89.自覚
「伯母さん……? 結婚できないってどういう事?」
万里子は胸がドキドキと強く打つのを感じました。何かがチカッと脳裏をよぎりましたが、それが何か判明する前にすぐに姿を消してしまいます。
「やだ。誰ともってわけじゃないわよ? ただホラ……ヤンテの姫君というのは、国政をも動かす存在よ。スイルとガルディスの不穏な動きも、それが原因。だから、どこかの国の物になってはいけないの」
スティリカの話では、この世界唯一の信仰であるヤンテがどこかの所属になるのは更なる混乱を招くと言うのです。
「ラウリナの王都にヤンテ神殿があるけれど、あれはあくまでもヤンテの光が真上から降り注ぎ、ヤンテの影響を受けやすいというだけの話。万里ちゃん、あなた……クラムルード国王陛下の婚約者に仕立て上げられていると言ったわね。それは、誰かが強引に進めた事だったのではない?」
その言葉に万里子はハッと顔を上げました。
「いるのね?」
万里子の表情の変化を見逃すスティリカではありません。
「……グランデさんが……」
「――宰相閣下、か……。確かクラムルード国王陛下には、その宰相閣下が決めた婚約者が別に居たはずよね?」
「居る……。一度私のところに乗り込んで来て……でもグランデさんが私を守る為にも他国には婚約者としておく事が望ましいって」
グランデの言葉も尤もだと思えました。それはジャーレの事件があり、再び闇に包まれた後でしたからそう思ったのも仕方がありません。
ですが、こうしてスティリカの話を聞いていると、ジャーレの行動もミルファの計画も、グランデの助言も、結局は自分の手元に“ヤンテの姫君”を置いておきたかったに他ならないのです。
「万里ちゃん……私が言いたい事、分かるわね?」
その言葉に抗議するかのように再び、ピィ! ピィ! とラブルが鳴き、万里子はハッと我に返りました。
「あの……少し、考えさせて」
「――万里ちゃん。私、万里ちゃんのように引っ込み思案な子には、ライカのような子がお似合いだと思っているのよ」
「伯母さん……!」
驚いた万里子の視線の先で、ライカは穏やかな微笑みを見せました、
万里子は突然、何故彼がこの場に同席しているのか腑に落ちました。
「キリエ、急に言われて姫様も驚いていらっしゃいますよ。姫様、申し訳ありません。この件はあまり深く考えないでください。ひとまずはこちらの生活に慣れて、そしてこの世界についてもっとよく知って頂くのが大切です。私もお手伝いさせていただきますので」
スティリカはまだ何か言いたそうにしていましたが、万里子の顔色が思わしくないのを見て話を切り上げました。
ピィ ピィ
万里子は部屋でひとりになると、ギュッと光篭を抱き締めました。ピィ ピィ とラブルは鳴くのを止めません。
今のラブルは、もう何を言っているか分かりません。ですが、この事態を良く思っていないのは万里子にも分かりました。
「そんなに鳴かないでください……。私だって、素直に従うつもりはありません」
安心させるように光篭に向かってそう言いましたが、口に出した直後、それは自分に言い聞かせたかったのではないかと思えました。
ラウリナに戻らなければならないのは分かっています。我侭を言って飛び出してきた事に、沢山の人が協力してくれました。そして、“ヤンテの姫”の不在を隠しながら待っていてくれているのです。
ですが、その中にどれだけ“万里子自身”を見てくれている人が居るでしょう――。
信じられる人は勿論居ます。既に万里子の中では、沢山の顔を思い浮かべる事が出来ます。
それでも、戻ったら今は名目上とはいえ、あそこに居続ける限り、いずれは王妃の道を辿らねばなりません。
グランデの目論見に気付いた今、やはりあの場所は万里子の居場所にはなり得ないのだと思えました。
「ラブルさん……。私は利用しようとする人と、私自身を見てくれる人をきちんと区別できるかしら……。本来、人に対して区別するとか、やりたくないけど、この世界ではそんな事言ってられないのよね」
伯母の言う事が真実ならば、王族でも一族の長でもないライカを夫候補として勧めるのは分かります。ですが、ライカ自身はどのように考えているのでしょう……。結局はライカ自身が敬愛する伯母の考えに従っているだけなのではないかと、そう勘繰ってしまいます。
「分かんない……。分かんないよ。何が本音なんだろ……」
