隊列から離れたところで、私の名を呼ぶ声があった。
「ユイ」
振り返ると、ゼルフィさんが少し緊張した面持ちで立っていた。
「ゼルフィさん、お疲れ様でした」
私が明るく話しかけると、彼は何かを言い淀むように、何度か口を開きかけた。
「あ、あの……ユイ。今度の休み、もしよかったら、一緒に……」
ゼルフィさんがそう切り出した、その時だった。
「ユイ!」
朗々とした声が響いた。イリアス副団長だ。彼は私に向かって、優雅な足取りで近づいてくる。
「副団長、お疲れ様です」
私が挨拶をすると、イリアス副団長はゼルフィさんを一瞥し、軽く肩をすくめた。
「おや、邪魔をしてしまったかな?」
「い、いえ! そんなことは……」
ゼルフィさんは、何やら非常に残念そうな表情を浮かべ、一歩下がった。
「では、私はこれで失礼します。ユイ、またな!」
彼は、何かを言い残したようだったが、結局何も言わず、踵を返して隊列の中に戻っていった。
ゼルフィが去るのを見届けてから、イリアス副団長が向き直った。
「討伐、本当にご苦労様。君の活躍は、私から団長にしっかりと報告しておく」
「あ、ありがとうございます」
「すまないが、団長は今回の討伐結果の緊急報告と、一部の貴族を交えた重要な会議に出席していてね。ここには来られない」
「いえいえ、お忙しいと思いますし、団長に会いたいなんてそんな……」
私は「こと思ってないです」と言いかけて、言葉を詰まらせた。正直、できるだけ早くお礼を言いたいと思っていた。
「そうだな」
イリアス副団長は、私の反応を楽しんでいるように微かに口角を上げた。
「副団長! 至急、王城地下の魔力炉の調整に立ち会っていただきたいと……!」
と若い団員が何かを告げながら慌ただしく駆け寄ってきた。
イリアス副団長は、一瞬で真剣な顔に戻り、団員に頷き返し「すぐ行く」と短く答える。
「ではまた。ユイさん」
そう言って歩き出そうとした彼が、ふと足を止めた。そして耳元へ、静かに顔を寄せてきた。
「ユイさんは魅了魔法が使えるんですか?」
彼の低い声は、誰にも聞こえないように落とされ、鼓膜を震わせた。息がかかるほどの距離でいわれて、肌がぞくりとした。
「……っ、な、なに……を?」
私は動揺を隠せないまま、ようやく声を絞り出した。
イリアス副団長は、私の顔から少しだけ距離を置いたが、その瞳は私の心を射抜くように鋭かった。
「王立魔道士団の検知魔法の網を越えるのは、普通の魅了では不可能だ。ましてや、カイル団長ほどの精神干渉に対する防衛能力を持つ者の、精神に介入するなんてありえない」
彼は楽しげに目を細めた。
「不思議だよな? “もう解けているはず”なのに、まだ残っている」
その言葉に心臓が激しく跳ねる。まるで胸の奥の、感情まで覗かれているような感覚に、言葉が出なかった。
イリアス副団長は軽く息を吐き、何もなかったかのように背を向ける。
「では、また。ユイさん」
歩き去る彼の後ろ姿は、昼下がりの光の中で一層凛として見えた。
呆然とその背を見送る。頬がじんわり熱い。
「……な、なんなの?」
胸の奥がざわざわする。
「魅了魔法」──それは、何度もカイルが口にする言葉。
(……なんで、副団長さんまで)
◇
イリアスは王立魔道士団の建物、カイル団長の執務室に隣接する応接室にいた。
王城への帰還を終え、俺とディオンは、カイルの不在を利用して、応接テーブルで静かにコーヒーを啜っている。一刻も早く休みたい所だが、カイルの懸念事項を片付けるのが先だ。
ディオン治癒師長は、穏やかながらも、どこか探るような視線を俺に向けていた。
「イリアス副団長。先ほど、ユイさんに何を言いました?」
俺はカップを静かに置き、面白そうにディオンを見た。
「ふん、本当にお前は地獄耳だな」
ディオンは表情を崩さない。
「『魅了』という単語を使った時点で、私が関心を持たないわけがない。それに、団長からの個人的な治療相談を、あのような形で本人に漏らすなんて、ありえない行為ですよ」
俺は静かに笑い、カップを回す。ディオンの真意は、カイルへの懸念だ。
