94.ふたりの生きる道
それからまたいくつかの季節が過ぎました。
イディは国王となってからもクラムルードが着手していた政策を進めていきました。
クラムルードは決して王に相応しくない為に失脚したわけではありません。むしろ優れた王であったと言えます。自身もそうあろうと万里子への想いを隠して国民の為に努力していたのですが、まさかそれがきっかけで王の座を追われる事になるとは思っていなかったでしょう。
イディはクラムルードの意志を継いで、一生懸命働きました。
冬の雪解け水を効率よく使う為の溜め池を各地の中心に作り、周りで作物を作るよう指導しました。そしてその近くには子供達を預ける事が出来る施設を作り、それぞれの部族から優秀な若者を教育係として派遣したのです。
その後は人々が気軽に訪れる事が出来るように、教会周辺を整備し、孤児院が併設されました。
それはどんなに小さな街でも行われました。
勿論、万里子が召還されたあの深い深い地下の広間を持つ一風変わった神殿もまた同じでした。
万里子が召還された時、植物も全く生えていなく赤土がむき出しの荒地だったここは今は緑が眩しいほどに生茂り、子供達の元気な声が響き渡っておりました。
「ユーチェ! 待ってよぅ!」
湖に遊びに行こうと談笑していた少年たちの後について行こうと、小さな女の子が裸足のまま建物から飛び出してきました。
ですが、少年たちの輪に加わっていた内のひとりが、仲間に耳打ちして走り出してしまいました。
「のろまのソフィー! 追いついたら遊んでやるよ!」
「待って! 待ってぇ!」
ソフィーは必死に走りますが、ユーチェたちは笑いながら走り去ってしまいました。
「ユーチェ! ゆーちぇえええ……!」
ソフィーはとうとう泣き出してしまいました。
すると、建物から長身の男が出てきました。
「こら、ソフィー。お前は熱があるんだから、今日は休んでいろと言っただろう」
口調は荒いですが、ソフィーを抱き上げる手付きはとても優しいものでした。
「で、でも、ユーチェが……」
「ユーチェは元気だからいいんだよ。ほら、お前は中に戻るぞ」
その言葉に納得できないソフィーは男の鮮やかな赤い髪をひっぱりぐずりだしました。
「クラムルード様! 申し訳ありません! 他の子達も目を覚まして……まあまあ、ソフィー! いけないわ。寝てなくちゃ」
建物から飛び出してきたのはレニーでした。
レニーはクラムルードからソフィーを受け取ると、また慌しく建物の中に戻って行きます。
「ソフィーはユーチェが大好きだから」
「マール」
見ると、万里子が神殿の裏から戻ってきたところでした。
少し膨らんだお腹を気にしつつ、片手に染色を済ませた糸が入った篭を持っています。
「大丈夫か? 無理するな。俺が持つ」
「これ位大丈夫よ」
心配そうに駆け寄り、篭を取り上げるクラムルードに万里子は苦笑しました。
今、万里子はお腹の中に小さな命を授かっておりました。
時々、これまでの事を思い返します。自分の居場所だと思える場所に辿り着くまでの時間がとても長く感じられました。
* * *
万里子とクラムルードが新生活に選んだのは、全ての始まりだったこの“地下神殿”でした。
カナムでもなく、サイナでもナハクでもなく、万里子の脳裏に浮かんだのがこの地下神殿だったのです。
万里子はニコラの日記にあった“ヤンテは闇での休息が必要だ”という記述が気になっていたのです。以前この神殿を訪れた時も他とは違う感覚があった為、ふたりはここに向かう事にしました。
予想通り、地下の祈りの間で過ごすととても落ち着いた穏やかな気持ちになれ、ここを新天地と決めたのです。
その後、万里子達を追って来たシアナが直接ジルに交渉し、地下神殿の神官長に就任しました。万里子はシアナにはルヴェルと幸せになって欲しいと考えていたのですが、聞く耳を持ちません。初めは心配しましたが、知らない神官と過ごす事を思うと、シアナ程頼もしい存在はありません。結局万里子が折れる形になりました。
そうなると、クラムルードはどうするのか……です。
すると、クラムルードは教会横に孤児院を建てると宣言したのです。
元々国王だった時に、考えていた事です。闇の時代は子供が生まれませんでしたが、今後は増えていくでしょう。しかし光を取り戻したばかりで国土はまだ荒れています。
この小さな村も人々が生きていくのに精一杯で、緑を取り戻したものの手付かずのままにグングンと育った植物に森も野原も荒れ放題です。とてもではありませんが、子供が育つのに良い環境とは言えません。その為、保護者がいなくなった子供を保護する孤児院や、大人が仕事をする間子供を預かる施設が必要だとクラムルードは考えておりました。それをこの新天地で始めようと立ち上がったのです。