万里子は頭が混乱しました。
分かっているのです。全て、人に隠れて、流されるままにやって来た自分が悪いのだと分かっているのです。簡単に人を信用し、今まで居た世界とは違うと頭では分かっていながらも結果軽率な行動に出てしまう事も……。今まで自分自身で考えて行動してこなかった所為だと、万里子は悔やんでいました。
「朝食をお持ちしました」
結局昨晩はあのまま眠ってしまいました。目覚めると、一緒の寝台に居たはずのラブルの光篭はまた窓辺にかけられておりました。誰かが様子を見に来たのでしょうか。
「あ、ライカさん……いえ。あの……ありがとうございます」
「どうぞ」
言いかけて止めた万里子でしたが、ライカは穏やかな表情を崩す事なく笑顔で食事の用意を始めました。
「お手伝いいたしましょうか?」
「い、いえ……大丈夫です。ひとりで食べれます」
「そうですか。だいぶ顔色も良くなられましたよ。安心いたしました。今日は起き上がれそうですか?」
「はい」
「では、お食事の後は衣をご用意いたしますね」
「えっ」
昨日、ここでの生活はライカが手伝うと言いましたが、さすがに万里子は驚きの声を上げました。
「衣は、ニコラがご用意いたします」
「ニコラ……さん?」
どこかで名前を聞いたような気がして首をかしげると、ライカは丁寧に説明をしてくれました。
「キリエの身の回りのお世話をしている助手の女性です。とても信心深い人で、幼い頃よりキリエに心酔しておりました。王都での式典にも一緒に行っておりましたよ」
万里子はレグゼスから聞いた助手の女性の事を思い出しました。
「あ! はい。少しだけ、お話しました」
「ほう……そうでしたか」
「はい。その時に鞄が入れ替わってしまって……」
危うく、ニコラの日記の存在を言いそうになり、慌てて口を噤みます。あの日記が無ければ儀式に疑問を持つ事も無かったでしょう。そう考えると、なんだか不思議でした。
「ああ……。そうでしたね。キリエはあなたの書かれた帳面を楽しそうにご覧になっておりましたよ」
「……え? 私が書いた帳面?」
「ええ……入れ違いになった鞄の中に、貴方の書いた帳面を見つけ、イルー人のマールに成りすまそうとしていた事を知ったのですよ。残念ながら私には読めませんでした。あれはキリエと共に潜伏していた世界の言葉ですか?」
ライカの言葉が何を指しているのかが分かり、万里子は驚きました。
入れ替わった鞄にはルヴェルからもらった豪華な衣や、ジルからもらった対話の鏡のネックレス等が入っており、それらを失くしてしまったのがショックで、万里子は自分で書いたメモ帳の存在を忘れていました。
あれは、誰が見ても読めないようにと日本語で書いたものでした。この世界での常識、振舞い方、そしてマールの影として存在する為の設定……細かく書いていたのです。一緒に日本に居た伯母には読めて当然です。
「キリエはとても悲しんでいらっしゃいましたよ。このようなご苦労をさせるためにお守りしてきたのではないと……。キリエのお気持ち、幼い頃よりご一緒だった姫様にはお分かりでしょう? 私の事はともかく、キリエのお近くに居てくださいませんか」
その日からの毎日は、不思議な程にとても穏やかに過ぎていきました。
スティリカはとても忙しそうにしておりましたが、食事は必ず万里子と一緒にとってくれました。ニコラはおっちょこちょいな面がありますが、とても真面目で楽しい人でした。
それに――。
「姫様。今夜はとても星が綺麗ですよ。少し星詠みの勉強をなさいませんか」
いつも微笑みを絶やさずに穏やかな口調で話すライカの独特の雰囲気に、万里子の緊張はほどなく解れていき、彼と過ごす時間はとても楽しく気負わずにいられました。
「はい。行きます」
すぐに立ち上がった万里子に、ライカが分厚いマントを羽織らせます。
「外はとても寒いですからね。きちんと着てから出かけましょう」
スティリカはそんな二人を微笑みながら見送りました。
ライカの言葉はどこまでも優しく、不安定な万里子を支え、心細く思う時には手を差し伸べてくれます。万里子はライカをとても好ましく思っておりました。
ですがその反面、胸に燻る想いもまた、日に日に大きくなっていくのです。
一日が終わり、ニコラが返してくれた鞄からメモ帳を取り出すと、万里子はスティリカやニコラ、そしてライカに教わった事を書き留めました。そうして一日一日を振り返っていると、どうしても思い浮かべる顔がありました。
