90.動き出した想い
睡魔に襲われ集中できなくなったクラムルードは、少し休憩をしようと席を立ちました。
「少し、外の空気を吸ってくる」
「ならばご一緒いたします」
ガイアスがついて来ようとしたのを、クラムルードは手で制しました。
「ガイアス。宮殿には結界が張り巡らされている。息抜きにまでついて行く必要は無い」
イディはそう言うと書類仕事を手伝うようにガイアスに命令し、ガイアスは渋々ながらそれに従い示された席に座りました。
「――イディ様……。俺はあくまでも護衛で……」
「護衛する相手がいないんじゃサボりだろーが」
「……計算は苦手で……」
「奇遇だな。俺もだ。だからお前がやれ」
「…………」
二人のやり取りに笑みを浮かべて部屋を出たクラムルードは心の中で兄に感謝しました。
きっとイディにはクラムルードが向かう先が分かっていたはずです。
回廊を抜け、裏庭に出ると東屋を通り過ぎてその奥へと向かいます。
そこには幼い頃口煩いグランデから姿を隠してくれた大木があった場所です。結界と結界の狭間にあり、大木は何にも守られる事はなくその木は朽ちてしまい今は切り株だけになっています。
結界という守る存在が無い場所に宮殿の者は近づきません。クラムルードはひとりになりたい時、いつもここに来るのでした。
冬が近づき、頬を撫でる風も冷たさを増しておりました。結界に守られた空間ではそうはいきません。思い切り息を吸うと、身体の中にひんやりとした空気が入り、頭がスッキリするのを感じました。
「ふぅ……。さすがに疲れたな……」
切り株に腰掛けると、知らず溜息が出ました。
万里子を送り出してからというのも、彼女への思いを断ち切るかのように仕事に励んできました。まさに寝食も忘れ……といった具合で、あれから何日経過しているのかも分からない位です。
「……あっちは寒いだろうに」
それでもひとりになると考えるのは万里子の事でした。
無事イルーに辿り着き、彼女の機転でラブルが助かった事は聞いています。ですが、ジルは度々連絡を取っているようですがクラムルードはあえて詳しく聞こうとはしませんでした。
クラムルードはサッシュに手を差し込み、中から華奢な作りの装飾品を取り出しました。それは、あの日すぐに返そうと思って持ち出したまま、返しそびれた万里子の腕時計でした。
「結局返せなかったな」
飾り蓋がついた華奢な造りのそれを指の腹で優しく撫でます。万里子が大切に持っていた物だと思うと、硬質の手触りでさえも愛おしく感じるのですから不思議です。
「ん?」
蓋をそっと撫でた時、いつもとは違う感じがしました。
まるで、何かが蠢くような――。
「何だ?」
神経を研ぎ澄ましますが、危険は感じません。ただ、万里子の腕時計の蓋の裏から僅かながら振動のようなものを感じるのです。
怪訝に思い眉をひそめたその時、カチリ――と小さな音を立てて蓋が開くと、シュルルルルルルと紅い糸のような物が噴き出しました。
噴出した糸はあっという間に空高く舞い上がると、くるくると回り始め、やがて人型を作ります。
身構えていたクラムルードは、段々と形作られる人型を見て構えを解き両手を広げました。
人型の中心に、紅く輝く石を見たのです。
やがて糸が柔らかな曲線を描く女性の形になったところで動きを止め、パチンと弾けました。
中から現れたのは万里子です。胸にしっかりと光篭を抱え、驚いたように目を見開いています。
「きゃああああ!?」
クラムルードは万里子の下に駆け込むと、一気に落ちてくる彼女を抱き止めました。
胸に強い衝撃を受けましたが、クラムルードは万里子を離す事はしませんでした。
本物かを確認するように、ぎゅうっと抱き締めてぬくもりを確かめます。ぎゅうぎゅうと顔を胸に押し付けられ、当の万里子は苦しくてもがいています。それでもクラムルードには彼女を離す事が出来ませんでした。
クラムルードの目にうっすらと涙が浮かびます。
「……ったく。お前は何で、いつも俺に体当たりしてくるんだ」
口ではそう言いながらも、涙でくぐもった声は優しく、抱き締める腕は緩みません。
「く、くるし……!」
新鮮な空気を求めて必死に顔を動かした万里子は、ようやく顔を横にする事が出来ました。
「く、クラム……あの……離……」
モゴモゴと恥ずかしそうに言った言葉は、行動で制されてしまいました。更に強く抱き締められ、万里子は顔から火が出そうです。それでもクラムルードに会えた事が嬉しくて、万里子はそっとクラムルードの背中に手を回しました。
どれ位の間そうしていたでしょう。やがてクラムルードがそっと腕を緩め、万里子の顔を覗き込みました。
万里子がチラリと上目遣いに見上げると、そこにはじっと自分を見詰めている紅い瞳があります。
急に心臓が煩くなって、万里子は思わず視線を下げてしまいました。
慌てて背中に回した手も離しましたが、クラムルードの手は背中に回されたままです。万里子は居心地が悪くて仕方がありませんでした。
「髪……」
「え? 何?」
頭の上でクラムルードの息遣いを感じます。万里子は視線を上げれそうもなく、ただ素っ気無く返事を返すしか出来ませんでした。
「灰色、似合わないな」
「自分がそうしたくせに……」