「俺は治癒師として相談されたわけじゃないからな。秘匿する義務は無いだろう。だがな……」
俺は、シリアスなトーンに戻る。
「あの話を聞いたときは、俺も驚愕したよ。問題すぎるだろ。異世界から現れて、特別な浄化の力を持った女性が、魅了の力まで持っているかもしれない、なんて。その危険性を感じたからこそ、団長は俺とお前に相談したんだろうしな」
ディオンは深く頷いた。
「ええ。しかも魅了が、この国の最高峰の実力と地位を誇る魔道士にかけられているかも、なんて。そんな由々しき事態があるか、と思いましたね」
ディオンの目には、国家の安全を憂う光が宿っていた。
「だからこそ、貴方と私は、彼女の情報を集め、精査し、『もしこの国を惑わす女性であるならば、適切な対処が必要だろう』と、秘密裏に調べていたはずなのに」
ディオンは、軽くため息をついた。
「それなのに、本人に漏らすなんて………」
ディオンの深刻な言葉に、俺は思わず笑い出した。ディオンもつられて、口元を緩める。
「ハッハッハッ! まあ、いいじゃないか。それに、ディオン。あれは、どう見ても魅了をかけるような子じゃないだろう? 俺たちの探知を欺く魔力なんて持ち合わせていない。そんな魔力の気配すらなかったぞ」
ディオンも、優雅に笑い出した。
「ええ。もしもそんな風に人を惑わす力を持っていたとしても、使いこなせないような子でしたね」
「フッ。あれが、全部演技だとしたら、舞台女優にでもなれるだろ」
二人で軽く笑い合う。俺は、黒炎龍を浄化したときのユイの姿を思い出した。あの、一切の邪念のない、ひたむきな眼差し。
「ただ、あの真っ直ぐさにこそ、惹かれるやつは多いんだろうな。魅了魔法などなくとも」
ディオンは、優しく微笑み、俺を鋭く見つめた。
「ああ、そういえば。さっき貴方、邪魔してましたね? ゼルフィ君との会話を、あからさまに遮っていましたよ?」
「……本当に地獄耳だな」
俺は肩をすくめた。ディオンは、静かに心配を滲ませる。
「ゼルフィ君は純粋ですからね。余計なこじれ方をしなければいいのですが」
そんな話を終えたとき、執務室のドアが開き、カイル団長が重厚な足音を立てて入ってきた。
彼の顔は、会議の疲労と憤りが収まりきらない様子を隠そうとしている。
「団長、会議は終わりましたか。お疲れ様でした」
俺は立ち上がって迎える。
「ああ」とカイルは短く答え、椅子に腰を下ろし、二人をねぎらった。
「ご苦労だった。今回の討伐は、想定を超えていた。陛下も騎士団、魔道士団、治癒師には感謝されている」
俺は、今回の成功を簡潔に報告した。
「ありがとうございます。特に、今回はユイさんのおかげで、我々は大きな被害なく帰ってこれましたよ」
「そうか……」
カイルの言葉は相変わらずクールだが、その言葉の裏に、安堵の感情が隠されているのが分かった。
俺は、ディオンと目配せし、核心に踏み込む。
「さて、団長。懸案の魅了の件についてだが……」
俺がその言葉を口にした瞬間、カイルの瞳がピクリと反応した。
「結論から言うと、魅了という魔法としての力は、彼女は持っていませんね」
ディオンも即座に、冷静なトーンで追認する。
「ええ。治癒師長である私も今回の討伐でご一緒しましたが、魔力的な干渉の片鱗すらありませんでした。彼女の魔力は極めて純粋です」
カイルは、一瞬静止した。
「そうか……」
その言葉には、安堵と、戸惑いが含まれているように聞こえた。
俺は、そんなカイルの様子を面白そうに見つめながら、さらに続けた。
「つまり、団長が彼女に惹かれているのは、魔法的な干渉ではない、ということです」
カイルは眉をひそめ、俺に鋭い視線を向けてきたが、無視して続ける。
「おそらくあるとしたら、彼女が持つ何かしらの別の原因があると思うので、団長ご自身で自分で見極めてください」
カイルの顔に、苛立ちの色が浮かぶ。
「なんだ、それは……」
「さあ。ですが、気をつけないと横から掻っ攫われますよ?」
カイルは、俺の言葉の意味が理解できない、といった表情で、黙り込んだ。
彼の瞳の奥で、戸惑いと、焦燥が複雑に交錯しているのが、俺には手に取るように分かった。




