93.静かな内乱
ある日、辺境の小さな神殿から久しぶりに王都のヤンテ神殿に戻った万里子の元に、意外な人物が訊ねて来ました。
「マール様……あの、お客様なのですが……あ! お待ちくださいませ!」
「ちょっとよろしくて?」
シアナの制止を振り切り、万里子の目の前に現れたのはムムカでした。
初めて会った時よりも少し大人びていましたが、万里子を見る勝気な目は変わっていません。
「ムムカ様? ええと……お久しぶりです?」
「ええ、そうね。ちょっとあなた、外してくださらない?」
シアナは困ったように万里子を見ますが、万里子が頷くとしぶしぶ部屋を出て行きました。
「すみません。この部屋には何も無いものですから、お茶もお出し出来ないんですけれど……」
「結構よ。あなたと仲良くお茶をしに来たわけではありませんから」
噂では、ムムカはまだ王妃の棟には入っていないようでした。たまに聞こえる噂話では、内装工事も途中で頓挫しているようです。
「単刀直入に言いますわよ」
「はぁ」
「あなた、陛下をどうお思いですの」
「え? ええと……」
「好きですわよね」
ズバリ私的され、万里子は思わず頷いてしまいました。
「うん……。あ! でも、クラムルードには幸せになって欲しいの。だからムムカさん――」
「あなた、私をバカにしてますの?」
万里子はポカンと口を開けてムムカを見ました。そんな発言はした覚えがありません。ですがムムカは大変真面目な表情で万里子を見ています。
「そんな事ないです! 全然! バカになんて……」
「してますわ。あなた、自らが身を引いて私が婚約者の座に戻るのを受け入れましたわね」
「私は……身を引かなければいけなかったんです」
そうする事がどれだけ辛かったか……時は経ってもそれは今でも大きな傷として心に残っています。
「クラムの迷惑にはなりたくなかった!」
また傷口が開き、万里子はジクジクと胸が痛むのを感じました。
ムムカはそんな万里子に表情を動かしません。
「私、陛下を愛しておりますわ。幼い頃から」
凛とした声で告げられるその言葉が、また万里子の胸に突き刺さります。
「ですからムムカさんがクラムを傍で支えて――」
「それがバカにしていると言っていますの! 私は陛下を愛しております。心から。ですがあなた、私がお相手の心を無視して愛情を押し付ける女だと思っていますの? バカにしていますわ!」
万里子はハッとしました。自分が身を引けば、幼い頃より王妃教育を受けていたムムカが新たにクラムルードを支えてくれるだろうと思っていたのです。ですが、それは結果的にムムカをも傷つけるものでした。
「私では、陛下の“幼い頃からの知り合い”以上の存在にはなれませんの。――努力はしましたわ。でも、陛下が恋焦がれる相手にはなれませんの! それが分かっていて、それでもなお自分の気持ちを押し付ける事は致しません。私だって、愛する方のは幸せになって欲しいのです」
万里子は何も言えません。ムムカは万里子が去ってからも努力をしたのでしょう。それでも、自分では駄目だと思い知ったのです。
「でも……でも私は……クラムに、この国に災いが起こるかもしれないと知っていて行動には出せません!」
万里子の搾り出すような声を、ムムカは鼻で笑いました。
「そんなの知りませんわ。あなたにどうこうしろとは言っておりません。私はただ、あなたにバカにするなと文句を言いに来ただけですの」
「――え?」
「帰りますわ。――私、王妃の棟に入るつもりはございませんから」
そんな事になっているとは知らなかった万里子の心は乱れます。良かれと思ってした事で、結果ムムカの心にも傷を負わせてしまいました。
「マール様……」
呆けたように寝台に座り込む万里子に、シアナが心配そうに声をかけます。
「私……誰にも迷惑かけたくなくて、国を混乱させたくなかったのに、結局は人を傷つけてしまっていたんですね」