突然やってきた前国王に村人達は驚きました。
最初は遠巻きに見ている人が殆どだったのですが、いつしかクラムルードの熱意が伝わり、村の殆どの人が手伝うようになったのです。
クラムルードが始めた孤児院に、最初にやって来た子供がユーチェでした。その後、ソフィーがやって来て、クラムルードと万里子の生活は一気に慌しくなりました。
驚いたのは、クラムルードが意外と子供の扱いが上手な事でした。でも考えてみれば少し年の離れた弟がいるのです。母親に会えないネストラードの世話を買って出ていたとしても不思議ではありません。
それから少しして、この小さな村にも溜め池が作られました。
それをクラムルードは水路を作り、村中に引いたのです。その水路は神殿の裏にも引かれ、小さな洗い場も出来ました。
「クラム……? これ……」
「――染色に、必要だろ。お前、グリューネ殿の手伝いをしている時楽しそうだったから……だから、その……」
「私のため?」
「――違うっ! これは……その、お前が教えてやれば、村の女達も仕事を持てる。村には力仕事の出来ない女達も多い」
「うん! ありがとう!」
クラムルードの提案に万里子は大変喜びました。早速染色のために村のあちこちに植物採集に行きますと、村の女性達が興味を示し、神殿に集まるようになりました。最初は皆上手に染色も、糸を作る事も出来ませんでしたが、女性達はやる気に満ちていました。万里子は彼女達の楽しげな様子を見て、いずれ衣を作れるような生地になると確信しました。
子供達が増え、男達も女達も、年寄りもそれぞれが仕事を持ち村は少しずつ豊かに、人々の顔は明るくなってきました。その様子に万里子もクラムルードもとても喜びました。特にクラムルードは、それまで宮殿に居て、なかなか国民の生活や表情を直接見る事が無かったのです。クラムルードの喜びはとても大きいものでした。
神殿の近くには子供達の為の教育施設が出来ました。イディがこの小さな村にも手配してくれたのです。そして施設にはレニーとセシュラ、そしてドリーが派遣されて村にやって来たのです。驚いた事に、彼女達はそれぞれが自ら手を挙げてやって来たのでした。
「やっとお傍に戻れましたわ」
「姫様が私達を心配してくれるのは有難いのですけれど、私達は姫様と共にありたいのです」
「私も……遅くなりましたが、お傍で姫様を守らせていただきたく……参りました」
レニーやセシュラ、そしてドリーからもそんな言葉を言ってもらえるとは思ってもおらず、万里子は胸がいっぱいになりました。
はじめは小さな事でした。
それが仲間が一人増え二人増え、孤児院に正式に院長を雇う事が出来るまでになり、村人からも認められてクラムルードは村のリーダー格にまでなったのです。
生まれ持った王族としての血でしょうか。でも、万里子は一から始めた事が周りに認められたのだと思いました。
身体の違和感に気がついたのはそんな時です。
ある日湯浴みをしておりましたら、ふとある事に気付いたのです。
お臍の紅い石が、消えていました。
子供を授かっている事が分かったのはそれから暫くしてからです。
紅い石が消えた原因がそれなのか、石はどうなるのか……まだ身体の中に感じるヤンテがどうなるのか、万里子には分かりません。ですが、夢の中で一度出会ったヤンテの神が赤ん坊に危害を加える事は無いという確信はありました。
もしかしたら、生まれてくる赤ん坊は紅い石を持っているのかもしれません。
でも不思議と不安はありませんでした。
万里子自身がそれまで手探りで得た答えがあります。我が子には自分と同じ苦労はさせない、そう心に誓いました。
クラムルードもきっと同じ事を考えてくれるはずです。シアナも、レニーも、セシュラもドリーも、今は遠くに住むジルもイディ国王陛下も、ルヴェルだってネストラード国王陛下だって、そしてスティリカだって、新たな依代を守ってくれるでしょう。
万里子はとても幸せでした。
ただ一つ、気にかかる事といえば、遠く日本の家族の事です。
自分を覚えているだろうか――それとも、元より居なかったものとされているだろうか……どちらにしても寂しく思います。ですが、どうせなら元から居なかった事になっていた方がマシだと思えました。
一緒に居た家族を突然失った喪失感と孤独感を味わうのは、自分だけで充分です。
ですが、それを確認する方法がありません。
日々大きくなるおなかを擦りながら、親になる実感が出る程に、“向こうの家族”が気になって考え込む時間が増えました。