(なんで……なんで私クラムルードなんか思い出しちゃうんだろう……)
思い出すのは、人を射殺せるかと思える程に紅く燃える瞳でこちらを睨みつけるクラムルードです。怖い位真剣で、むかつく位目つきが悪くて、燃やされてしまいそうな程熱い眼差し……。逃げようにも、がっちりとクラムルードの大きな手が万里子の肩を掴んでいます。怖いと思うのに、その視線からは目が離せません。そしてクラムルードが何か言おうと口を開けかけたところで、プツリとその映像は途切れるのです。
今まで何度も喧嘩をしましたが、クラムルードがあんな表情をした事はありません。ましてや、万里子の肩を力任せに掴んで動けなくする事などありませんでした。それなのに、どうしてその表情が頭から離れないのでしょう……。万里子は頭を振ると、休む事にしました。手元に戻ってきたジルのネックレスを外し、寝台の横に置きます。ラブルに挨拶すると、ラブルは光篭の中からピィと返事をしました。
見た事の無い表情、何かを言いかけて消える映像、胸に燻り続ける想い――それが一気に燃えあがったのは、対話の鏡でジルと話した日の事でした。
対話の鏡はライカの勤める神殿にあり、ライカの勧めもあって時折使わせてもらっておりました。
大神官としてヤンテ神殿で仕事をしているジルはとても忙しそうでしたが、それでも万里子の為に時間を作ってくれます。申し訳ないと思いながらも、皆の事が気になっていた万里子はこの日もラブルが入った光篭を携えて対話の鏡でジルを呼び出すと、宮殿の様子を尋ねました。
『皆、うまくやっておりますよ。まだマールが居なくなったと気付く者はおりません。女王の棟への訪問者は、セシュラやレニーが上手くやっているようです』
「我侭を言ってすみませんでした」
『そんなに謝らないでください。マールが優しいのをいいことに、あっちへこっちへと連れまわす羽目になってしまった……あなたが本当の居場所が欲しいと言ったと聞いた時……胸が痛みました。守りたかったのに、結局は犠牲にしてしまった』
はて、自分はそんな事を言っただろうか……いつ? 誰に? 万里子は不思議そうに首を傾げました。その様子に、ジルは苦笑しています。
『陛下が、あなたを苦しみを知って我々を集めたのですよ』
「……え? クラムが……?」
『ええ……サイナで真面目に修行をしていたルヴェル殿まで引っ張り出してね。凍った海を渡る方法をなんとしても考えろ。と』
ドクン、と胸が大きく打ちました。胸の中で燻っていたもの熱く身体を駆け巡ります。
『陛下は、あなたがあなたらしく居られるのならば、キリエの元から戻らずとも仕方が無いと……。あなたの不在は遅かれ早かれ次の儀式には公表するお考えのようです』
「え……」
『なんとも極端な方ですね。今、寝る間を惜しんで仕事をしておりますよ。ヤンテの姫君がひとり居ないだけで潰れる国してたまるか! だそうです』
万里子は何と返事をしていいか分かりませんでした。自由なんだ、そう思っても、何か物悲しいのです。何かが熱く喉元に込み上げてきて上手く言葉にならないのです。
そんな万里子を見て、ジルはそっと溜息をつきました。
『いいのですか? 陛下があなたを手放すという事は……グランデの勧め通り、ムムカと結婚してしまうという事ですよ』
万里子はハッと顔を上げました。
『強く、願いなさい。あなたが今、本当に居たいのはどこなのか』
その言葉を最後に、ジルの姿は鏡から消えてしまいました。
「思い出した……なんで、なんで忘れてたんだろう……」
クラムルードがどうしてあんな必死な顔をしていたのか、万里子の肩を強く掴んで、何を言ったのか……胸の中の燻りは一気に燃え上がって、万里子を包みました。
『俺がお前に居て欲しいと思う。それでは答えにはならないか。――好きだ』
熱い涙がボロボロと零れてきます。ピィピィと光篭からラブルも心配そうに鳴きました。
「どうしよう……私も、私もクラムが好きだったんだ……」
万里子は光篭をぎゅうっと抱き締めると、声を上げて泣きました。
今になって自覚するなんて……想いの叶わない相手だと、分かった今になって。
それでも万里子は会いたいと、そう願ってしまいました。
(クラムに、会いたい……!)
その瞬間、胸元のネックレスからまばゆい光が発し、万里子を包み込みました。