不満げに口を尖らせたのが分かったのでしょうか。頭の上でクラムルードがふっと笑みを零すのを感じました。
「お前はやっぱり黒髪がいい。――戻して、やろうか」
少し間が空き、声色が変わったクラムルードに、万里子の鼓動が跳ねました。
腕の中に万里子を閉じ込めたままのクラムルードには、そんな万里子の少しの変化が手に取るように分かりました。ほんの少し身体が固くなったのです。
髪色を変えた術の事を覚えているのだ――そう直感しました。となると、クラムルードの告白も覚えているはずです。その上で、こうして腕の中で大人しくしているという事は……クラムルードは頬を緩めました。
「……いいか?」
「あ、熱いのも、寝込むのも嫌なんだけど……」
万里子は術の方法を嫌だとは言いませんでした。思わず応える声も明るくなります。
「あの時お前の体内に送り込んだ術を、解くだけだ。別の術をかけるわけじゃないから、負担はかからないはずだ。だが、解く時も方法は一緒だ」
「それは……」
万里子の声が尻すぼみに小さくなり、後半は何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。
「構わないというなら、お前自身の意思で顔を上げてくれ。お前の気持ちを、ちゃんと知りたい」
困ったようにクラムルードの胸にオデコをグリグリと擦り付けていましたが、やがて万里子は決心したようでそっと顔を上げクラムルードを見上げました。
万里子の顔は真っ赤で、目が潤んでいます。クラムルードは嬉しくて仕方がありませんでした。
「お前も、俺と同じ気持ちだって言うなら、拒絶しないでくれ。返事は……目を、閉じてくれたらいい」
口をまごまごさせていた万里子は一瞬目を泳がせると、顔を上げたままそっと目を閉じました。
目を閉じたそのすぐ傍でクラムルードのホッとしたように息を吐くのを感じ、万里子は背中がむず痒くなるのを感じました。心臓はバクバクと煩い程です。
万里子の唇は緊張からか、きゅっと強く引き締められています。クラムルードは頬に添えた手をずらし、親指でそっと唇となぞりました。その感触に万里子はピクリと肩を揺らし、驚きで小さく声を洩らします。クラムルードはその瞬間を見逃さず、そっと口付けました。
* * *
その頃、イルーの神殿では万里子を迎えにライカが対話の鏡のある部屋を訪れておりました。
「姫様? そろそろお戻りに……」
対話の鏡の前には、誰もおりません。
「……姫様?」
部屋の中に足を踏み入れたライカは、全く人の気配が感じられない事に気が付きました。
「……これは……」
対話の鏡から少し離れた場所に、小さな長靴が片方だけ落ちています。それは、寒さの厳しいイルーでの生活の為、スティリカが用意させた万里子の長靴でした。
「行ってしまったのね」
ライカがそれを拾い上げたと同時に、背後から声が掛けられました。
入り口に立っていたのはスティリカです。言葉とは裏腹に、その顔立ちはなぜかスッキリとして見えました。
「はい。そのようです」
ライカはスティリカの問いに微笑みを浮かべたまま淡々と答えます。それがスティリカには少し面白くありませんでした。
「なぁに。可愛くないわね。万里ちゃんがあちらを選んだ事、悔しくないの? 私ライカならきっと万里ちゃんを気に入るだろうなって、それは本気で思っていたのよ?」
「悔しくないとか……そんな簡単な物ではありませんよ。確かに姫様はヤンテ神の依代である事を除いても、とても魅力的な女性でしたが……時折、とても寂しそうなお顔をなさるのです」
「それだけで手放しちゃったの?」
すると、いつも穏やかな笑みを浮かべているライカもさすがに口を尖らせました。
「姫君は私に対しては親愛の情しかありませんでしたよ。心の他の方がいらっしゃるのなら、私はそれ以上の事を望む事は出来ません」
「あーあ……残念」
「そんなに仰られるのであれば、何故あのジル殿のネックレスを返してしまわれたのですか。あのネックレスには様々な術がかけられておりました。いずれこうなる事は予想出来ていたはずです」
「そうねぇ……それでも、十七年一緒に居て親子のようなものだったから、私を選んでくれると思ったのよね……」
スティリカはしょんぼりと肩を落としました。
引っ込み思案だった万里子が、異世界で恋をした――万里子にかけられた術の痕を見る限り、相手はスティリカが最も考えたくなかった人物です。
(それでも、穏やかな生活よりも、彼の傍に戻る事を選んだのね)
姪っ子として、長く一緒に居た身としては、嬉しさと寂しさ心配と、心中は複雑です。
「それでもあなたの元から巣立ったのですよ。あの方がご自分で選んだ道です」
「そうねぇ……私も子離れしなきゃねぇ……」
「そうですよ。戻りましょう。ニコラを宥めるのが大変ですよ。彼女はそれはそれは残念がるでしょう」
嘆息するライカとは対照的に、なぜかスティリカの表情が明るくなりました。
「そうだわ。ライカ、ニコラはどう? あなたもあの子も私にとっては子供のようなもので――」
「子離れなさるのでは?」
「……分かったわよ」
スティリカは心底残念そうに溜息をつくと、二人は共に神殿を後にしました。