感情の篭らない呟きが万里子の心の虚しさを表し、シアナは堪らなくなって万里子を抱き締めました。
「マール様。生きていくという事はその繰り返しでございます。誰も傷つけずに生きる事は、誰にも出来ません。ですがやり直す事は出来ますわ。マール様だって、そういう思いで陛下の下から離れる事を決意されたではありませんか」
万里子は言葉なく、シアナの腕を握り締めました。
万里子は依代として、皆が望むであろう最善の方法を選んだつもりでした。それはクラムルードとて同じでしょう。大陸一の大国の王として、国の為民の為に思いを封印しました。ムムカだってそうです。一人の人間を愛する女性として、何よりも相手の幸せを望みました。
誰も間違ってなどいないのです。それなのに、なぜこうも大きくすれ違ってしまったのでしょうか。
この時の万里子はまだ、大陸全土に広まりつつあった某国王の悲しき愛の歌を知りません。
ですが、この歌は大陸のあちこちで歌われ、やがて国民に大きな影響を与えていくのです。
それからまた季節が一巡した頃、万里子は最後の一箇所となった神殿訪問を終えて王都に戻って来ました。
まだ神殿訪問を始めた頃は、万里子の容姿を恐れ人々は万里子と話をする事はおろか、姿を見ると悲鳴を上げて逃げる程でした。ですが地道な努力が実を結び、最近では万里子が訪れると我先にと人々が押しかけて話し掛けてきます。はじめは驚きましたが、人々の笑顔を見て万里子は受け入れられた事を知り、益々仕事に励みました。
心地良い疲れを感じながらもヤンテ神殿に戻った万里子は、途中で宮殿を見上げました。
王妃の棟に、灯りはありません。
ムムカはあの宣言通り、王妃の棟への入居はおろか宮殿からも去り、なんとガルディスのジェルミの元に嫁いだというではありませんか。国の建て直しに尽力していたジェルミでしたが、抵抗する者も多く苦労していました。ですが、ムムカというこの大陸で大きな力を持つカナム族の貴族の娘がやって来た事で、かなり押さえられたようです。ジェルミは式典でラウリナを訪れた際ムムカにひとめぼれしたそうで、最初は断っていたムムカも自国で孤軍奮闘するジェルミに情が移ったようでした。
――この王妃の棟へは、一体誰が入居するのだろう……そんな事を万里子が考えていましたら、シアナが強張った声で万里子に話し掛けました。
「マール様……なんだか、神殿の様子が変ですわ」
「えっ?」
シアナの言葉にヤンテ神殿を見ると、確かに帰宅時には必ず出迎えてくれる神官達の姿が見えません。それどころか、薄暗い夜だというのに一階の大広間以外は明かりもついておりませんでした。
「何でしょう……おかしいですわ。結界などは異変が無かったので油断しておりました。護衛の者も帰してしまいましたし、どうしましょう……ジル様もいらっしゃらないのかしら……」
その時、静かに神殿の正面扉が開けられました。
万里子とシアナは身体を強張らせましたが、姿を現したのはジルでした。
「ジルさん……! 驚きました」
「本当ですわ。一体何がありましたの? 他の神官の姿が見えませんが……」
ホッとしたのもつかの間、ジルは硬い表情のまま中に入るようふたりを促しました。
「お話があります。中へ……シアナ、君もです」
何事かと恐る恐る神殿の中に入ると、通されたのは唯一明かりがある大広間でした。天窓からはヤンテの光が降り注いでいます。その周りにはいくつか光玉が浮き上がり、広い空間を照らし出しています。
儀式の時にしか開かれないガランと広い空間には、長身の二人の影がありました。
それを見て万里子の心臓がドクリを大きく打ちました。
「クラムルード……」
緊張で掠れた小さな声しか出ませんでしたが、それはクラムルードの耳にも届いたようです。ふと顔を上げると、万里子をじっと見詰めました。
久しぶりに見るクラムルードは髪が伸び、少し逞しくなったような気がします。
「マール……」
より深みを増した声で名前を呼ばれるだけで、涙が出そうになりました。
ドクドクと鼓動が早まり、近づいたら手を伸ばしそうで万里子は足を動かす事が出来ません。
ジルの目配せで、シアナが万里子の腕を取りゆっくりクラムルードとイディに近づきました。
「どして……?」
二人の様子にも違和感を感じ、万里子は眉を潜めました。
「実は……内乱が起きた」
「えっ!?」
クラムルードの言葉に、万里子は心の底から驚きました。
これまで大陸のあちこちに出向きましたが、そのような不穏な空気を感じた事はありません。
むしろ、ヤンテが戻り気候も安定した事で治安が良くなった事を有難がる声が多かったのです。それに、あちこちで聞くクラムルードの評判もとても良いものでした。
「内乱って……誰が主導したんですかっ!?」
「俺だよ」
「えっ!?」
驚き振り返った先で、イディが悠然とそう答えます。
「えっ? えっ? ええっ!? い、イディさんが、なんでですかっ!」
自分が内乱を主導した、と言うわりには二人の間に緊張感はありません。万里子は混乱しました。
「少し前から、国民の声が増えてきてね。『王に、腕輪の姫との思いを貫いて欲しい。一人の女性を諦めるような王に、国を任せるのは不安だ』そうだよ」
視線をやったクラムルードの左腕には、豪華な衣には不釣合いな所々メッキの剥げた万里子の時計がありました。
クラムルードはチッと大きく舌打ちすると、両手で髪をかき上げます。
「――いつの間にか、兄上は議会の頭の固い貴族のじーさんどもの承認まで取り付けてた。今朝の会議の最後に言われた言葉がこうだ。『クラムルード国王陛下。あなたには国王の座を降りていただきます』突然の事で、一体何がなんなんだか……」
そう言いながらも唇には苦笑を浮かべています。
「してやられたよ」
「は? ええと……なんなんですか?」
万里子は訳が分からないとばかりにポカンとしています。
「ほんっと、お前は鈍いヤツだな」
「マール。国民はね、クラムルード様よりもイディの方が国王に相応しいと、そう望んだんですよ」
「そうして、俺はその思いに応えようと思った」
言葉はちゃんと耳に入ってくるのに、頭がそれを処理しきれません。万里子はただただポカンとしています。それはシアナも同じようでした。
そんな万里子達に、とうとう三人とも噴出してしまいました。
「マール、つまり、俺は身内と国民に見放されたって事だ」
「そういう事です。微力ながら大神官として私もお手伝いをさせていただきました。そして、今も見届け役としてここにいるのです」
そしてイディが徐に口を開きました。
「クラムルード。新国王として、宮殿……いや、王都からの追放を命ずる」
「追放!? どうして!? そんなの酷い!」
あまりの言いように憤慨する万里子でしたが、当の本人はあっけらかんとしています。
「どうしようか。王座も追われた。宮殿にも居られない。生まれてからずっと暮らした王都にすら、居られない。お前はそれでも一緒に来るか?」
先程の怒りはどこへやら。一瞬の内に消えて、万里子はまたポカンと口を開けました。
それはつまり、万里子を連れて行くと、そうクラムルードは言ったのです。
「駄目だよ。国を、皆を見捨てちゃ駄目だよ……」
「俺が捨てられたんだ。仕方が無いだろう。何度も言わすな。一緒に行くか?」
万里子の中で何かが弾けました。それは喜びだったのか、抑えていた恋心だったのか、もう自分でも分からない位混乱していました。
涙が込み上げて喉が熱くなり、うまく話せません。言葉にならないもどかしさに、万里子はクラムルードに思い切り体当たりして抱きつきました。
「イテッ! ――ったく。お前は……」
虚をつかれたクラムルードでしたが、すぐに万里子の背中に腕を回し、ぎゅうっと力強く抱き締めました。もう二度と、離さないというように――。